日記帳(06年4月3日〜7月23日)

 

 

 

前の日記帳を出してから,もう3か月半以上たった。

この間,いろんなことがあった。

日記帳や雑記帳を更新できなかったのも,なかなか釣りに行けなかったのも,

ついでに言うと隠岐へ行けなかったのも,その「いろんなこと」のせいなのだが,

それを書くのはもう1か月ほど先にしたい。とりあえず,その「いろんなこと」が

だんだん落ち着きつつあるので,ちょっとだけ復活の日記帳を書く。

 

最近まともに釣りをしてない代わりに,映画はちょくちょく見た。

5月以降に見た映画は,これだけある。

・ 立喰師列伝

・ 嫌われ松子の一生

・ トリック2

・ デスノート前編

・ 間宮兄弟

なんというか,わかりやすい映画ばっかりである。

今日は「不撓不屈」を見に行くつもりだったが,おとといで上映が終わっていた。

上の中では「デスノート」が一番面白かった。しかし主人公がちょっとぽっちゃり

しすぎなのが気にいらん。イメージ的には「ピンポン」で月本役をやった俳優が

合うと思った。名前も「月(ライト)」でぴったりじゃし。

立喰師列伝は押井守の作品なので期待して見たが,パターンが同じなので

ちょっとダレる。ただしマニアにはうけるだろう。この映画に出て来るマッハ軒や

ケツネコロッケのお銀などの固有名詞が,「うる星やつら」テレビ版で押井守が

作監をやった「立ち食いウォーズ」を下敷きにしていることが一目でわかった

ような人には・・・。嫌われ松子は,「今年の巨人は『嫌われ松子』だ」と誰かが

言い出すのではないかと思う。作品と全然関係ないな。トリック2も,細かい「芸」

の部分が楽しい。間宮兄弟は,どこかに盛り上がるところがある方がいい。

 

仕事の時間が伸びたせいでマンガもだいぶ買ったが,本を読むヒマがない。

マンガは,今年読んだ中でのイチ押しは「働きマン」(安野モヨコ)である。

1冊の単行本で言うと,「ハチミツとクローバー」(9巻)。今も昔も若者の

感性は変わらんなあ,という感慨を覚える。

 

 

まったく話は変わって。

数日前の中国新聞のコラム「天風録」に,こんな記事があった。

 

PTAでの会話。女性校長がお母さん方に「ぞうきんくらいはスーパーで買わ

ないで自分で縫って渡してください」。お母さんが「そんなものにこだわるのは

単なる親の見え」。すると、会場のお母さん全員が拍手したという。ある教育

学者が「親が変われば子が変わる」と題した講演の中で、エッセイストの話と

して紹介している。そのエッセイストは「この国の教育はおしまいだと思った」

と嘆く。つまり、お母さんが縫ってくれたというプロセスが子どもを支える、と

いうことが分からなくなっているからだ。

 

コラムニストは,このエピソードに賛成の立場を取っている。つまり彼は「雑巾

くらいはお母さんが縫うべきだ」と思っている。が,ぼくはそうは思わない。

この意見に引っ掛かりを覚えたのは,「家庭でぞうきんを縫う」という現実の

行動に対する想像力が欠けているのではないか?と思ったからだ。

第一に,ぞうきんを縫うためには,その材料になるべき布が必要である。

しかし,たとえばわが家で今ぞうきんを縫おうとした場合,適当な布があるか?

と考えてみると,思い当たらない。古い下着やタオルを使えなくはないだろうが,

それらもタダではないし,少なくとも「ぞうきんにするつもりで日頃からキープして

いる」ような布はない。

第二に,ぞうきんはふつう,ミシンで縫うものだ。うちにはコンパクトなミシンが

あるが,女房がそれを使う機会はほとんどない。ぼくが釣り用に作業服の店で

買ってきたズボンのすそを上げるときくらいだろうか。今日の家庭生活の中で

ミシンを使う機会がごく限られている以上,ミシンを買っていない家庭もたぶん

あるだろう。そんな家庭の母親に「ミシンがなければ手縫いでぞうきんを作れ」

と言うなら,それは論外である。

第三に,ぞうきんは100円ショップに行けば,2枚一組の立派なのを売っている。

1枚50円のぞうきんを買うのと,自分でぞうきんを縫う手間を比べたとき,

「買って済ませばいい」と母親たちが判断したとしても,それは当然のことだ。

 

同じことは,給食にも言える。ぼくらが子供の頃は給食というものはなく,

みんな親の作った弁当を学校へ持参していた(家庭の事情で自分で弁当を

作らざるを得ない子もいた)。現在多くの学校で給食制度が採用されているが,

上の理屈から言えば「弁当も家庭で作るべきだ」という話になってしまう。

実際,子供に手作りの弁当を持たせることには,何らかの教育的効果はある

だろうと思う。しかし,そのプラス面と,毎朝弁当を作るための親の負担という

マイナス面とを比較した結果として,現在の給食制度ができているのである。

「教育のために私の家では子供に弁当(あるいは手縫いのぞうきん)を作り

ます)」と個々の親が考えるのは自由だが,それを一律に適用しようとする

のは,どう考えても間違いだと思う。

 

