日記帳(07年4月23日〜5月13日)

 

 

今は13日(日曜日)の夕方5時。きのうからやっていた下請けの仕事が1本上がって,今メールで原稿を送った。

今週は釣り日記がないので,代わりにこれから日記帳を書く。

 

まず,5月12日(土)の釣りの簡単な報告から。

朝の5時前に横島・坊地へ。波止には先客なし。

一番好きなポイントへ入り,6時ごろまでカキで釣ったが,なんと1回も当たりなし。

6時ごろにはもう周りは小イワシ狙いの人が大勢入っていたが,あまり上がってなかった。

アミエビを撒くとハゲは上から浮いてくるが,サシエに全く反応せず。

1時間でギブアップして撤収し,帰りに天神波止をのぞくと,こちらは小イワシが入れ食い。

横で竿を出させてもらい,30分ほどで70〜80匹をゲット。これでもう十分。

実家へ持って行き20〜30匹を刺身にして,あとは頭と腹を出して自宅の冷蔵庫へ。

8時半ごろから仕事場で原稿書き。ハゲは1週間前とはあまりにも状況が変わったので,

念のため午後3時ごろにもう1回坊地へ行ってみた。さすがにサビキ釣りの家族連れで

一杯だった。その中に久しぶりに会う井原のヤスさんがおられ,いろいろ情報交換した。

波止の付け根と曲がり角の真ん中あたりが空いていたのでカキを落としてみると,

2投目に底から50cmほど上で当たりがあり,魚がフッキング。オスのハゲ(33cm)

キャッチした。しかしその後当たりがなくなり,まわりのサビキに小イワシが入れ食いに

なって到底かぶせ釣りができる雰囲気ではなくなったので,小1時間ほどで撤収した。

 

 

6時ごろ帰宅して風呂に入り,1時間ほどで夕飯の支度をする。メニューは,小イワシの

煮付け(酒・しょうゆ・砂糖・ショウガの千切り・梅干しを入れて煮たもの),ゴボウの豚肉

巻き煮(しらたき・トウフ・ネギ入り)・レタスとハムのサラダ・スーパーで買ったメンチカツ。

小イワシはイメージどおりにできたが,ビールより焼酎の肴向きかも。

 

 

 

さて,早いもので,あれからもう1年と1か月が過ぎた。

思えば,去年の今ごろは精神的に一番キツい時期だった。

今は何というか,非常にさっぱりした気分になっている。

仕事については,不安定と言えば不安定だが,量的には仕事は常に山積みで,

目の前の仕事を地道にこなしていさえすればよいから,悩む必要がない。

以前は5年先,10年先のことを考えると不安だったが,とりあえず体さえ元気なら

食いっぱぐれることはなさそうだ,という意味では,今の方が安定しているとも言える。

ちなみに,この1年間でかかわった仕事の相手先(下請けプロダクション等を経由した

ものを含む)を,出版社関係だけ列挙すると,こんな感じになる。(釣り関係は除く)

 

・ベネッセ     ・宝島社    ・PHP研究所    ・南雲堂     ・開隆堂    ・数研出版

・桐原書店  ・主婦の友社    ・中央図書   ・文理    ・ソフトバンク    ・ジャパンタイムズ

・ユニコム   ・文英堂

 

仕事の関係者,仕事仲間の皆さん,今後ともよろしくお願いします。

 

 

続いて,新聞の話題。

最近新聞紙上でよく見かける話題のうち,よくわからないことが2つある。

 

1つは,憲法改正の国民投票手続きの法制化に反対する意見のうち,「最低投票率

を決めていないのはけしからん」というものである。なんでダメなの?という素朴な

感情がどうしても沸いてしまう。「最低投票率が決まっていなければ,一部の国民の

意見だけが憲法改正に反映されるおそれがある」と,その人たちは言いたいらしい。

では,その人たちに聞こう。もしも憲法改正の国民投票が行われて,仮に投票率が

4割だったとしよう。その4割の大多数が,たとえば憲法9条の大幅改正に賛成する

投票をした場合,あなたたちはその結果をどう説明するのか?「この投票はおかしい。

投票に行かなかった6割の意見が反映されていないから」とでも言うのか?

それは,どう考えても間違っている。6割の人たちが投票に行かなかったとしたら,

それは彼らが「憲法(改正)など,自分(あるいは日本)にとってはどうでもよいことだ」

と考えている証拠だろう。その事実に対しては,「そんな政治意識の低い選挙民など

相手にする必要はない」と言う人もいるだろう。また,「6割の方が健全派なのだ。

憲法を変えたからといって社会が変わるわけではないことを彼らは知っているから,

確信犯として投票を拒否したのさ」と言う人もいるかもしれない。どちらにしても,

「投票率が低いと民意が正しく反映されない」という考えには,全く賛成できない。

投票に行かないことも,実質的な「民意」なのだから。

(言うまでもなく,この話は「憲法改正が是か非か」という議論とは全く関係ない)

 

 

2番目は,「裁判員制度」というやつだ。解説を読んでも,こんな制度がなぜ必要

なのかが全く理解できない。庶民感情として言えば,「プロの裁判官たちは,さぞ

プライドが傷ついているだろう」というのが率直な感想だ。この制度を作ろうとした

動機はおそらく,「現実の裁判の結果と一般庶民の感情との間にギャップがある」

という発想だろう。しかし,たとえばこんなアンケートを取ってみてはどうだろうか?

