最終更新日: 2003/09/18

 

〜嗚呼,釣り人生(その1)〜

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かぶせ釣りのシーズンオフで釣り日記も低調なので,代わりにエッセイなど書いてみました。なんか自叙伝ふうですが,そういうものを書こうとしたわけではないのであります。狙いとしては,わたくしと同世代の皆さんのノスタルジーをくすぐってみようかな,と(笑)。なお,このエッセイは不定期で更新します。


 

 

 

若い頃好きだった曲の一つに,みなみらんぼうの歌った「野球人生」がある。

高校時代は ショートで八番
夢にまで見た甲子園だけど もう一息で 泡と消えた 青春
何より小さな 体のくせして
プロのテストを受けるなんて無茶な話さ 勿論 落っこちて
三年目にやっと テストに合格
二軍暮らしの明け暮ればかりで七年が過ぎて ようやく一軍へ

優勝をかけた 大事な一戦は
九回裏のツーダン満塁 観衆は総立ち 逆転の大チャンス
内角高めを真しんに捕らえて 
打った打球はレフトへレフトへ あーっ・・・・・・・・・
わずかに切れて ファウル

四十八打席で 五安打九三振
こんな記録を残して男はプロ野球を去った
行くあても ないまま

何年か過ぎた ある小さな町の
少年野球に 名物のアンパイアがいる
彼の過去を 誰も知らない
ああ 野球人生 野球人生 ああ野球人生 野球人生 ・・・・・・・・・

自分の釣り人生も,こんなふうでありたい。
いっときでもスポットライトを浴びたい?--- いやいや。
何らかの形で一生釣りにかかわっていたい,というだけの話だ。
これから先,年を取れば行動範囲も限られてくる。
できることなら,死ぬ間際まで自転車をこいで近くの干潟や入り川へ行って,

ハゼでも釣って暮らせたらなー,とかね。


子供の頃の遊びの記憶は,「水」とかかわりがあるものが多い。たとえば・・・
幼稚園に上がる前後の3〜4歳くらいの頃,まだ我が家は建っておらず,

うちの一家は母の実家(おばあちゃんの家)で暮らしていた。
その家の目の前には,道路をはさんで石垣造りの用水路(ドブ川)があった。
道路の幅も川の幅も1.5mくらいで,向かいは風呂屋さんだった。
家で服を全部脱いで,目の前の風呂屋へ裸で駆け込んでいた記憶がある。
その川は,生活廃水が流れ込む,あまりきれいな川ではなかった。
それでも当時の川は生活の一部になっていて,おしめやナベを洗ったりしていた。
石積みの護岸のすきまには,方言でアカメンと言う
ベンケイガニがたくさんいた。
これを釣って遊んでいたのが,一番小さい頃の釣りの思い出だ。
短い棒の先に木綿糸,その糸の先に親指の爪ほどの真綿の切れ端をくくりつけ,
水に濡らして石のスキマでユラユラ動かすと,カニは外敵だと思って追い払おうとする。
そのうち真綿の繊維にハサミが引っ掛かって釣り上げられる。
他愛ない遊びだが,これが面白かった。

当時の生活の記憶は,あまり残っていない。
断片的に覚えているのは,おばあちゃんの家の近くに共同井戸があって,

飲み水はそこで汲んでいたこと。それから,近くに映画館があったこと。
そのあたりは今はひっそりした住宅街だが,当時は繁華街の賑わいがあった。
小学校がわりと近かったこともあって,路地には子供が大勢いた。
紙芝居屋さんも来た。内容は覚えていないが,水飴をなめながら見ていた。
それから,
夏の夜店。当時どこの街でもそうだったように,地域生活は
商店街での地産地消的な営みを中心に回っていた。
八百屋,果物屋,魚屋,肉屋,タバコ屋,米屋,金物屋,床屋,病院,呉服屋,
靴屋,眼鏡屋,写真屋,食堂,本屋・・・。
夏の夜の土曜日になると,商店街はそのまま夜店の屋台になり,香具師を交えて
通りは延々と地域の人々で埋め尽くされた。

