日記帳(06年3月27日〜4月2日)

 

 

(1) あるテレビニュースのこと

 

数日前のテレビで,「国家公務員の人員削減」をテーマにした映像が映された。

北海道で農家の経営状態を調査する一人の国家公務員の仕事ぶりの映像と

インタビューだった。同じ仕事をする公務員が,北海道には数千人いるという。

「こんな仕事は民間に任せればいい(公務員の人員削減の対象にすべきだ)」

というのが,番組の趣旨である。それを見て思ったことを書く。

 

番組の言いたいことは理解できる。しかし,それより強く感じたのは,テレビに

映った公務員が気の毒だ,ということだ。山奥に作った車のほとんど通らない

立派な道路を映して「税金の無駄使いだ」と言うのはいい。しかし,それと同じ

調子で,ひとりの公務員を「悪い見本」みたいに取り上げるのは,どうだろうか?

テーマが「公務員の削減」だから,「こんな無駄な仕事をしている公務員もいる」

という例をわかりやすく説明するためには,当然の番組作りなのかもしれない。

ただ,テレビに映った公務員自身は,当然ながら自分の仕事に誇りと責任感を

持っていて,自分なりに「社会に貢献している」と思っているはずである。

人は誰でも,「自分の仕事は世の中の役に立っている」と思いたいものだ。

彼が本当に社会に貢献している(税金で養うだけの価値ある仕事をしている)

かどうかは,確かに疑わしいかもしれない。しかし,それは少なくとも,彼自身

の責任とは言えない。自分で自分の仕事を選べるような立場にはないからだ。

まして,同じ仕事をする人は何千人もいて,この番組を見ていた人も大勢いた

だろう。彼らは「自分たちの仕事に対する誇りが傷つけられた」と感じたのでは

あるまいか。そもそも,この人もテレビ取材に応じた時点では,まさか自分が

あんなスケープゴートにされるとは思っていなかっただろう。「税金の無駄使い」

という批判はそれとして,上から指示された仕事をしているにすぎない一人の

個人を指して公務員社会に対する問題提起の例とするような番組作りをする

のであれば,「この人自身が悪いわけじゃないんですが・・・」の一言を,伝える

側(ニュースキャスターやコメンテーター)には添えてやってほしかった。

 

 

(2) オウム裁判のこと

 

オウム事件の裁判で,教祖・松本被告の死刑が確定しそうな雲行きだという。

裁判の経緯に関する批判が,数日前の新聞を賑わした。おおまかな図式は,

弁護団の引き伸ばし戦術に業を煮やした高裁の判事が,手続きに不備が

あるとして裁判を打ち切った,ということだ。それ自体についてはともかく,

識者の談話として次のような趣旨の発言がいくつかあった。

 

「裁判を打ち切れば,事件の本質が解明できなくなる。松本被告の病状が

回復するのを待って,本人に真実を語らせるべきだ」

 

こういう意見を言う人自身はごくマジメに考えているのだろうが,ぼくには

「心の底にあるホンネを隠して建前を語っている」ようにしか聞こえない。

そのホンネとは,何か?

 

端的に言えば,「『真実』はだいたい予想できるけどね」という思いだ。

オウム事件の「真実」?-- そんなもん,わかりきっている(と世間の多くの

人は思っているはずだ)。それは,松本(麻原)という一人のオッサンの

個人的欲望を満たすために,多くの人が被害を受けたという事実である。

それ以上でも以下でもない。被告が現在心身に変調を来たしているのは,

「死刑になりたくない」という現実逃避(自己保身)の結果である。こう考えて

まず間違いないと思う。「そうではない可能性もゼロではないから,やはり

本人に語らせよう」という意見は,あってもよい。しかしそれは,普通の感覚

から言えば「極論」だと思う。ある大学の教授が「松本被告が現在何も

語ろうとしないのは,『名誉ある殉教者』としての道を彼が選んだからだ」

と書いていたのには,「アホか」と思ったが。

事件の被害者や遺族が松本被告に抱く思いも,同じようなものだろう。

死んだ人を生き返らせることができない以上,松本被告に対して最も望む

ことは,故人の墓の前で詫びさせることだろう。それも叶わないなら,極刑

に処してほしい。自分が遺族なら,必ずそう考えると思う。被告が今さら

「真実」を語ろうが語るまいが,どうでもいいことだ。

 

