日記帳(07年3月12日〜3月24日)

 

 

今日(3月24日)の土曜日は天気予報も悪かったし,もうすぐ片付きそうな

仕事を1本抱えているので,釣りはパス・・・のつもりだったが,明日も雨が

降りそうなので,雨雲が来る前に朝だけ竿を出しに須波へ行った。

曇り空の中で6時半ごろから釣り始め,最初の30分ほどの間に散発的に

ハゲの当たりがあって,1回だけフッキングしたが途中でバラし。8時前に

雨が降り出したので,今日の釣りは終わり。

(悔しいので,明日の朝もう1回須波へ行こうと思っている)。

 

仕事場へ戻って仕事をして,昼過ぎにようやく完成。月曜日から1週間

かかって,本の原稿を1冊書き上げた(大学のテキストなので市販はなし)。

仕事のけりがついたので,明日は朝釣りに行って,午後は映画の予定。

 

今日は,時間の空いているときにしか書けない日記帳を書く。

 

 

■ 安部総理のこと ■


安部総理はタカ派である,と人は言う。タカ派とは,おおざっぱに言えば

「全国民が国のために尽くす体制を好む人々」と表現してよいだろう。

タカ派を嫌う人々は,たとえば憲法改正の行き着く先は徴兵制である,

と主張する。たとえそれが正しいとしても,タカ派の究極の目的は,

徴兵の制度を作ること自体にあるのではない。多くの国は徴兵制度を

持っているが,実際に兵役に服する人々の意識は,「国民の義務だから

仕方がない(または当然だ)」というのが一般的なところだろう。税金を

払うことに対する意識と変わりはない。しかし,少なくとも日本のタカ派に

とってそれでは意味がないのであって,国民が「喜んで」兵役に服する

のでなければ彼らは満足しない。言い換えれば,他人も自分と同じ

気持ちを持ってくれるのでなければ,彼らは納得しない。これに対して

ハト派にとって一番大切なのは「現実に戦争が起こらないこと」であり,

極端に言えば(他の人が自分の意見に賛同しようとすまいと)「戦争の

ない今の世の中が続いてくれればよい」というのがハト派の基本姿勢

だろうと思う。その対比をもとにして言うなら,逆説的だがハト派は現実

主義者であり,タカ派は観念論者である。

 

さて,安部総理は自他ともに認めるタカ派である。彼の言う「美しい国」

の「美しい」とは,おそらく主として「人の心の美しさ」を指している。

では,彼の考える「心の美しい人」とは,どんな人のことだろうか?--- 

この問いを,「日本人は,どんな精神性に価値を見出すのか?」と

言い換えてみよう。

その問いに対する答えは,一つの言葉で表せるように思われる。

その言葉とは,「禁欲」である。

禁欲という概念は,「自己犠牲」よりも幅が広い。たとえば清貧の思想や,

わびさびや,「和をもって尊しとなす」協調性も,美意識としての禁欲の

一種と考えることができる。自己犠牲はもちろん禁欲の典型であり,

国のために尽くす行為に(安部総理を含む)一部の人々が「美しさ」を

感じるのも,彼らが日本民族のDNAに刻まれた「禁欲」の遺伝子を受け

継いでいるからだと解釈できる。自分自身を振り返ってみても,年を重ねる

ごとに禁欲的な物の考え方(「自分には厳しく,他人には寛容に」的な感覚)

や生活スタイルを好むようになった面は確かにある。もちろん個人差はある

だろうが,何となく自分の中に流れる「日本人の血」みたいなものを感じる。

 

さて,そこで。安部ちゃんの言う「美しい国」の前提として「禁欲」というキー

ワードを想定するとき,彼の言葉と現実の政策との間の矛盾が露呈する。

教育問題に関しては,彼の言葉と政策は全く矛盾していない。しかし経済

政策に関しては,彼の思想の中には「禁欲」的な要素は全く見られない。

現政権の経済政策は,前総理時代から続く「米国にならえ」一辺倒だが,

周知のごとくアメリカ合衆国は,禁欲という言葉に最も無縁の国である。

総理が国民に「美しい心」を持たせたいのなら,経済界にも禁欲主義を

徹底すべきである。禁欲的な経済活動とは,要するに「利益を独り占め

しようとしない」ということである。具体的には,中小企業も生き残れる

ようなシステムを作る,あるいは会社が利益を社員に還元するなどの

手段を使って,「果実」をみんなで分かち合おうとする姿勢を,禁欲的な

企業活動方針と呼ぶことができる。しかし現実はその正反対で,政府の

「強い者だけが生き残って大口の納税者になれば,経済情勢は改善する」

という思想を背景にして,世の中はますます弱肉強食的な,欲望むき出し

の社会に変わりつつある。そんな世の中で暮らす人々の精神構造が

禁欲的になるはずはなく,したがって人々は「美しい心」も持ち得ない。

 

なお,安部総理自身の経済理念が「享楽(欲望追求)的」であるのか?