遊びの方は,まだ幼稚園に上がる前で男友達はおらず,近所のお姉ちゃんに
遊んでもらっていた。両親は仕事に出ていたので,おばあちゃんの付き添いで
近くの川へもよく行った。
田んぼの中を流れる小川へ行き,メダカやフナをすくって遊んだ。
この頃はまだ,春にはレンゲや菜の花が一面に咲く田園が広がっていた。
夏には,近くの畑で採れたサトウキビをおやつ代わりに食べた。
食べるものと言えば,スキヤキを覚えている。肉は鶏モツで,

鶏の内臓や卵の黄身だけみたいなのを野菜と一緒に甘辛く煮た料理だった。

この料理は,もしかしたらモツ鍋と言うのかもしれない。


幼稚園に上がり,うちの一家も新築の家に移り,親子三人の暮らしが始まった。
転居を機に母は勤めをやめ,自宅の一部を使って八百屋(食料雑貨店)を始めた。
近所には同じ幼稚園へ通う仲間ができ,毎日文字どおり泥にまみれて遊び回った。
自宅近くは住宅と田んぼが入り混じり,田んぼに水を引く幅1mほどの用水路が,
ぼくらの主な遊び場だった。この当時は十分きれいな川で,マツモなどの水草が

びっしり茂っていた(数年後にはドブ川に変わったが)。
この川では網で魚をすくったり,笹舟を流して遊んだりした。

 

近所の友達の家へ遊びに行ったとき,池の魚を見てびっくりした。

そこには,巨大な金魚がいた。

夜店で売っている普通の金魚がそのまま大きくなった姿をしていた。

聞くと,もともとは夜店ですくってきた普通の小赤やデメキンだったと言う。

エサが違うのだそうだ。エサは,近くのドブ川で捕ったイトミミズ。

確かに,近所のドブ川を覘くと,イトミミズはうようよいる。

これをエサにして育てれば,普通の金魚が20cmを超えるようなサイズになるそうだ。

自分でもやってみたかったが,あいにく新築当時に造ったうちの庭の池は,もう

埋められていた。この池ではコイや金魚を飼っていたが,野良猫に襲われるからだ。

池のほかに,セメント造りのタタミ半畳分くらいの浅い水槽もあった。

この水槽では,メダカやフナなど近所で採った魚を飼っていた。

当時から,魚を飼ったり眺めたりするのが好きだった。


 

うちの家の裏には空き地が広がっていて,そこには大きな砂山があった。

砂はコンクリートに使う海砂で,時々トラックが運び出していた。

普段は誰もいないので,そこが子供らの遊び場だった。

その頃毎日やっていたのが,砂山から貝殻を掘り出して集める遊びだ。

海の砂だから,いろんな貝殻が入っている。

一番多かったのがホタテ貝の仲間で,直径10cmくらいのふくらんだ殻と

真っ赤な放射線の入った平らな殻が砂の中からたくさん出てきた。

図鑑で見るようなきれいな巻貝や,大きなタイラギの殻もあった。

一時これらの貝殻を集めて,コレクションを作っていた。

水洗いして乾かし,ラッカーを塗ると色が映える。

段ボール箱に山ほど集めていたが,いつの間にかなくなってしまった。

 

この頃は,住宅地・田んぼ・空き地の面積がそれぞれ同じくらい,

と言えるほど,近所の至る所に空き地があった。

空き地には2種類あって,一つは建築資材置き場などの管理された空き地,

もう一つは草ぼうぼうの単なる原っぱだ。どちらも子供の遊び場だった。

ドラえもんのアニメとかに出てくる「土管」も,当時はあった。

時代は昭和30年代後半。高度成長期に向かいつつある世の中で,

激変する住環境を間近に見ながらぼくらは子供時代を過ごした。

 

子供らは近所の空き地で遊んで,夕飯どきになるとそれぞれの家へ帰る。

時刻は遅くとも夕方6時。外が明るくても,それまでには必ず家へ帰った。

もちろん,テレビを見るためだ。

うちの家が白黒テレビを買って間もなく,ぼくらが小学2年生くらいの頃に,

鉄腕アトム」の放送が始まった。

最初の放送をテレビの前で待っていたら,画面に短パンの男の子が二人出てきた。

「これがアトム?」と思ったら,「ヤン坊マー坊の天気予報」だった。

その頃はテレビアニメの黎明期で,ほとんど毎日夕方はアニメの時間だった。

鉄人28号,エイトマン,狼少年ケン,風のフジ丸,スーパージェッター・・・

アニメ以外では,ひょっこりひょうたん島,隠密剣士,てなもんや三度傘,

お笑い三人組,七人の刑事・・・40代以上の人にしかわからんじゃろなー。

当時のアニメはスポンサーの宣伝が主題歌の中に入っていたりして,

アトムと言えば上原ゆかりのCMによるマーブルチョコレート(明治製菓),

エイトマンと言えば「のりたま」(丸美屋)・・・という具合に,昔の子供が

アニメに洗脳された度合いというのは,全く今の子供の比ではなかった。

だからこそ,カラオケに古いアニメの主題歌が一杯入っているわけだ。

 

