2002年12月25日 up

〜 10万ヒット記念エッセイ  (作:倉敷のマサさん) 〜


                『 落としダモ 』

私がかぶせ釣りをしようと決意してから、ちょうど丸2年がたちました。
一昨年の今頃ですね、かぶせ釣りの道具を集めに走り回っていたのは。

「決意」というのは大げさだと思われるかも知れませんが、それまで、
「のべ竿を使い、短時間でハゼ(良型を含む)を数釣る」というのが
ほとんど唯一の私の得意技であったわけですから、30センチオーバーの

魚など釣ったこともなければ、チヌなど当歳魚がハゼの外道で掛かるくらいで、

まず釣ったことがなかったわけです。
50センチや60センチの魚など、想像も及びませんでした。

最も「決意」を必要としたのが、「落としダモ」です。

そもそも、このあたりにはほとんど売っていないのですが、
「網ですくわなくては上がらない魚」というのがイメージできません。
「釣り師」と称する方はたいてい持っておられる普通のタモさえ、

必要としたこともなければ、さわったこともなかったのですから。

探し回っているうちに、ある店で、やっと一つだけ見つかります。
「これです」と、店員さんが指さした「落としダモ」。
組み立ててみますと、一辺が60センチ位のほぼ正方形。
材質はアルミ。
網の目の粗いこと!
今まで釣っていた魚なら、網の目から落ちてしまいそう!

店員さんが行った後も、落としダモを前に、じっと考えていました。

「ワシ、ほんまにかぶせ釣りできるんじゃろうか・・・。広島県じゃけえできることで、

岡山県じゃあできんのんじゃあなかろうか・・・。できもせんで、こうなもん持っとっても、

ふうが悪いで・・・。」

30分ほど、落としダモを持ったまま、立ちつくして考えていました。

そして、腹をくくります。

「やる!!」

私が「決意」した理由の一つに、「広島県出身」というのがあることは確かです。
私は今まで、京都、大阪、笠岡に住み、現在岡山県倉敷市玉島に定住していますが、
故郷(ふるさと)広島県福山に対する望郷の念と、海への渇望が消えることはありま
せんでした。

京都に住んでいるとき等、月一回は阪急電車に乗り、三宮で降り、中突堤から神戸港
巡りの船に乗船し、ただただ海を眺めては、ボーとしているのでありました。
今から考えると、その当時、「そうしなくては、やっていけなかった」のでしょう。

「広島県の伝統的釣法」であること、「大好きなカキを使う」こと、
まるささんが「福山の人」であること、
「釣り方が極めてシンプル」であり、しかも、それ故「奥が深い」こと、
「大好きな海を汚すことがない」こと、「大きな魚が釣れる」こと、
そして「お師匠さんとまるささんとの関係のあり方」、これらが絡み合って、私を
「決意」に導きます。

家に持って帰った落としダモを見て、家内も息子もおばあさんも一様に目を丸くします。
「・・・お父さん・・・これで何をすくうん・・・。」
「ン・・・魚・・・。」

私が「凝り性」であると同時に「飽き性」であることを知っている家内等、いったい
どうなることかと、不安な目で私と落としダモを代わる代わる見つめています。

「父ちゃんはな、これですくうほどの大けえ魚を釣る!!」

「ヒエーー!!」
息子がおらびます。

不安は、かけらほどもありませんでした。

それからの「地を這うような釣行の数々」は、このときから始まったのでした。


あれから、丸2年がたちました。
岡山県でもかぶせ釣りができる波止が開拓され、「岡山県在住のかぶせ釣り師」も、
私が知るだけで10人を越えるまでになりました。
実際の人数は、もっと多いと思います。

先日、鞆の浦平港で釣り道具を片づけているときでした。
落としダモのロープを巻いているとき、一カ所、ほとんどちぎれかけているところを
発見します。
実は先ほど、50センチのコブダイをこの落としダモですくい上げたばかりでした。
少し引っ張ると、簡単にちぎれてしまいました。
「コブダイを上げようるとき、ようちぎれんかったなあ・・・」と、タクさん。

「2年間この落としダモで、どれだけ魚をすくうたじゃろう・・・。」
傷だらけの落としダモ。

ちぎれたロープを結び直します。

カートを引きながら、タクさんと一緒に夕闇の波止を、駐車場へと向かいます。

タクさんの持ってくれたバッグの中で、落としダモが銀色に光っていました。



まるささん、この2年間、かぶせ釣りを教えてくださりありがとうございます。
そして、「10万ヒット」、おめでとうございます!!!
お師匠さんも、きっとお喜びのことでしょう。

何か、空いっぱいに広がったお師匠さんの笑顔が見えるようです。

倉敷のマサでした。

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