 

「あなた自身が裁判の被告であった場合,プロの裁判官だけが判決を出すのと,

素人の裁判官を交えて審議するのとどちらを選びますか?」

 

後者を選ぶ人はほとんどいないだろうと予想するのだが,どうだろうか?

理由は簡単で,「シロウトなんかに自分の一生を決められたくない」ということだ。

逆に言えば,裁判員に選ばれたシロウトにも,大きなプレッシャーがかかるだろう。

自分の判断一つで被告の運命が決まってしまうのだから。プロの裁判官は,当然

そういう自覚と責任感をもって仕事に当たっているわけだが,シロウトの裁判員が

全員そうだとは限らない。中には単なる感情だけで結論を出す人だっているだろう。

あるいは,検事や弁護士のパフォーマンスに騙される人もいるだろう。下手をすると,

検事または弁護士がどれだけ有能か(つまり,どれだけ上手に裁判員たちを騙す

ことができるか)によって被告の運命が決まってしまう,ということだってありうる。

「12人の怒れる男」みたいなことが,現実に起きるのは勘弁してほしい。

 

もちろん,現実的な問題もある。裁判員には分厚い訴訟資料など読む時間も意欲も

ないだろうし,そもそも指名されても断る人が続出するだろう。もし自分が指名された

なら?と想像すると,まず間違いなく拒否すると思う。たとえ「これは義務です」と

言われても,刑務所に入れられない限りは引き受けない。断る代わりに罰金を払えと

言うなら,払ってもかまわない。裁判に関わることによって失われる利益(その間は

仕事ができないので日銭を稼げない)との比較,つまり単純な損得勘定の問題である。

人にはそれぞれ生活があるわけで,自分の生活を犠牲にしてまで余計な仕事は

受けたくない。そもそも,シロウトがプロの裁判官の領分に土足で入り込むような

真似をして,いったい誰に実質的な得があるのというのか?冤罪の可能性は高まり,

裁判所サイドは「お客様」である裁判員を扱うのに大きな労力がかかり,裁判員の

仕事を受ける側にとっても迷惑極まりない。どうしてもシロウトを入れたければ

希望者を募ればよいが,それだと思想的に偏った人物が応募する可能性が高い。

理念的な背景はともかく,現実レベルでの弊害があまりにも多すぎる。

一体誰が,こんな制度を発案したのか?シロウトにやらせるなら,「裁判員」ではなく

「政治員」という制度を作った方がはるかに有益だと思うし,これならほとんどの人が

身銭を切ってでも参加したいと申し出ることだろう。

 

 

ついでにもう1つ。

教育再生会議」のネタは,いつ読んでも面白い。本人たちは自覚していないだろうが,

彼らこそ当代随一の道化役者である。今度は「子供は母乳で育てろ」ときた。

伊吹文部科学相が「人を見下した訓示のようなものをするのはあまり適当ではない」

と評したのは,まっとうなリアクションである。この会議のメンバーは,事務局長の

首相補佐官をはじめ,浮世離れした変人の集まりなので,各人が好き放題に自分の

思想を言い散らかしており,自分たちの発言が社会にどう受け止められるか?という,

社会人なら誰でも思い浮かぶ発想がまるでないように見える。これだけの役者を集めた

からには,いっそ過激なアナクロニズムを全開にして,ヒールに徹してみてはどうか。

その批判を通じて,現代社会のどこに問題があるのかをより多くの人々が考える

契機になるかもしれない。彼らへの批判を1つだけ挙げるなら,「親はこうあるべき」

なんてことは,言われなくても普通の親なら知っている。知ってはいるが,物理的に

できない人もいる。また,怠けてやらない人もいる。どちらのタイプであれ,「親学」

の提唱する立派な提言を進んで実行することはあり得ない。つまり彼らは,きれいな

建前を語るだけで満足するどこぞの政党と同じである。「父親もPTAに参加すべきだ」

とも彼らは提言していたが,安倍総理は自分の子供のPTAに参加したのだろうか?

 

この記事,読んだ方からご指摘があり,安倍総理には子供はいないそうです。

総理,すいません。ただ,仮にお子さんがいても,総理がPTAに出席するのは

現実には難しいだろうと思いますが。言いたかったのは「自分(たち)にできない

ことを他人に押し付けてはいけない」ということです。他人,あるいは子供に何かを

やらせたいなら,自らが率先して範を示さなければ説得力はないだろうと思います。

 

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