 

その頃は,やたらと物を集めることが子供の間に流行っていた。

アニメのシールやワッペン。グリコのおまけ。プラモデル。切手に古銭。

昆虫採集,押し花,貝殻・・・何でも集めた。

極めつけは,「東海道五十三次」の絵柄のマッチ箱だ。

同じ絵は,永谷園のふりかけやお茶漬けの元のオマケにもついていた。

全部集めるのが夢だったが,どうしてもいつくか手に入らない絵がある。

そういう,手に入らないから余計に欲しくなるものがたくさんあった。

森永のチョコボールで当たりが出たらもらえる「おもちゃの缶詰」もそうだ。

結局手に入らなかったのが悔しい。

 

集めた昆虫や貝の名前は図鑑で調べるので,そういうことには詳しくなる。

今ふうに言えばトリビア的な,ムダな知識をやたら頭に詰め込んでいた。

今振り返ってみると,そんな行動もまるでムダじゃなかったと思う。

昆虫や貝の名前なんか今ではほとんど覚えちゃいないが,そういう

「頭の使い方」が今の自分の仕事や生活の中にも生きている。

 

最近の子供はゲームや芸能人の知識にはやたら詳しいが,

いわゆる「世間の常識」みたいなものにまるで弱い。

小学6年生のうちの娘に,たとえばこんな質問をしてみる。

 

「カレーの本場と言えば,どこの国?」

「幼虫は地中で7年暮らして,成虫は1週間しか生きられない昆虫は何?」

「子供の頃桜の枝を折って,正直に謝ってほめられたアメリカの大統領は誰?」

 

ひとつも答えられん。たぶん,うちの娘だけじゃあるまい。(そうか?)

そんな知識があったって何の役に立つのか?と言われたら確かにそうだが。

でも,何かなあ・・・

ちなみにその小6の娘は,中学受験が近いというのに,こんな質問にも答えられない。

 

「中国地方で一番大きな川の名前は?」

「北極星を探すのに使う,ひしゃく形をした7つの星の名前は?」

「消費税が20円の品物の定価は何円?」

 

あ,これはうちの娘だけか。まいったね,どうも。

 

 

小学校の頃の思い出と言えば,いろんな行事が頭に浮かぶ。

今にして思えば,ヘンな行事もいろいろあった。

たとえば,学校の講堂で大道芸(?)を見せられた覚えがある。

そこに登場したのは「本物の忍者」だった(!)

数字をずらっと書いた黒板を一瞬見ただけで全部覚えるとか,

今で言うとMr.マリックとかの芸に近いものだった。

子供心には,確かに「すげ−!」と思いはした。

しかし,学校は何の目的であんなモノを見せたのか,いまだに謎だ。

それから,「みんなで映画館へ映画を見に行く」という行事もあった。

今では想像もできまいが,松永という人口3万人ほどの小さな町にも,

覚えているだけで3つの映画館があった。

その中の1つは,うちの家のすぐ近くだった。

学校から全員で並んでこの映画館へ歩いて行き,アニメーション映画を見た。

何回か行った気もするが,今でも覚えているのは東映の「猿飛佐助」だ。

映画のアニメーションは当時のテレビアニメに比べるとケタ違いに多いセル画を

使っているため,(ディズニー映画と同様に)人間や動物の動きが一種独特で,

幻想的な雰囲気のものだった。

映画館で映画を見るというのは子供にとっては一種の冒険で,

真っ暗い映画館を出て明るい日常に引き戻されたときのギャップが,最高に

好きだった。(場所は定かでないがたぶん)駅前の映画館で「トラ・トラ・

トラ」を見たときは,子供のココロは映画の中の戦争にどっぷり浸ってしまい,

映画館を出たとたんに平和な日常に囲まれて感激したのを覚えている。

しかしぼくらが小学校高学年になる頃には,近所の映画館は全部閉館していた。

うちの近くの映画館の裏には,古くなったフィルムを焼く焼却炉があった。

燃え残ったフィルムを空にかざすと,カラースライドのように映像が見えた。

これも一時集めていた。銭湯の映画のポスターも印象深い。

大人が見るような映画を映画館で見ることはなかったが,ポスターに出てくる

宝塚ふうの映画スターの写真と,ちょっと不気味なロゴが好きだった。

「風速四十米」とか,内容はわからんけど見てみたい,と思うのが多かった。

 

