釣り始めてから4時間余り。スカリ(魚篭)には35センチほどのコブダイが1尾入っている。最初の何投めかで釣れたものだ。その後,当たりはない。

寒い。波止の上には,先日降った雪が残っている。季節は2月の終わり。晴れてはいるが,北西の季節風が頬に冷たい。秋には小アジやサヨリ釣りで賑わったこの波止にも,今の時期は人の気配はない。こうして朝からじっと座っていると,時間が止まったような感じがする。

糸をたぐって仕掛けを引き上げる。カキガラを金槌で砕いて足元に撒く。サシエのカキの殻を半分割り,中の白い身に鈎を刺す。足元の水面へ静かに落とす。鈎を忍ばせた殻付きのカキが,暗い海の中へゆらゆらと沈んでいく。着底までおよそ10秒。全神経を集中する。5分ほど当たりがなければ,また仕掛けを上げて同じ動作を繰り返す。単調な作業だが,飽きはこない。

真冬の釣りでは,当たりはめったに来ない。しかし,半日釣れば必ず一度は時合いが訪れる。その時合いをじっと待つ。まもなく昼。満潮が近い。過去の経験から,満潮の前後に釣れる確率が高い。その,一日にわずか数回の当たりを,ひたすら待つ。

待ちながら,夕食のことを考える。コブダイの食味は人によって好みが分かれるが,わが家では評判がいい。朝のうちに磯に降りて,ワカメも採っておいた。まだ少し時期が早いが,一家で食べるにはひと株で十分だ。カキもある。夕食用に少し残しておく。とりあえず今夜は,コブダイの刺し身が食べられる。カキは,ワカメをたっぷり入れて卵を散らしたすまし汁にしようか。欲を言えば,アイナメが1尾ほしい。この時期は,運がよくないとチヌは難しい。釣れるとしたらアイナメだろう。

この釣りでは,食べる分以上に釣れることは少ない。魚に半日遊んでもらって,四人家族の夕食のおかずがどうにか手に入る。自然の餌とシンプルな仕掛けの素朴な釣り。子供の頃,掛け軸や屏風に墨絵で描いてある釣りの風情に憧れた。昔の釣りは,たぶんこんな感じだったのだろう。

満潮が近づき,水面が足元1メートルくらいのところに迫ってくる。手を伸ばせば届きそうな高さから,鈎を埋め込んだカキを落とし込む。竿を握る。カキは静かに沈み,底に近づくにつれて道糸に張りが出てくる。竿先にカキの重みが伝わる。もう少しで底に着く。

今,着定した。その瞬間,「コツ」という小さく確かな魚信が手元に伝わる。反射的に,竿を握った左腕が垂直に跳ね上がる。掛かった。5尺(1m50cm)の軟調イカダ竿が,釣り鈎のような角度でたわむ。足元10メートルほど下に,別の世界がある。その深みから,鈎掛かりした魚の全身の躍動が左手に伝わってくる。小さな魚ではない。素早く右手をリールに添えて,巻き上げを開始する。魚は岸壁にもぐりこむようにして抵抗する。どうやら,狙いのアイナメのようだ。岸壁にはびっしりカキが生えている。カキの殻に道糸が触れたら,一発で切れてしまう。両腕をいっぱいに前に突き出して,一気にリールを巻く。アイナメ特有の,頭を振るゴツゴツした動きが心地良い。あと2メートルほど。ここまで引き上げれば,まずバラシはない。アメ色の魚体が,身をくねらせながら水面に近づいてくる。大型のアイナメはまるでウナギのように見えることもあるが,そこまで大きくはない。30センチを少し超えるくらいか。抜き上げてもいいが,念のために落とし網で慎重にすくう。

網に入ったアイナメをしばらく眺める。産卵から体力を回復する時期のせいか,いわゆるビール瓶級と言うほどには太っていない。検寸32センチ。刺し身にするには十分だろう。方針変更。今日の献立はアイナメのお造りに,コブダイの切り身とカキのフライ,それにワカメの味噌汁にしよう。アイナメをスカリに入れて,一息入れる。さて,今日はこれからどうしようか。今が時合いのようだ。もう少し釣れば,あと1尾や2尾は追加できるかもしれない。・・・しかし,今日はもう納竿することにする。2尾釣れれば十分だ。食べる以上に釣る必要はない。一度にたくさん釣りすぎるより,楽しみは次回に残しておこう。

ちょうど昼になった。ラーメンが食べたい。帰り道に,尾道の名店の出店がある。あそこで熱いラーメンを食べよう。帰って昼寝して,4時ころから夕食の支度だ。ビールと焼酎も買って帰ろう ---