たかがぞうきんのことでそこまでマジメにならんでも・・・と言う人もいるだろうが,

どうしても心に引っ掛かりを覚えるのは,「母親がぞうきんを縫わないのは,

母親の心が貧しくなっているからだ」というとらえ方を,教育学者もコラムニスト

もしているように思えるからだ。現実はおそらく確実にそれとは違っていて,

「自分の手でぞうきんを縫ってやった方がいいのはわかっている(なぜなら

自分自身も子供の頃に母親からそうしてもらったから)のだけれど,いろいろ

事情があって仕方なくそうしていないのだ」と,多くの母親は思っているのでは

ないだろうか。

 

話が飛躍するようだが,教育基本法を改正しようとしている一部の政治家たち

にも,「手作りぞうきんの思想」が見て取れる。今の世の中が,昔よりも「悪く」

なっている面は確かにあるだろう。しかしそれは,ゆがんだ教育によって一人

一人の心がねじ曲がったからではなく,物理的な環境の変化に応じた必然的

な帰結だと思う。

 

日本は戦後,よくも悪くもアメリカ的になった。社会全体は戦前に比べれば

はるかに民主的になったが,反面社会の結束力は弱まった。ものすごく割り

切った言い方をするなら,こんなふうに言っていいのかもしれない。

 

アメリカは基本的に,「性悪説」の価値観を持つ国である。それはアメリカの

外交姿勢や選挙戦術や訴訟の多さなど,あらゆる局面で見て取れる。

一方かつての日本は「性善説」を基盤とする社会であり,それもまた社会の

さまざまな分野に具体的に現れている。両者の違いが生じた最大の理由は,

アメリカが他民族国家であり,日本人がほぼ単一民族の国家だったからだ。

要するに「社会の構成員の文化的背景が多様であればあるほど,その社会

や国民の心性は性悪説に近づく」という仮説が成り立つ。

 

さて,現実はどうか。日本は今後ますます,「他民族国家的」になるだろう。

今の経済水準を維持しようとすれば必然的に外国からの移住労働者が

増えるし,同じ日本人同士の間でも到底価値観を共有できないという現実が,

格差社会の進行に伴い顕在化するだろう。その流れは,もはや止まらない。

価値観が多様化することは,社会がアメリカ的になることを意味し,そのこと

は「性悪説」を信じる人が増えることを意味する。しかも日本はアメリカとは

違って,「宗教を通じて人々が価値観を共有する」ことが期待できない。結果,

「人を見たらドロボウと思え」的な物の見方が増えてくるだろう。しかしそれは

決して悪いことばかりではなく,むしろ世界ではそちらの考え方の方が普通

だとも言える。教育を通じてこうした考え方を是正し,古き良き時代の性善説

的な社会に戻そうとしているのが,今日教育基本法を改正しようとしている

勢力の基本思想であるように,ぼくには思われる。

 

では,現実に「古き良き時代の日本」を復活させることが可能なのか?

結論を言えば,いくつかの条件を満たせば,理屈の上では可能だと思う。

その条件として,たとえば「鎖国をする」という案が考えられる。外国人の移住

を一切認めず,海外との貿易も行わないようにする。生産と消費は日本国内

で自給自足するものとする。そうすれば国民の意識や価値観は均質的になり,

教育が「洗脳効果」を上げやすい環境が整うだろう。

 

言うまでもなく,現実にはそんなことはできない。今のまま社会の変化が進行

すれば,おそらく何もかもがアメリカに近づくだろう。アメリカという国は,一言

で言えば「目的達成のためには手段を選ばない」という価値観を基盤にして

いる。彼らはたえざる経済成長を志向し,人々に大量消費を促し,そのため

には資源の浪費も戦争もOKだと思っている(ように見える)。

 

そして今のところ日本の政財界で指導的立場にある人々は,少なくとも経済

的には,アメリカと同じような社会を実現することを志向しているように見える。

つまり,彼らは「物質的にはアメリカのような,しかし精神的には昔の日本の

ような社会」を理想としている,と言ってもいい。そんな都合のいい社会を実現

することが無理なことは,普通の常識を持った大人なら誰でもわかる。

 

まとめよう。「手作りぞうきんの思想」とは,

さまざまなプラス面とマイナス面とを比較して最善の道を選ぶという努力

を放棄して,一つの思想だけで物事の善悪を判断しようとする考え方

だと言うことができる。

 

実際は,たかが雑巾1枚が子供に対して劇的な効果を上げるはずがないのと

同様に,「たかが教育」が日本社会を劇的に改善するはずはない。たとえて

言えば,「貧乏人にもっと税金を回すべきだ」と愚痴をこぼしていた人が,

自分が金持ちになったとたんに「高額所得者の税率を下げるべきだ」と主張

するのに似ている。今の日本社会に昔と比べて「悪くなった」面があるとしても,

それは「良くなった面」の代償として支払った犠牲にすぎない。大切なのは,

「悪くなった面」と「良くなった面」のどちらが大きいかを比較する発想である。

「今の日本人は社会に対する義務感が希薄だ」とよく言われる。それは,一概

に教育のせいとは言えない。自己中な大人を見て育った子供が,自己中になる

のは当たり前である。ホリエモンに憧れる子供はホリエモンのように行動しよう

とするのであり,そのホリエモンを逮捕されるまでもてはやしていたのは,ほか

ならぬ大人たちだ。そんな人たちに,教育を云々する資格などない。青少年の

モラルを高めたいなら,自分たちがモラルに沿った行動をすればよいのだから。

「悪いのは教育基本法だ」などというのは,青少年の模範となれない自分らの

日頃の行いの悪さを覆い隠すための,姑息な逃げ口上にすぎない。

 

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