テレビでは洋画や日本映画を時々やっていた。コンバットや名犬ラッシーや

サンダーバードが好きな友達もいたが,ぼくはアメリカの番組はあんまり

好きになれなかった。ポパイやトムとジェリーは見ていたが。

テレビの映画は時間帯が遅くなるせいもあって,途中で寝ることが多かった。

その中で,思わず最後まで見て,あまりの怖さに寝付けない映画があった。

日本映画で,たしか「マタンゴ」というタイトルじゃなかったかと思う。

探検隊かなんかが未開の島で遭難して,マタンゴという美味そうなキノコを

発見する。それを食べるグループと,危ないからと食べないグループとができる。

食べた連中はやがて,キノコに変身していく。残ったメンバーも空腹のあまり

そのキノコを次々に食べるようになって・・・もしかしてレンタルビデオに

あるかもしれないので結末は伏せるが,あれが子供の頃の一番怖い思い出だ。

 

 

学校行事で,低学年の頃に行った理科の実習の潮干狩りもよく覚えている。

ぼくらの通う今津小学校の木造校舎は,本郷川というわりと大きい川のほとりに建っていた。

その川に沿って下流へ歩いて行くと,10分ほどで海沿いを走る山陽本線の鉄橋に出る。

その向こうに小さな堰があって,そこから先は海だ。

海とは言っても松永湾の最奥部なので,干潟が延々と続いている。

川土手に沿って道路の南端まで出て干潟に下りると,潮干狩りのできる浜がある。

夏になると家族でよく潮干狩りに行ったが,小学校の実習でも一度だけ行った。

この頃はまだまだ海もきれいで,泥と砂が半々という感じの干潟だった。

浜で採ったのはもちろん主にアサリだが,赤貝もちょくちょく混じっていた。

ハマグリは,子供が採れるような場所にはまずなかった。

潮干狩りには手網を持って行くので,魚も採った。

ハゼも多かったが,何と言ってもエビが一番多かった。

干潟のところどころに杭が打ってあって,その周りが少し窪んで水溜りのように

なっているところがある。その窪みを網ですくうと,小エビがいくらでも採れた。

大人にシャコの穴を教えてもらって,その穴に足を突っ込んでグリグリやると,

別の穴からシャコが飛び出してくる。それをつかまえる。

浅瀬には,手の平くらいのマコガレイの子が網ですくえるほどいた。

 

エビで思い出したが,これも小学校低学年の頃だったと思う。

父に連れられて,夜にエビをすくいに行ったことがある。

記憶が正確でないが,確か塩田のような所だった。

堰のようなもので海と隔てられた,海水の入り込む池があった。

潮が満ちてくると,その池へ海水が流れ込む。

その流れに,クルマエビくらいの大きさの,ヨシエビの群れが乗ってくる。

水際でカーバイトの明かりを焚きながら,大きな網でそのエビをすくう。

カーバイトの臭いは強烈で,今でも好きでない。

エビはビュンビュン泳いでいくので,素早くすくわないと網に入らない。

それでも,半夜で数十匹くらいはすくえたと思う。

ヨシエビは,「地えび」とか「よりえび」という名前で普通に売られている。

大きいものは,正月のおせち料理で例年使う。クルマエビより美味いかも。

今でも干潟に行って網ですくえば多少は獲れるが,型は昔とは比べ物にならない。

釣りのエサにも使えないほど小さいのしか獲れない。

水槽で飼えばそれなりに楽しめるので,今でも時々採りに行っている。

 

 

