たところ,60代半ばくらいだろうか。その釣り人は,カキガラの入った大きなトロ箱をどさっと置き,その波止の中央にのっそりと腰を下ろした。1994年1月15日の午前10時ころ。場所は広島県沼隈郡内海町・田島にある,通称「天神波止」。それが,師匠との初めての出会いだった。

 

のあたりでは,年が明ける頃からめっきり釣果が落ちる。その日のぼくの釣果は,朝から3時間ほど釣って,15cmほどの小さなメバルとカサゴが数尾。帰り支度を始めようか,とちょうど思い始めた頃だった。

納竿しようかすまいかと,ぼくがだらだらと釣りを続ける間 --- ものの30分ほどの間に,その釣り人はほんの数メートル離れた釣り座で,30cm級の良型アイナメ2尾と,45cm級のコブダイ(カンダイ)1尾を立て続けに釣り上げた。その小さな波止でこの時期にそんな魚が釣れるとは当時思ってもいなかったぼくは,のそのそと帰り支度をしながら,その人の釣りに見入っていた。結局その日は一言も声をかけずに帰ったが,後で聞いた話では,その日は30cmオーバーのアイナメが7尾釣れたという。

 

「かぶせ釣り」という釣法自体は知っていたし,我流で何度か魚を釣り上げたこともあった。しかし --- その日見た光景は,あまりにも刺激的なものではあった。

その翌週。ぼくは再びその波止の上にいた。あの人と同じスタイルでカキを撒き,竿を握って釣りを開始した。その第1投目。いきなり手元に「コツン」という鋭く小さな当たりがきて,32cmの丸々と太ったアイナメが釣れ上がった。それが,このホームページの原点の出来事である。

 

もなくその人は,その波止で知らぬ者のない有名人になり,次々に「弟子」が生まれた。弟子たちはその人を「名人」「先生」あるいは「師匠」と呼び,その人の釣り方に倣い,何とか1尾でも多くの魚を釣ろうと波止に通った。が,釣果は常に師匠が一番だった。

師匠のかぶせ釣りの最大の特徴は,メイン・ターゲットがチヌではない,という点にあった。師匠が一番熱心だったのは,チヌでもアイナメでもコブダイでもなく,ハゲ(ウマヅラハギ)釣りだった。--- なんだウマヅラか,と人は思うかもしれない。しかし釣り人には周知のとおり,カワハギ類は「エサ取り名人」であり,並の腕で釣れるものではない。ぼく自身,ある程度の要領を体得するのに3年を要した。このハゲ釣りにおいて,師匠は誰の追随も許さなかった。ほとんど1日中当たりがあっても,初心者にはまず1尾も釣れない。まぐれで1尾釣れ上がることはあっても,1日に2尾釣り上げるくらいの腕になるまでに,普通は1年くらいかかる。師匠は,1日に20尾も30尾も釣り上げた。

弟子たちは,カキのかぶせ釣りでハゲを釣り上げることに熱中した。それは,最初は一種の苦行だった。どうしても当たりが取れない。師匠に尋ねても,結局は経験を積むしかない,という答えが返ってくる。みんなが,自分なりの工夫をした。ハリを小さくしたり,ハリスを細くしたり,しまいにはカキの身に3〜4本もハリをつき刺した吸い込み釣りのような仕掛けにしてみたりもした。それでも,師匠のシンプルな釣り方の釣果には及ばなかった。 

 

匠の仕掛けは極めてシンプルだったが,道具には強いこだわりがあった。カキの殻を割るカナヅチさえ,特注で作らせたという。何よりも,釣りの仕種に一種の風情があった。そして,反射神経が抜群だった。そういえば昔,同じような雰囲気の釣り人を間近で見たことがあった。それは学生時代,釣り(ヘラブナ)サークルでのOBとの合同合宿でのこと。そのサークルで「名人」と言われたOBのヘラ竿を操る手さばきは,本当に見事だった。「釣りが上手だ」というのは,単にたくさんの魚を釣るということとは違う。名人上手と言われる釣り師の竿さばきや身のこなしには全く無駄がなく,一種の様式美さえ感じられる。釣りもある程度の域に達してくると,釣果以上の「何か」を求める気持ちがたいてい生まれてくる。美意識が高まってくる,と言ってもいい。師匠はそれを具現化しているように,ぼくには思われた。

やがて2年,3年と時は経ち,弟子たちの熱も少しずつ冷めていった。挫折した,と言った方がいいかもしれない。チヌ好きはダンゴやフカセのチヌ釣りに,小物釣り好きはサビキ釣りにそれぞれ戻っていった。天神波止のあの熱気も,1年のうちわずかな時期を除いてはあまり感じられなくなった。しかし師匠は相変わらず,秋から春にかけて毎日のように,その波止にいた。

 

の日は1997年4月の,ある土曜日だった。別の釣り場からの帰りがけに立ち寄ったその波止に,いつものように師匠はいた。その日は調子が悪く,昼すぎから始めてこれ1匹よ,と,スカリに入った20cmほどのカレイを見せてくれた。夕方の30分ほど,ぼくは師匠と話し込んだ。師匠は前週この波止で45cmを頭に3尾のチヌを釣り上げ,たまたまその日地元の釣り情報誌の記者が取材に来たので,もうすぐ発売される情報誌に写真入りで掲載される,と言った。「最近,須波の波止へ通うとるんよ」とぼくは言い,「ほうか,ちょっと遠いけど,ワシも来週はそこへ行ってみるか」と師匠は言った。また来週その波止で会おうで,あんちゃん。そう言って師匠は,ぼくと別れた。

その3日後。新聞の地方面に「バイク男性 転倒死」という見出しの小さな記事が載った。「福山市赤坂町 警備員 橘高徹さん(68)」とある。釣り場での知り合いは,ふつうお互いの本名までは尋ねないことが多い。ぼく自身も「松永(町)のあんちゃん」と,名前でなく地名で呼ばれていた。ただ,その記事の「警備員」という言葉に目が止まった。師匠の仕事が夜警のパートであることは,本人から聞いていたからだ。しかし,本人かどうか確認のしようがない。--- 待てよ?そう言えば ---。ぼくは本屋へ行き,発売されたばかりの釣り情報誌の5月号を開いた。

 

たしてその中には,大きなチヌを抱えて笑みを浮かべた,師匠の顔があった。名前は「橘高さん」とある。新聞記事から判断して,あの土曜日,ぼくと別れて1時間ほど後に,師匠は自ら運転するバイクの事故で亡くなっていたのだ。

翌週,写真立てに新聞のコピーと釣り情報誌から切り抜いた師匠の写真を入れ,花を添えて波止の隅に置いた。師匠の死を弟子たちに知らせるために。その後しばらく,その波止へ通うことはなかった。

※写真は「月間釣り情報」(ミリオンエコー出版)1997年5月号より。

ぼくは,再びその波止で釣りを楽しんでいる。ここ以外の波止では,自分自身「ベテラン」とか「先生」とか呼ばれることもある。しかし,師匠・橘高徹さんの域には未だに遠く及ばない。技術や釣果の面ではある程度近づいたかもしれないが,何と言ったらいいか「風情」が足りない。--- 手元にかすかな魚信が伝わる。その瞬間,師匠の右腕が高く跳ね上がり,短竿が「ピュン」と風を切る。その音が,今も耳に残る。--- というわけで一人のかぶせ釣り師は,できることなら死ぬ間際までこの釣りを続けたいと思っている。あんなふうに暮らして,あんなふうに死ねたらいいな・・・と願いつつ。