と言えば,それは正しくない。正確に言えば,彼は「経済」というものに

興味がない。だから,経済問題に関してはブレーンに丸投げしている。

自分の役目はそこにはない,と思っているのだろう。そのやり方自体は,

責めることはできない。一人の政治家がすべての社会問題に均等に心を

配ることは不可能だし,小泉前総理も多くの重要課題に手をつけなかった。

しかし,安部総理にとって不幸な(?)ことに,経済政策は「無視」するには

重大すぎる問題である。彼が経済に無関心な理由も,およそ想像できる。

政治家一家のエリート育ちである彼にとって,「(普遍的な)国の形」こそが

最重要であり,現実の動きに合わせて臨機応変の(悪く言えば一過性の)

対応を求められる経済問題などは,「雑用」にすぎないのだろう。しかし

現実の世の中はお金を中心に動いているのであり,小泉前総理の「郵政

民営化」や「道路公団民営化」などは,結局お金の問題であるという点で,

一般庶民がある程度身近な問題と認識することができた。これに対して

安倍総理の重視する教育基本法の改正などは,多くの国民から見れば

優先順位の低い一種の「道楽」のように見えてしまうだろう。


個人的には安部総理が特に嫌いなわけではない(比較して言えば,石原

都知事の方がはるかに嫌いだ。エリート意識丸出しである点が)が,彼と

小泉前総理との最大の違いは,一般国民との「距離感」ではないかと思う。

小泉さんには,「庶民の延長」という雰囲気があった。しかし安部さんは,

「全く別世界の人」という印象を個人的には受ける。

 

ちなみに,現在話題になっている「3点セット」のうちでは,従軍慰安婦問題

や松岡農水相の事務所費問題よりも,「天下り一元管理」の件が群を抜いて

難題だと思う。この問題で総理は,そしてたぶん国民も,(道路公団民営化

のときと同じように)官僚の牙城の高い壁を実感することになるだろう。

そして安部総理はかなり高い確率で,この問題の処理を通じて政治的評価を

大きく下げるのではないか,ついでに言えば,「小泉さんに比べてリーダー

シップがない(もしくはパフォーマンスが少なくて面白くない)」という印象評価が

世間に定着して,短命に終わるだろうと予想するのだが,どうだろうか。

■ 万波医師(病気腎移植)のこと ■


この話題,どうにも釈然としない。
印象批評は避けたいので新聞の報道をそのまま記すと,下のようになる。
彼が勤務した私立宇和島病院の調査委員会が,3月18日に発表したものである。

病名

見解

コメント

 腎がん

摘出: △

 患者が強く希望すれば

移植: ×

 再発の可能性がある

 尿管がん

摘出: ○

 取るのが標準的

移植: ×

 認められない

 腎動脈瘤

摘出: ×

 すべきでない

移植: △

 死体腎ならあり得る

 ネフローゼ

摘出: ×

 内科的治療を考えるべき

移植: △

 軽度なら場合によっては

 骨盤部後腹膜慢性炎症腫瘤

摘出: △

 絶対駄目ではない

移植: ×

 感染症持ち込む可能性

 尿道狭窄

摘出: △

 患者の事情次第では

移植: △

 感染症なしと確認できれば

 骨盤腎

摘出: ×

 不適切だった

移植: △

 死体腎なら

 腎膿瘍

摘出: ×

 不適切

移植: ×

 行うべきでなかった

 


直感的に感じるのは,「認められない」という判断が何を根拠にしているのか?

