日記帳(06年7月24日〜8月29日)

 

 

 

ショートSFコミックの名手・岡崎二郎の「アフター0」の中に,こんな話が出てくる。

ある日本人商社マンが海上で遭難し,大西洋のとある島にたどり着いた。

そこには人は住んでいたが,自然が色濃く残る楽園のような場所だった。

ほどなくその島を離れた主人公のクルーザーに,見知らぬ鳥が紛れ込んでいた。

帰宅して鳥類図鑑を調べた彼は,その鳥が200年以上前に絶滅した伝説の鳥・

ドードーであることを知る。彼は早速鳥を連れて島に戻り,島民たちに「この島を

一大観光地としたい」という話を持ちかける。島民はドードーを正直に連れ帰った

彼の誠意に答え,島の秘密を明かす。実はこの島はある財団が管理しており,

その財団は世界中から絶滅の危機に瀕した動物たちを保護するために集める

仕事を,はるか昔から続けているのだと言う。諦めきれない彼は,管理者に

連れられて島のある場所へ行く。そこには,彼が子供の頃に生まれ故郷で見た

美しい鳥が群れを成しており,感動した彼はその島を行楽地にする夢を断念する。

その鳥とは・・・もちろんトキである。

 

しばらく前の中国新聞の地方面に,きれいな黄色い花の群落の写真が載った。

なんとかかんとかという希少種で,中国山地の奥である人が撮影したのだそうだ。

その人は写真の撮影場所について,「普通の人はまず行かないような山奥だが,

県内にもまだこんな自然の残っている場所があるのです」というようなことを語って

いた。それから数日して,一面のコラムにこんな記事が載った。その写真を新聞に

提供した人はブログを公開しているのだが,そのブログに批判が殺到して,炎上

寸前になっているのだという。批判する人たちの言いたいことは要するに,

「おまえが出した写真のせいで,あの花を見るために場所を探し出そうとする

連中が押しかけて,結果的にあの花が絶滅したらどうするんだ?」ということ

なのだろう。

 

岡崎二郎のコミックでは,財団の管理人が主人公にこんなふうに語る。

「悪意があろうとなかろうと,自然の残る場所に多くの人間が入れば,どんな

結果になるかはあなたもよくご存知でしょう?」

それは,その通りだと思う。しかしそれでも,中国新聞に黄色い花の写真を出した

人を非難するのは,やっぱり行き過ぎのような気がする。しかも,コラムによれば

その非難のしかたが普通ではないのだそうだ。ブログの掲示板への書き込み

だから荒らし目的の人もいるのだろうが,激しい人格攻撃を受けたのだという。

これは要するに「程度の問題」であって,極論すれば「自然保護の最善の策は

人間が入り込まないことであり,その観点からはすべてのアウトドア雑誌は批判

されるべきだ」みたいな考え方をする人もいるかもしれない。そういう過激な意見

はさておき,どうしてもこの人の肩を持ちたくなってしまうのは,「この美しい花の

写真を多くの人に見てもらいたい」という気持ちが理解できるからだ。決して

「自分はこんなきれいな花の咲いている場所を知ってるもんね」ということを

自慢したいわけではないはずだ。ただ「この感動を多くの人と分かち合いたい

という気持ちから出た行動であるに違いない。ぼくがHPを出しているのと,全く

同じ動機である。当然この人の場合も,自分が提供した情報が巻き起こすかも

しれないマイナスの影響に対する責任はあるわけだが,実際にはその写真を

見て「県内の山奥を全部踏破してでも,あの花を見つけてやろう」などと思う

人はまず皆無だろう。したがってこの人の行動を批判する人々の考え方は,

たとえば「子供が川に落ちて死ぬ可能性があるから,すべての川土手に手すり

を設けるべきだ」というような意見と大差ない。それが全くの間違いとは言わない

が,「そこまで言わんでも」と多くの人は感じるだろう。このコラムを読んで,

「物言えば唇寒し」的な殺伐とした世の中を想像して,ちょっと寂しかった。

 

 

話題は変わって・・・というか,変わってなくて。

 

これもまた先日の中国新聞に,「猫殺し」の話が載った。

発端は、ある作家が日経のコラムに次のような趣旨の文章を掲載したことにある。

 

「自分は猫を飼っているが、避妊手術を受けさせていない。生まれた子猫は家から

離れた場所に(死ぬことを前提に)放置している。避妊手術をしないのは、人間には

他の動物の母性を奪う権利はないと思うからだ。子猫を(実質的に)殺すのは、

社会的責任感からだ。」

 

この意見に対しては多くの批判が寄せられているという。中国新聞の投書にも、批判

の意見が載った。内容はごくまともなもので、投書者は次の2つの意見を主張していた。

 

・人間に母猫の「生む権利」を奪う権利がないとしても、それ以上に子猫の命を奪う権利はない。

・子猫を殺すくらいなら、最初から猫を飼うべきではない。

 