「事件の真相」を求める立場の人は,こう言うかもしれない。

 

「あのような不可解な事件が今後二度と起こらないようにするためにも,

われわれは事件の背景を知っておかねばならない」

 

--- しかし,このような主張にも,意味があるとは思えない。

そもそも,(あり得ない仮定ではあるが)「あの事件は,私自身の身勝手な

欲望が引き起こしたものです」あるいは「私は聖人だ。私は悪くない。悪い

のは君たちだ」と被告が雄弁(正直?)に語ったとしても,それが何の役に

立つというのか?聞く側は最初から,彼が何を語ろうがそれは愚か者の

開き直りにすぎないはずだ,と身構えているのではないのか?

 

同じことは,凶悪犯罪一般にも当てはまる。

たとえば,通り魔殺人や性犯罪の犯人に,その動機を聞いたとしよう。

彼らはたとえば,こんなふうに答えるかもしれない。

 

「ムシャクシャしていたからやった。相手は誰でもよかった」

「世間から邪魔者扱いされていることに不満があった」

「自分だけが不幸なので,ほかの連中も不幸にしてやりたかった」

 

そしてマスコミは,犯人についてこんなことを書くかもしれない。

 

「小学校の頃から粗暴な子供だった」

「子供の頃に親から虐待を受けていた」

「裏ビデオを千本近く購入していた」

 

こんな「真実」を発見したからといって,何がどうだというのか?

「この事件を反面教師として,こういう現実をなくすよう努力すれば,

同じような犯罪は減るはずだ」などという戯言を誰が信じるのか?

犯罪の動機や背景を解明することがすべてムダだ,とは言わない。

しかし,一般人にとってそうした行為の持つ意味は,他人の不幸を

見て喜ぶ野次馬根性に近いものであることが圧倒的に多いと思う。

 

今さらオウムの松本被告に何かを語らせようとするのは非現実的だし,

万一彼が何かを語ったとしても,野次馬を喜ばせる以上の価値がある

とは思えない。そういう意味で,今回の高裁の判断は正解だと思う。

同時に,「事件の真相を闇に葬るものだ」という批判には賛成できない。

 

 

(3) 富山の安楽死事件のこと

 

詳細は今後明らかになるだろうが,この事件の報道を見聞きして直感的

に思ったのは,「この医師の考えは,だいたい想像できる」ということだ。

生命維持装置を外した事例が7つもあるので,それぞれケースバイケース

で判断すべきではあるが,「一概にこの医師を責められない」とは思う。

 

新聞によれば,安楽死が許される条件の柱は,「回復の見込みがない」

ことと,「本人の意思確認があること」だという。一方彼は,テレビのインタ

ビューに答えて,「心電図の問題ではない」と言った。両者の間には大きな

溝があり,どちらがいいとか悪いとか簡単に割り切れる問題ではない。

しかし,シロウト的に想像するならば,この医師と,(安楽死させられた)

患者の家族との間には,たとえばこんな会話があったのではなかろうか?