小学校の目の前にある本郷川は,もちろん子供らの遊び場だった。

一時プラモデルのモータボートを使ったレース遊びが流行って,

川に浸かって遊んでいた。浅い川なので,泳いだ記憶はない。

しかし,釣りはよくやった。

小学校の近くの文房具屋には,安物の竹竿や釣り針も売っていた。

2mほどの竿に,ナイロンハリス,ウキゴム,オモリ,トウガラシウキ。

ハリは赤虫バリ。エサは土手や畑で掘ったドバミミズ。

この仕掛けで,魚はいくらでも釣れた。

当時の川にいたのはほとんどハヤ(オイカワ)で,

川に下りて網ですくったりもした。

小川からの流れ込みのあたりに魚は群れているが,

子供の反射神経ではほとんど捕獲は難しかった。

小さいやつを網ですくって家の水槽で飼ってみたが,

ハヤは流れのある川でしか生きられないらしく,たいていすぐ死んだ。

そうやって死んだ魚は,ネコのエサになった。

ただし魚が釣れるのは夏ごろが中心で,寒い時期は全く釣れない。

冬に川の近くの友達の家へ遊びに行ったとき,石造りの小さな橋の上から

下の川をのぞくと,澱みに大きなフナがいた。じっとして動かない。

友達に釣り竿を借りて,そこらへんの畑でミミズを掘り,

フナのちょうど鼻先にミミズを落としてみたが,ピクリとも反応しない。

冬眠中だったせいだろう。

海の中でも,冬にはたぶん同じことが起こっているんだろうと思う。

 

アウトドアの本には,昔の子供の遊びで「かいぼり」というのがよく出てくる。

石を積んで川をせき止めて,魚をその囲った水溜りへ追い込んで獲る遊びだ。

残念ながら,この遊びをやった記憶はない。

真夏は川の水が涸れることがあって,水溜りに大きな魚が溜まっていた。

ただ,その時期は草ボウボウの蛇ウヨウヨなので,川へ入る勇気はなかった。

ある日,小学校の前の橋の下から川をのぞくと,コイをスマートにしたような

大きな魚の群れが川を上っていた。ふだんはハヤしか見たことのない川に巨大な

魚が現れたので,ぼくらは興奮した。

「ありゃ,何じゃろうか?」

「タイか?」

「いや,ぜんぜん違う」

「サバじゃないんか?」

「ブリかもしれん」

もちろん正体はボラだが,海の魚をよく知らない子供にはわからない。

そのときはもちろん,「いつか絶対あの魚を釣っちゃる」と少年は思ったのだった。

 

網で魚をすくいながら川を上流から下流へ歩いて下る遊びは,よくやった。

ただ,子供心に「ここから先へ行くのは怖い」と思わせる境界線があった。

小学校の前から数十mほど下流は,潮が満ちると海水が入ってくる。

そのあたりは川幅も広く葦がびっしり茂っていて,川岸の葦の茂みには

魚が群れているだろうと思われた。ただ,そこらへんは子供の腰かそれ

以上の水深があって,下手をすると溺れるおそれがあった。

それ以上に,川の下流の汽水域では,川をとりまく風景が一変する。

大人の背丈ほどもある葦の茂みも,潮の匂いも,干潟の始まりをくっきり

示すように川岸の泥にびっしり開いたカニの穴も,

「ここから向こうは海じゃ」

「海は怖いけ,子供は海で遊んだらいけん」

というようなことを,親から叩き込まれていたのだ。

そのあたりをさらに100mほど下ると山陽本線の鉄橋があって,その向こうに

低い堰があった。潮が満ちてくると,堰を越えて海水が川を上ってくる。

堰の向こうは深みになっていて,そのへんで水に入ったら絶対いけん,と

親から言われていた。昔,子供が溺れて死んだことがあるそうだ。

潮干狩りに行くと,潮が満ちてくるとすぐ陸に上がれと言われた。

沖の干潟に取り残されて死んだ子供がいたと言う。やたら死んだ話が多い。

そういうわけで,「海は危ない場所だ」と親から聞いて育っているので,

ぼくらが小学校低学年の頃は,子供らだけで海へ行くことはなかった。

そのへんが「われは海の子」の世界とはだいぶ違うわけで,

今思えば小さい子供らにとって,海は「近くて遠い世界」だった。

 

しかし,子供は成長する。

川でしか遊んだことのなかったぼくらも,4年生くらいの頃からだんだん

「堰の向こう」へ足を伸ばすようになっていく。

 

(次回につづく)

 

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