日記帳(07年7月2日〜7月8日)

 

 

現在,7月8日(日)の午後5時。

最近,週末が一番忙しい。平日には日数がかかる仕事を入れて,ちょっとした

小遣い稼ぎ程度の軽い仕事(しかしそっちの方が割りはいい)を週末に組んで

いるので,休むヒマがない。この2日は,こんな感じで過ごした。

 

きのうの土曜日は,朝からYさんの下請けの軽い仕事と,別のYさんと共著で出す

単語集のデータ整理。昼ごろ雨がやんで,仕事もちょっと切りがついたので,夕方

4時ごろ仕事場から車で3分ほどの河口でウナギを狙ってみた。しかし,房がけに

した青イソメが投入後30秒後にはきれいにハリだけになって戻ってくる状況で

(エサ取りはフグ),30分ほどでエサが切れてギブアップ。仕事場へ戻ると,G社

から別の下請けの校正ゲラが送られてきていた。5時ごろからまた1時間ほど仕事。

買い物をして帰宅。夕飯の冷やし中華などを作る。夕食後,録画しておいたDVDを

ちょっと見て,9時ごろから1時間ほど校正の仕事。10時のニュースを見て寝る。

 

今日の日曜日は,早朝から須波で1時間半ほど竿を出してみた。サンマが釣れる

かと期待したが,もう回遊してないらしい。かぶせもやってみたが,小型のコブダイと

アイナメが1匹ずつ釣れただけ。7時前に撤収。仕事場へ戻り,きのうの続き。

1時半ごろようやくYさんの下請けの仕事がアップし,メールでデータを送る。

今日の仕事はここまで。時間が合えば今日は「憑神」を見に行くつもりだったが,

ちょっと難しい。近所のショッピングセンターへ行き,お歳暮を見つくろって送る。

下の娘がどこかへ出かけたいというので,3時ごろヨメと3人でドライブ。松永から

北へ向かって,府中から御調,三原と回って,尾道へ寄って帰って来た。

今日はちょっと体もしんどいので,夜は外食。その前にこの日記を書いている。

 

前から思っていたが,下の娘(高1)も,上に似て一般常識がない。きのうもテレビを

見ながら「アフリカって,人が住んどるん?」とか,アフリカの人に失礼なことを聞いて

きた。不安になって小学生レベルの常識をいくつか聞いてみたら,予想どおりだった。

 

「第二次世界大戦で日本が戦った相手は?」―「ロシア?」。

「江戸時代の前の時代は?」―「鎌倉?」

「フランスの首都は?」−「イングランド?」

横でヨメが何か小声で言っている。

娘「ジュネーブ?」−おまえら,あほかー!

「世界三大宗教は」−娘「キリスト教と,仏教と・・・ヒンズー教?」

ヨメ「イスラム教よ」

「では,イスラム教の創始者は?」−ヨメ「モハメド・アリ!」

 

・・・・・・・・ 雑談おわり(全部実話です)。

 

 

久間防衛庁長官が「原爆しょうがない発言」で辞任した。

この件に関して,「非核運動のあり方」について私見を述べてみたい。

この直後,米国高官が「原爆投下は終戦を早めて多くの人命を救った」という趣旨の

発言をしたことに対して,翌日の中国新聞の社説には「論外だ」という見出しが載った。

この「論外」という2文字が,現在の「核兵器絶対反対論者」たちの姿勢を象徴している。

「論外」とは「議論を放棄する」という意思表示であり,一種の思想的ファシズムと言える。

 

「核兵器はあった方がよいか,それともない方がよいか?」と問うなら,誰でも「ない方が

よい」と答えるに決まっている。「核兵器」という言葉を「戦争」に置き換えても同じことだ。

しかし,「戦争をなくそう」という言葉はあまりに抽象的すぎて,運動のスローガンとして

使うのは難しい。「核兵器をなくそう」という目標の方が,まだしも現実性がありそうだ,

とは言える。しかし非核運動家たちは,自分たちの運動をそのような目で見てはいない。

彼らにとって核兵器は「絶対的な悪」であり,それを認めない者たちとは「議論をする

余地はない」という姿勢を取っているように見える。その姿勢は,間違っていると思う。

自分の意見に同調しない人々を最初から排除しようとするのは,単なる独善でしかない。

 

核兵器は,多くの兵器のうちの1つである。ここが議論のスタートになるべきだ。

したがって「核兵器反対」とは,「他の兵器は許容できるが,核兵器は許容できない

と言っているに等しい。すべての兵器(すなわちすべての戦争)を許容しないのであれば,

「戦争反対」と言うべきであって,「核兵器反対」というのは問題のすりかえである。

 