という疑問である。少なくともここでは,「患者の希望」が無視されていることは

わかる。素人なりに整理して言えば,このようになる。

 

(1)医療とは患者のためのものであるから,ここでは「腎臓を摘出された側(A)」と

     「移植を受けた側(B)」の両方の立場から考えることにする。


(2)まずBに関しては,手術を受けるべきかどうかを決めるのは患者本人であって,

     医者ではない。「失敗の危険があるから手術はすべきでない」という立場に立って

     しまったら,外科手術はすべてアウトである。インフォームド・コンセントの概念は,

     そのためにある。どんな手術であれ何がしかのリスクはあり,患者はそれを覚悟の

     上で手術を受ける。万波医師が患者に正確なリスクの情報を与えなかったのなら,

     それは悪だろう。しかし,それは病気腎移植自体を全否定する根拠にはならない。

     正しい情報を与えた上で患者が手術を望むなら,行うのは医者の義務だ。ゆえに,

     「Bの利益のために病気腎移植を全面禁止する」という論法は成り立たない

(3)では,Aの立場から考えるならどうか?まず,「万波医師の摘出した腎臓は,すべて

     摘出すべきでないものだった(Aに不利益をもたらすものだった)」という可能性は

     ありうる。しかし上表からわかるとおり事実はそうではなく,仮にそうであったとしても,

     「どんな病気であれ腎臓を摘出するのは間違いだ」という立場に立たない限り,病気

     腎移植自体を否定することはできない。なぜなら,「Aの利益のために腎臓を摘出

    すべきケース」が実際に存在するなら,その摘出した腎臓をBに移植してもよい

    ではないか,という理屈が当然成り立つからだ。

(4)以上の論拠により,「病気腎移植は全部アウト」という結論はおかしい。次の条件

     が満たされるとき,病気腎移植は許容される(または積極的に行われる)べきである。


@ 執刀医はA・Bの双方に対して,医学的な妥当性を持つリスクの説明を誠実に行う。
A 病気の腎臓を摘出することがAにとってプラスになる,あるいは,少なくともマイナス

    にはならない。かつ,腎臓の摘出についてAが同意している。
B 他人の病気腎を移植された場合のリスクをBが理解した上で,移植手術を望んでいる。

新聞や雑誌の報道を読む限り,今回万波医師の手術を受けたA・Bの側の患者から,

手術に対する大きな批判や後悔の声は出ていない。少なくとも今回の事件の当事者で

ある患者たちは,万波医師の行動を認めている。新聞報道中では,この件に関して他の

医師の間からは「結果がよければ何をしてもよいというわけではない」という声が出ている

そうだが,それは医者の思い上がりだと思う。医療は患者のために行うものであって,

医者が自分の思想に基づいて患者の人生を決定する権利などない。


・・・ところが,この問題の難しさは,ここから先にある。


今回万波医師の行動がほとんど全部否定された最大の理由は,医学的な妥当性の

判断よりもむしろ,「万波医師が自分の都合で患者の命や健康をもてあそんだ」という

評価を多くの医師がしたからではないかと思う。端的に言えば,「彼の行為の是非

以前に,彼の人格が信用できない」ということではなかったのだろうか。

これをより一般化するなら,こう言ってもよい。


「病気腎移植に関しては,個別の事例を厳密に判断すれば,やった方がよいケースも

あるかもしれない。しかし,いくら細かい判断基準を作っても,現場の医師が自分の

功名心や金銭欲のためにルール破りをする可能性は捨てきれない。それならいっそ,

全面禁止にした方が安全だ」

これは一見乱暴な理由付けのように思えるかもしれない。しかし,世の中にはこれと

同じことは山ほどある。たとえば,学校の校則である。長髪やスカートの丈と非行との

間には,本来は何の因果関係もない。しかし学校の校則はたいてい,「服装の乱れは

非行の始まり」という前提で作られている。これは,「服装が乱れている生徒がすべて

非行に走るわけではないが,その確率が他の生徒に比べて高い。だから一律に禁止

する方が簡単だ」という理屈(?)に基づいている。要するに「疑わしきは罰する」という

ことだ。


あるいは,「売春」である。未成年の援助交際を禁止するのはわかる。しかし,大人

同士が単なる経済行為として春を売ったり買ったりすることが,それ自体罪になるとは

思えない。現に日本でも戦前はお上公認の赤線があり,今でも公設の売春施設を持つ

国は多い。詳しいことは知らないが,現在売春が禁じられている理由は,売春行為

そのものにあるのではなく,それに伴って生じる可能性の高いさまざまな社会的不正

(女性への人権侵害など)を未然に防ぐ点にあるはずである。


いや,売春は公序良俗を乱すからアウトなのだ,と言うなら,酒作りはどうだろうか?