この意見には賛成するし、こういう物の考え方をする人は好ましいと思う。

ただ、最初にこのコラムに関する記事が載ったとき、ものすごくいろんなことが頭をよぎった。

 

最低限必要なのは、この作家が「言いたいこと」を、正しく理解するよう努めることである。

それを噛み砕いて言えば、こういうことだと思う。

 

・自分は「猫を飼いたい」という欲望を持っている。

・自分は「飼っている(母)猫に対する責任」と「(近所に迷惑をかけてはいけないという)

  社会的責任」とを果たさねばならない。

・「母猫に対する責任」とは、その猫の自然な営みとしての「出産」を、人間の都合で

  (避妊という手段を使って)妨害しないことである。

・その結果として生まれる子猫の処理については、次の3つの選択肢がある。

     @ 自分が責任を持って最後まで飼う。

     A 自立できるまで育てて、野良に放す。

     B 生まれたらすぐに殺す。

・@がベストなのはわかっているが、現実問題として難しい。Aは社会に迷惑をかける

  ことになるので選べない。残る選択肢は、Bということになる。

 

この話の展開のポイントは、「猫を飼いたい」「母猫に対する責任を果たすべきだ」の

2点が、この人の思考のスタートラインになっていることである。子猫の扱いは、

いわばこれらの前提から自動的に決まっていくことになる。

普通の(世間の多数派の)感覚では、言うまでもなくこの理屈は「自分勝手」でしかない。

しかし、この人にとって「母猫の母性を尊重すること」に格段の意味があるのであろう

ことは、見逃すべきではない。「母猫の権利と引き換えに子猫の命を奪うのは、優先

順位のつけ方が間違っている」というのが、大方の反応だろう。しかし、この人にとって

「母猫の母性」がなぜそこまで大切なのか?という点は、考慮されるべきだと思う。

その理由はたとえば、本人あるいは自分の親しい身内が何らかの理由で子供を産め

ない体であるとか、避妊手術にまつわる辛い経験をしたから、なのかもしれない。

 

実は、このコラムの話を読んで直感的に思ったことがある。それは、この話は釣りに

通じるものがあるのではないか?ということだ。われわれ釣り師は、「魚を釣りたい」

という欲望を持っている。その反面,ある種の社会的責任をも負っている。

 

端的な例を挙げるなら,フカセ釣りのマキエである。マキエは,厳密に言えば環境に

対して何らかの悪影響を与えているだろう。それに対して,たとえば釣り人A氏が,

「マキエをしない方がいいことはわかっている。それでも自分は釣りが楽しみたい。

ある意味ではワガママなことだとはわかっているが,自分の気持ちをわかってほしい。

その代わり,自分なりに環境を守る努力はしていくつもりだ」というような意見を,

ブログなり何なりで表明したとしよう。A氏は,自分の中での問題意識と社会的

責任との葛藤にどう折り合いをつけようかと悩んだ末に,正直な気持ちを述べて

いるわけだ。

 

一方に,「この人と同じことを考えているが,発言はしないB氏」がいる。

さらに,「そんなことは全く考えずにマキエ釣りをするC氏」がいる。

彼ら3人の中でA氏だけが批判の対象になるのは,釈然としない。

ここでもまた,A氏は自己弁護のために発言しているわけではない。

自分の正直な気持ちを言わずにおられない,ということだ。その種の発言は,

世間ではよく見かける(うちの日記帳や雑記帳はそんなんばっかりだ)。

 

「飼い猫には避妊手術を受けさせるべきだ。さもなければ猫を飼うべきではない」と

いうのが、たぶん最も穏当な結論であろうことはわかっている。要は、そこにたどり

着くまでの思考のプロセスである。自分の欲望、社会人としての責任、母猫への愛情、

子猫への愛情、(もしかしたら)出産というものに関するこの人特有のこだわり--- 

それらは対立関係にあり、全部の条件をパーフェクトに満たすことはできない。

その中で悩み、自分なりの優先順位をどうにかつけて、あの直木賞作家は

「子猫殺し」を選んだのだと思う。その心の葛藤は、本人にしかわからない。

いずれにしても「子猫を殺す」という選択が、コンビニでサンドイッチを買うか

おにぎりを買うかの選択と同じものであるはずがない。

 

「生き物を殺す」という事実を前に思考を停止して、「こんなヤツは人間じゃない」

みたいなリアクションはしたくない。雑記帳や日記帳に常々書いているので、定期

的に読んでくれている人には、ぼくの思考回路がおよそご理解いただけると思う。

自分とは違う意見を持つ人にも、その人なりの理屈や倫理観は働いている。

それを理解する努力を放棄したら、人と人とがわかり合えるようにはならない。

要するに,みんなマジメに生きているのである。

「君の言いたいことは理解できるが、賛成はできない」と、常に言えるようでありたい。

相手を理解することを放棄して、「君は何を考えているんだ?」とか「君はバカだ」とか

「君を許せない」とか言うような人間には、なりたくない。以上が,本日の結論である。

 

日記帳の目次へ戻る