したがって次に考えるべきことは,「なぜ核兵器だけが『許されない兵器』なのか?」と

いうことだ。予想される主な理由は,次の3つだろう。

 

@ 核兵器は一度に大量の人々を殺す。

A 核兵器は無差別に(民間人も含めて)人を殺す。

B 核兵器は生き残った人々に深刻な後遺症をもたらす。

 

これを裏返して言うなら,「小型で殺傷能力の弱い核兵器を開発して,それを軍事基地

などのピンポイント攻撃に使用し,確実に相手を即死させる」ことができるならば,その

ような核兵器は『許容される』ことになる。それが必然的な論理的帰結である。この結論

に異を唱え,「それでもすべての核兵器は悪だ」と言いたいのなら,上記@〜B以外に

「核兵器だけが持つ兵器としての欠点」を挙げねばならない。果たして今日の核廃絶

論者たちは,この議論に応じる心構えを持っているだろうか?

 

別の観点から考えてみよう。世界には,また日本の中にも,「核兵器の存在を(必要悪

として)認める人々」が多く存在する。彼らに対する核廃絶論者たちの批判を端的に

言えば,「広島・長崎の原爆被害の悲惨さをよく知らないから,そんなことが言えるのだ

ということになるだろう。この考え方こそが彼らの最大の誤りであり,独善である。

要するに彼らは「奴ら(核武装論者たち)は愚か者だ」という発想に立っている。

中国新聞の見出しに「論外」という言葉が出てきたのも,根は全く同じだ。

およそ何かを議論したり人を説得したりしようとする人間は,最初から相手を見下して

「自分が説教してやろう」という姿勢を取るべきではない。そんな人の言うことなど,誰も

聞き入れはしないだろう。「原爆至上主義者」たちは,少なくとも「合理的な議論」という

土俵の上では,間違った行動を取っている。このことは,いくら強調してもしすぎではない。

 

ぼく自身は,「核兵器がこの世からなくなってほしい」と思っているが,核抑止力を信じる

人々,すなわち核武装論者たちの主張が,間違っているとも思わない。むしろ彼らの発想

の方が健全ではないかと思っている。彼らの発想は,たぶんこのようなものだろう。

 

「核兵器は確かに恐ろしい兵器だ。だから,おそらく実際に使用される可能性は限りなく

ゼロに近いだろう。それはバーチャルな兵器であり,兵器というよりもむしろ,外交戦術

の一つにすぎない。だから『核兵器が実際に使われたら』という,ありえない前提をもとに

議論する必要はない。むしろ大切なのは,国家同士のパワーバランスの調整である」

 

仮に彼らがこのように考えているとしたら,いくつかの連想が可能になる。

まず,この核兵器をめぐる意見の対立は,「原発」の賛否とよく似た構造だということだ。

原発反対論者たちのうち,まじめにこの問題に取り組んでいる人々は,十分に合理的な

証拠を挙げて原発の危険性やコストパフォーマンスの低さを問題にしている。それはよく

わかっているが,その他おおぜいの(建設予定地の住民を除く)「なんとなく原発反対」派

の人々は,「データなんかどうでもいい。とにかくダメなものはダメ」という生理的な嫌悪感

で反対しているケースも少なくないと思う。核兵器反対とか戦争反対というのもこれと同じ

図式であって,最初から相手の意見を聞こうとしない人々が少なからず含まれていそうだ。

 