今の法律では,自分の家で酒を作って飲むことは禁じられている。これを,麻薬や

ギャンブルが禁じられているのと同じだ,と言うことはできるかもしれない。しかし,

麻薬は金を払って買うのもアウトだが,酒は買うのはセーフで作るのはアウトだ。

ギャンブルは,競馬や宝くじなど,公営の場合だけ認められている。結局これらの

是非の判断はすべて,「ルールを作る側の都合」に基づいている。


しかし,酒や競馬や女は,まあそれでもいいだろう。命にかかわるわけではないし。

多少の不自由は,社会の秩序の安定のために甘受しなければならないだろう。

しかし,今回の病気腎移植の問題は,患者にとっては命(あるいはQOL)に直結する

問題であるだけに,もう少し緻密に考える方がよいのではないか?という気はする。

ついでに言うなら,捕鯨やマグロの漁業規制の問題も,この図式の延長で説明できる。

学術調査によってクジラの数が増えていることが立証できたところで,規制を主張する

人たちにとっては何の意味もないのだ。なぜなら彼らは,「漁獲量の上限」など決めた

ところで実質的にはあまり役に立たないと思っているからだ。そして,彼らのその考えは

たぶん正しい。ルールを決めても,破る奴は破る。だったら,全面禁止にしてしまえ。

 

これを今回の件になぞらえて言えば,「万波医師のような『規制以上のクジラを獲る

密漁者』が出てこないように,全面禁止する方がよい」と,審査する側の多くの人々が

考えた可能性は高い。そう考えると,今回の決定をあながち責めることもできない。

そのへんが,「釈然としない」ことの理由なのである。

 

■ プロ野球ドラフト改革のこと ■


西武ライオンズの裏金問題を発端に,裏金の元凶は「逆指名」制度にあるとして,

アマ団体が逆指名の廃止をプロ側に要求した。これを受けて全球団が集まって

会議を開いたが,結局まとまらず,今年の秋のドラフトでは現行どおり,という話に

なりつつある。そして,話がまとまらなかった大きな理由は,会議の席で某球団

(言わずもがな)の代表が次のような趣旨の発言をしたからだ,と報じられている。

 

「逆指名廃止によって選手から選択の自由を奪えば,メジャーへの流出を加速する。

したがって代償として,FA取得年数の短縮を同時に実現すべきである。」

 

某球団の体質は誰でも知っているので,これが「自分だけの利益」を目論んだ発言

であることは透けて見える。要するにカープのような球団で数年間選手を育てて

もらい,実力がついたところでFAによって自分がさらって行こう,という腹である。

 

なぜそう断言できるかと言えば,理由は簡単だ。松坂をはじめ日本の一流選手の

うち,アマ野球のスターからいきなりメジャーへ行こうとした者は過去に一人もいない。

どんなに優秀な高校生でも最初からメジャーを志向するわけではなく,「とりあえず

日本で力をつけてから」と考えるのが普通であることは,過去の歴史が証明している。

だから,「FA権取得までの期間が長いから,有力選手がメジャーに流出する」という

理屈には何の説得力もない。むしろ事実はその逆で,「20代半ばでFAになれる」と

いうことになれば,高卒ですぐレギュラーになったような優秀な選手は,巨人など誰も

相手にせず(あ,言っちまった),まず100%メジャーへ行くようになるだろう。つまり

「日本のプロ野球はメジャーで勝負するための力をつけるファームにすぎない」という

考え方が,アマの有力選手たちの間に定着することになるだろう。こんな簡単な予測も

できないのかと思うと,プロ野球側(とりわけ巨人)のバカさ加減には呆れてしまう。

 

一方,ファンの心理としては,有力選手がメジャーに行っても,個人的には別に

かまわない。サッカーと同じようにワールドカップのようなイベントが定着すれば,

メジャーで鍛えてもらった方が日本代表の実力が上がる,と思えるようになるだろう。

それに,「トップ選手が抜けたから野球の試合が面白くなくなった」と感じるファンだけ

ではないと思う。小粒な選手や試合でも,実力が拮抗していればそれなりに楽しめる。

むしろ地域リーグを発展させて,ペナントレースを一時中断して,プロアマ合同の

「都道府県対抗カップ」みたいなものを実施してもいいかもしれない。「大きく」「強く」

とは別の方向もあるのではあるまいか。これも禁欲か?

 

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