日記帳(06年12月25日〜07年1月21日)

 

 

正月をはさんで1か月半ほどずっと仕事が大忙しで,ようやく峠を越えた。

1週間前のテンションを90コブくらいとすると,今は50コブくらい。ようやく人並みの生活に戻れる。

 

この間,日記や雑記に書きたいことはたくさんあったが,書かないうちに次々に忘れていった。

思い出せる範囲のことを書いてみる。

 

まず,この話題。プロ野球・オリックス球団の前川投手の解雇について。

事件のあらましは,彼が先日無免許運転でひき逃げ事故を起こして起訴され,それを受けて

球団が彼との契約を解除した,ということだ。ひき逃げとは言っても曲がり角で自転車か何かと

接触して口論になり,無免許(免停)だったのがバレるのを恐れて逃げた,ということらしい。

この事件に関して球団社長は当初から「やったことは許されないが,一人の青年の人生を

台無しにするのは忍びない」というニュアンスで,選手としての復帰の道を示唆していた。

彼は解雇されたが,球団側は今も彼の球界復帰の可能性を否定してはいない。

 

ぼくは普通の野球ファンだが,オリックスという球団(特にオーナー)にいい印象を持っていない。

しかし,この件だけに関して言えば,球団側の対応は一種の「美談」であると思う。

なぜなら,前川投手にとっては幸いなことに,彼は戦力的には「いてもいなくてもいい選手」である。

彼がもしスター選手だったら,球団側は状況的に彼を「絶縁」せざるを得なかっただろう。

なぜなら,「戦力ダウンを恐れて甘い処分をした」と世間に受け止められる可能性が高いからだ。

しかし現実は,彼を解雇しても球団側は何も困らない(しいて言えば,既に来季の契約を交わして

いるので年度途中での解雇となり,働いてもいないのに1年分の年俸だけは払わねばならない,

という金銭的なデメリットはある。しかし,それは微々たる問題にすぎない)。むしろ,前川投手を

かばえばかばうほど,世間の風当たりは強くなるだろう。組織の論理から言えば,「少しでも

会社の損になるような要素は,早く切り捨てる方がいい」という判断をするのが普通のはずだ。

しかしそれでもなおオリックス球団の幹部は,「前川くんが気の毒だ」という姿勢を示している。

上のような背景事情を考慮すれば,その言葉には基本的に「打算」はなく,前川投手の今後の

人生への「思いやり」という人間的感情の発露と解釈してよいと思う。「美談」だと言ったのは,

そういう理由からだ。

 