また別の連想として,では「バーチャルでない兵器」ならどうか?という発想が出て来る。

代表例は,地雷である。核兵器には賛否両論があるとしても,地雷という兵器に賛成する

人は,紛争当事国のゲリラやレジスタンスでない限り,世界中にほとんどいないだろう。

先ほど挙げた@〜Bの条件を考えてみても,地雷は一度に大量の人々を殺すわけでは

ないが,兵士と民間人を区別しない無差別兵器であり,負傷者に大きな後遺症も残す。

そして,核兵器と決定的に違う点は,今この瞬間にも世界中で多くの人々の命を奪い

続けている。この点で,地雷は核兵器よりも「危険」であり,許されない,と考える人々が

世界にはたくさんいると思う。地雷と核兵器との違いは,「バーチャルな兵器か,リアルな

兵器か」という点にある。「核兵器だけは許されない」と考える活動家の人々と,そうでない

一般の人々との「温度差」の根源が,ここにある。皮肉なことだが,「広島・長崎以降,

核兵器は歴史上一度も使われたことがない」という現実そのものが,反核運動

に対して多くの一般人が「冷ややかな目」を向ける理由になっているのである。

そして,「広島・長崎以降,核兵器が一度も使われていない」というその事実は,

反核運動が功を奏したからでは全くない。その唯一の理由は,各国が核兵器を

一種の外交手段として利用することにとどめるという,ある意味で賢明な判断を

これまでずっと行ってきたからである。「その『賢明』な判断が今後も続く保証はない」

と,反核論者たちは言うだろう。しかしそれは「お前たちの国(の政治)を信用しない」

と言っているのに等しく,核抑止力を信じる国々の人々の心に届くとは思えない。

彼らにしてみれば「核兵器が恐ろしい結果を生むことは,言われなくてもわかっている。

だから我々は現に,あれ以降一度も核兵器を使っていないではないか」という一種の

「反感」を,被爆者団体をはじめとする反核運動に対して抱いている可能性は高い。

そういう相手に対して「いや,あなたたちは核兵器の本当の悲惨さを知らない。それを

知っているのは,身をもって体験した我々だけだ」と主張すれば,どんな結果を生むか?

おそらく相手は,「あなたたちを不幸な目に合わせた当事者に対してそういう主張を

するのならまだしも(もっとも米国には原爆被害者に対する損害賠償をする法的義務は

ないが),直接関係のない我々に,自分たちの不幸を押し付けられても困る」という

感想を(内心では)持つだろう。「痛みは,それを受けた本人にしか分からない。だから

痛みを与えた側は,無条件に被害者の言うことを聞くべきだ」という思想は,かつての

部落開放同盟の主張とオーバーラップするものであり,当事者でない人々の共感を

得るとは正直思えない。

 

ここで一つ,断っておきたい。

「我々は世界で唯一の被爆国であり,核兵器の悲惨さを身を持って知っている。

だから,世界の先頭に立って核廃絶運動を推進するのが,広島・長崎,そして日本

(そして中国新聞)の使命である」という意見は,当然あるだろう。いつも言っている

ことだが,ぼくは「理屈では世の中は動かない」と基本的に考えているので,そういう

「理屈抜きの情熱」を否定するものでは決してない。反核活動家たちが,そういう一種の

社会的使命感や責任感に燃えて,自らの主張を広めようとしている姿勢は尊いと思う。

 

しかし一方で彼らは,「どのようにしたら自分たちの主張がより多くの人々に受け入れ

られるか?」という「説得のテクニック」を,もっと真剣に考えるべきだと思う。

 

今日多くの日本人は,自衛隊や日米安保体制を認め,「理想論としては戦争はない

方がいいし,軍隊も必要ない。しかし現実の国際情勢を見れば,必要悪として認め

なければならない部分もある」という考えをもっているように思われる。核抑止力を

信じる人々の発想も,これと全く同じである。その多くの人々の心情を理解しようと

せず,「核兵器絶対反対」と唱えているだけで自分たちの運動が自然に広がっていく

はずだ,と反核論者たちがもし考えているとしたら,彼らはかつて55年体制下で

「非武装中立論」を唱え続けた旧社会党と同じ末路をたどり,「運動の拡大」よりむしろ

「いかにして自分たちが生き延びるか」という守りの姿勢に転換せざるを得なくなる

時期が,遅かれ早かれ来るのではないだろうか。

 

 

追記:

繰り返しますが,「原爆反対運動」を批判したいわけではありません。その運動に

携わっている人々や,それに賛同する人々の気持ちはよく理解できます。

しかしぼくは,中国新聞の論調に対して常々,「正しいのは自分たちの方であって,

相手は無知(バカ)なのだ」と言わんばかりの高慢な姿勢を感じており,それに対して

一言言いたかった,というのがこの文章を書いた動機です。

ぼく自身の思想は,「戦争も核兵器も自衛隊も全部反対。万一他国が日本に攻め

込んできて占領されたら,それで仕方がない」というラディカルなものです。もちろん

これは個人的な思いであり,世の中の多くの人々が多数決で憲法改正や徴兵制に

賛成するのなら,それも仕方のないことだと思っています。ぼくにとって一番大切

なのは,「誰でもみんな,その人なりの考えがある。自分とは意見の違う人がいても,

その意見に耳を傾ける努力をしたい」ということです。自分と意見の合わない人や

集団を最初から相手にしないような姿勢は,嫌いです。

 

 

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