と思うのである。

 

家族 「先生,もうずっとこのままなんでしょうか?」

医師 「そうですね,お気の毒ですが,意識が戻る見込みはありません」

家族 「そうですか・・・」

医師 「どうでしょう,皆さんも長い間の介護でお疲れですし,このままでは

        入院費もかさみます。ご家族の同意がいただければ,チューブを

        外してもかまいませんが」

家族 「いえ,私らの口から『殺してくれ』というようなことは・・・」

医師 「お気持ちはわかります。(以下,あれこれ遠回しに言いながら)

        患者さんも,ここまで皆さんに親身にお世話をいただいて,喜んで

        おられると思いますよ。そろそろ楽にしてあげてはいかがでしょう」

家族 「そうですねえ・・・」

 

言うまでもないことだが,医師は自分の都合でこんなことを言っているわけ

ではない。家族は,患者に対して「できるだけ長く生きていてほしい」という

思いと,「いつまでもこの苦しみが続くのだろうか?」という交錯する思いと

の間で揺れ動いているに違いない。医師の目から見て,「このままでは,

家族の方が肉体的・精神的・経済的にパンクしてしまう」と映ったとき,

「患者と家族が共倒れになるのを手をこまねいて見ているのが,本当に

正しいことなのか?」という思いに駆られても不思議はないだろう。

件の医師はテレビの中で,こんなことを言っていた。

 

「医学的に手の施しようがない状況というものは,現にある。そのことと

苦しむ家族の現実を目の当たりにしたとき,(健在な)家族の方を救って

あげたい,と考えることは,医者として間違っているとは思わない」

 

この人は,ウソは言っていないと思う。そして,この発言には共感する。

ゼロか100か,ではない。患者と家族のどちらを優先するかも,その

ときどきの患者と家族の状態に応じて判断が違ってくるだろう。

要するに,「一つ一つの苦悩の選択の積み重ね」なのである。

全部のケースを機械的に是か非かで判断できるはずがないのだ。

 

逆に,同じ番組でのインタビューに答えたある識者(だっかか団体の

代表だったか)が言った次のセリフは,正直「最低だ」と思った。

 

「尊厳死,という言葉がよくないのです。これは,殺人です。尊厳死と

いう言い方は,これが殺人であることをぼやかしてしまいます」

 

これはまさに,「全部のケースを機械的に判断」しようとする立場である。

また,ロジカルに言って,この発言は「尊厳死論争」の土俵に立っていない。

尊厳死問題の本質は,「どんな条件を満たせば,『殺人』が許されるのか?」

という点にある。「殺人だ。だから悪い」と言うのは,どんな条件をも認めない,

問答無用の立場である。これでは,議論は成り立たない。

 

この事件に特に関心を持ったのは,身近な例を知っているからだ。

もう二十年くらい前の話である。

近所の幼なじみの同級生の一人が,二十代の若さで亡くなった。

彼は大学を卒業後,東京の会社に就職した。

仕事を始めて間もない頃,彼の運転する車が道路の側壁に衝突,大破した。

彼は一命は取りとめたものの,それきり意識不明の植物状態になった。

普通なら命を落としすほどの事故だったが,彼はスポーツマンで頑強な体

だったために,命だけは助かったのだそうだ。

彼のお母さんは,彼が入院していた東京の病院まで,福山から毎週のように

出かけて看病した。もっとも寝たきり状態だから,ただ見守るだけだったろう。

彼が亡くなったのを聞いたのは,それから数年後だった。

不謹慎な想像かもしれないが,上に書いたような医者とのやりとりが,実際に

行われたんじゃないだろうか。言うまでもないが,「寝たきり状態になったら

安楽死させてほしい」という意思表示を彼が生前にしていたとは思えない。

また,お母さん自身の口から「わが子を安楽死させてください」と切り出すこと

など考えられない。こんな状況では,普通は担当の医師が「気をきかせて」

それとなく家族に打診するのではないのか?それを,「殺人だから許せない」

の一言で片付けることができるだろうか?

 

 

今回書いた3つの件のすべてに共通して,一応補足しておく。

これらの記事は,「当事者の気持ちに感情移入する」立場で書いたのであって,

それ以上のことを主張してはいない。たとえば安楽死の件で言えば,「尊厳死

のルールは実態に合わないから役に立たない」とか,「現場の医師の判断を

最優先すべきだ」みたいなことを主張したいわけではない。念のため。

 

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