一方,彼が事件を起こして以来,球団にはファンから「早く解雇すべきだ」という趣旨の電話が

多数入り,解雇の発表をした後も「よくやった」「当然だ」という電話が数十件入っているという。

これについては,逆にあまり感心しない。社会的な規範意識は人それぞれだから,「悪いことをした

人間は相応の罰を受けるのが当然だ」と考える人がいるのはかまわない。ただ,この種の事件が

起きるたびに思うことだが,「もっと厳しく処分せよ」という世間の声の中には,「自分より強い者への

ねたみ」のような感情が,少なからず含まれているような気がしてならない。ある種の「成功者」

たちをその地位からひきずり降ろし,彼らが不幸になっていくさまを眺めていたい,という

ネガティブな感情である。週刊誌の報道には,特にその傾向が強い。美しくない行為だと思う。

もう少し分析的に言うなら,こうも考えられる。たとえばこれも最近,通行中の親から3歳の幼児を

奪って数m下の地面に投げ落とした男がいた,という事件があった。彼は精神障害者だった。

この事件を受けて,「危険因子を持つ人間の情報を広く公開すべきだ」という声が上がった。

是非はともかくとして,こういう意見が出るのはもっともだと思う。なぜならその事件は,いつ

なんどき自分や自分の身内にも同じことが起きるかもしれないという切実さを持っている。

しかし前川投手の件は,いってみれば町のチンピラが犯した軽犯罪と同レベルのものであり,

悪いことには違いないにせよ,一過性の出来事にすぎない。罰は受けるにしても,人生を棒に

振らせるのは過酷すぎるとぼくは思う。ついでに言えば,広島県の政界は今大きく揺れている。

藤田知事の元秘書が,10人の現役県議に裏金(のようなもの)を渡したという事件である。

これに関して「知事は辞職すべきだ」という意見があるのは,当然のことだと思う。この問題は

チンピラの軽犯罪よりはるかに罪が重いからだ。もっとも,ぼく自身は知事が辞職すべき

だとは思わない。今回の件は,選挙民自身にも責任があるからだ。「選挙では莫大な裏金が

動くらしい」ということは,大人なら誰でも知っている。しかし,それが本当に「許されないこと」

なのかどうかについては,必ずしも社会的な合意はない。この際藤田知事には,「文句が

あるなら次の選挙で私に投票しなければいい」と開き直ってもらいたい。そして次の選挙で

藤田知事が再び当選したなら,それは選挙民が自らの責任で彼の罪を許したことになるだろう。

そういう自覚を選挙民自身が持たない限り,知事が代わっても政治風土は変わらないだろう。

 

上の話とも多少関係するが,次は「美しい国」の話である。

現総理大臣のことが,特に好きだとか嫌いだとかいうことはない。

少なくとも言えるのは,彼の打ち出している方針には大きな「矛盾」があるということだ。

「美しい国」というのは,基本的に国民の「道徳観」を高めようという発想からきている。

一方で経済政策においては,弱肉強食的なむき出しの資本主義政策が進められようとしている。

経済官僚にとっては,非常にわかりやすい話だろうと思う。日本は莫大な財政赤字を抱えている。

これを解消するためには,税収を増やすしかない。税収を増やすための最も効率的な方法は,

民間企業を強くすることだ。だから,税制も労働条件も「強いものが勝つ」ような仕組みを作れば

よい。単なる数字合わせの問題である。当然そこには,代償もある。それが格差の拡大であり,

それに伴う社会不安や犯罪などの増加である。中国の故事にいわく,「恒産なくして恒心なし」。

貧乏人をたくさん作り出しておいて,「心だけは正しく持て」と説教しても説得力はない

 

そういうダブル・スタンダードに多くの人々は不信感を持っているだろうと思うが,ひとつ不思議な

ことがある。たとえば,小泉首相の登場以来,政治のポピュリズム化が進んだという。大衆が

政策よりも見てくれの格好よさやスローガンにつられて,政治が人気投票のようになってしまった,

と識者は言う。ところで,世の中はどんどん高齢化社会になりつつある。一般に,年寄りは若者

よりも知恵があり,正しい判断力を持っていると考えられている。それならば,選挙民中の平均

年齢が上がれば,選挙はそれだけポピュリズムとは反対の方向に進むはずではないのか?

つまり,自分にとって切実な問題として各政党や候補者の政策を比較し,正しい判断を行って

投票する人が増えべきなのではないか?しかし,実際はそうではない。少なくとも経済政策に

関する限り,現政権が「格差拡大路線」のレールに乗っていることは,それこそ普通の社会人

なら誰にでもわかる。それでもなお現政権を支持する人が多いのはなぜか?「ほかに支持

できる政党がない」というのは,ある意味で悠長な理由である。明日の生活にさえ不安を

覚えるような境遇になれば,誰でも「この状況を改善するために何かをしなければ」という

気になるはずだろうに。そうなれば,少なくとも今の政権ではヤバい,と思うはずだろうに。

そう思わないのは,まだ生活にゆとりがあるか,よほど頭が悪いかのどちらかである。

断っておくが,これは現政権を批判するための文章ではない。あくまで「経済政策に関しては」

というだけの話である。現政権はそれ以外によいところがあり,だから現政権を支持する,と

いう人はいるだろう。しかしその人は,自分の生活が苦しくなっても現政権に文句は言えない。

そういう政権を自分の意志で選んでいるのだから。

 

