D 全・東京湾

● 著者 :中村征夫(なかむら・いくお)

 ● 出版社:新潮社(新潮文庫)

 ● コメント:10年以上前になると思うけれど,民放テレビで「幻・東京湾」というドキュメンタリーが放送された。この番組の中で「アオちゃん」と呼ばれる船長が自分で東京湾に潜って撮影した映像は,それはそれは美しかった。湾奥の汚れた海も出てきはしたが,全体としては東京湾もまだまだ捨てたもんじゃない,という印象を強く受けたものだ。対して,この「全・東京湾」には,大方の予想通りの,今日の東京湾の真実が描かれている。名の知れた水中写真家である筆者ならいくらでも美しい写真が撮れるのだろうが,本書第1章の東京湾の海中撮影に登場するのは,主にグロテスクなカニやら貝やらのたぐいである。巻末に,筆者の友人であるC.W.ニコルの寄せた文章がある。筆者はニコル氏を誘い,あえて大阪湾に潜った。「彼は,この私に海が闘っている姿を見せたかったのだ」とニコル氏は述べている。生き物だけではない。汚れた海であれ,そこに生きる人々にとっては,かけがえのない職場となる。本書は海中写真のアルバムというよりも,今日の東京湾で暮らす人たちの生活のルポの方に重点が置かれており,その筆致のリアリティに胸を打たれる。

きれいな熱帯魚を愛でるダイバーはいくらでもいる。東京湾に住む醜いイッカククモガニに愛着を寄せる筆者の,海とそこに生きる生物たちの営みを見つめてきた心底の魚好きの目が,本書の写真に説得力を持たせている。なお,筆者は「椎名誠とあやしい探検隊」のメンバーで,テレビにもしばしば登場する有名人であることは周知のとおり。