話が別の方向に行ったが,本当に書きたいことは次のことだ。

年を重ねるほど強く思うことだが,世の中は「強い力を持つ特定の個人の感情」で動くものだ

とつくづく感じる。その代表格が,安倍総理である。彼の頭の中にある「美しい国」のイメージとは,

「自分が生まれ育ったような社会環境を持つ国」だろう。しかし彼のその環境は,彼と同世代の

一般大衆のイメージと必ずしも同じだとは限らない。いい例が,憲法改正である。彼は現在の

日本国憲法に否定的だが,それを守ろうとする人たちも多くいる。そのギャップの根源は,

「昭和20年以前の日本」への評価にある。これを否定的にとらえる人々は現憲法を支持し,

肯定的にとらえる人々は憲法改正を叫ぶ。そして,「戦前を肯定する人々」とは,ある意味で

「恵まれた人々」である。いつの社会にも,いい面と悪い面とはある。戦前が自分にとって

「いい時代」だったと思えるのはその時代のエリートたちであり,その人々の影響を受けた

現代の人々(たとえば戦前のエリートの息子や娘たち)もまた,戦前を肯定するだろう。

これは生まれ育った環境の違いによるものであり,いわば「洗脳」の問題である。少なくとも,

理屈の問題ではない。最近新聞に出てくる話題の中で,「教育再生会議」の話題が面白い。

たとえば,「学生の塾通いを前面禁止すべきだ」と発言した座長がいた。学者である彼の

その意見の理由とは,「自分は塾などに通わなくても勉強ができたから」だそうだ。これを

バカ丸出しと笑うことはたやすいが,よく考えると世の中にはこれと同レベルのことが多い。

(ちなみについ2,3日前の新聞にも,年末のNHK紅白歌合戦でDJオズマのバックダンサーが

裸と見間違う衣装で出演した件について,「安倍総理の指示で」秘書官が教育再生会議の席で

このシーンの「鑑賞会」を行い,委員たちに意見を求めたという,これまたバカ丸出しの記事が

出ていた)

 

たとえば,靖国問題である。今日の靖国問題の一つの大きな火種となったのは,昭和天皇の

意にさえ背いてMという一人の宮司が独断でA級戦犯を合祀したことにある。そしてその宮司が

その独断を行った理由は,彼の親戚の一人がA級戦犯だったことにあるのではないか?という

記事を新聞で読んだことがある。いかにも,ありそうな話である。また,現在の財界のトップは

ガチガチの市場原理主義者であり,それは彼がアメリカ留学中に当時流行していた経済理論

に傾倒していたからだという。

 

彼らの思想は,すべて同根である。安倍総理も,教育再生会議の座長も,靖国神社の宮司も,

財界のトップも,全員がある種のイデオロギーに強い影響を受けており,自分の地位を

通じてそれを社会全体に認めさせようとしている。そこには,合理的な「思考」などはない。

あるのは単なる「思想」である。前にも書いたが,論理だけあって思想がないのは半人前だが,

論理がなくて思想だけあるのはただのバカである。

 

その点で,安倍と小泉との間には「差」を感じる。小泉総理も,靖国参拝については「洗脳」が

感じられたが,彼の政治家としてのアイデンティティーである「郵政民営化」というテーマは,

政治家としての「合理的思考」の産物であって,洗脳やイデオロギーとは全く関係がない。

なぜなら,郵政など彼の生い立ちには無関係だし,民営化が彼個人の利害と結びつくわけでは

ないからだ。一方で安倍総理の言う「美しい国」というのは,「総理大臣としての権力を使って,

自分の頭にある美しい国のイメージで日本を染め上げたい」という個人的願望に基づいている。

要するに,子供のわがままと大差ない。しかし,それを一概に非難するつもりもない。

彼らエリートたちでさえそうなのだから,我々庶民が理屈よりも個人的感情を優先させて行動し,

人気投票感覚で選挙に行くのも,また当然と言えば当然なのである。

 

 

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