日記帳(07年7月17〜22日)

 

 

今週はちょっと仕事を頑張って,きのうの土曜日までに市販本の原稿を1本脱稿.

2か月ほど少しずつ書いていたちょっと大きな仕事も99%完了して,気分的に楽になった.

きのうの土曜日は,ヨメは友達と飲みに行き,下の娘は野外コンサートで庄原へ行ったので,

二人とも帰りは夜の11時過ぎになる.久しぶりに夜はゆっくりテレビを独占して一人で酒を

飲めるので,仕事の合間にちょっと晩のオカズを調達に干汐へ行った.予定どおり,1時間

ちょっとで小イワシ・小サバ・小アジを50匹ほどゲット.

 

 

これを実家へ持って行ってさばいて,夕方唐揚げを作っておいてくれるよう頼んで,ちょっと

長めの散歩をして汗をかき,スーパーで焼き鳥やサラダを買い,実家で小魚の唐揚げを

もらい,7時ごろ帰宅してシャワーを浴びて,テレビの前に缶ビールとつまみを並べて座る.

とりあえず撮りだめしておいた「釣りごろ釣られごろ」とか,五つの赤い風船の結成40周年

記念ライブとかを見ながらビールを飲んで,チャンネルを回すとサッカー中継で日本対

オーストラリア戦をやっていたのでこれも時々見て,新聞のテレビ欄を見ると9時から

時をかける少女」(アニメ)とあった.公開当時は映画のリメイクだろうと思って見に行か

なかったが,どうも違う話らしい.2006年の映画賞を総なめしたことも知らなかったので,

チャンネルを回したら,これが予想以上に面白かった.万人にはお勧めできないが,

そっち側の人々の琴線には確実に触れるだろう.その最大の理由は,言うまでもなく

主人公が「少女」だからである.その点では宮崎アニメと同じだ.ただ,宮崎作品は

最初の頃から無国籍というか,日本人以外の人が見ても面白いと感じさせるような作りの

ものが多かったが,宮崎作品以外の劇場公開される単発の(ポケモンとかコナンとかの

シリーズものでない)アニメ作品は,日本人の特定の世代や感性を持つ観客をターゲット

にしている分,その作品がストライクゾーンに入る人々にとっては特に訴求力が強い.

「時をかける少女」,できることなら劇場で見たかった.

 

 

ところで,最近こうやって週末のたびに日記帳を更新する1つの理由は,まともに釣りを

してないので釣り日記が出せないためだ.が,一種の義務として書いているわけではない.

書きたいことは山ほどあるが,平日は夜も仕事をしていて時間が全く取れないので,

休日にちょっと時間を取って書いているだけだ.金がもらえるわけでもないのに,なぜ

こんな読み捨てにされる駄文を書こうとするのか,自分でもわからない.

根源的な自己表現欲というか,別に世間に対して何かを主張したいわけではない.

日頃さんざんワープロソフトのキーを叩いているが,下請けの仕事は仕様がガチガチに

決まっていて機械的な作業のことが多く(だから市販本の原稿を書く方がクリエイティブで

面白い),こうやって好き勝手なことを書き散らしてストレスを解消している面もある.

 

で,これから,日頃感じている,あまりにミもフタもないことを書こうとしているわけだが.

 

「一人一人にたずねたらみんな『戦争なんかない方がいい』と言うはずなのに,

なぜ世界ではいつも戦争が起きているの?」

 

唐突ですが,子供にこう質問されたら,皆さんは短い言葉で答えることができますか?

ぼくは,この問いに対する自分なりの答えを持っています.それは,こうです.

 

「戦争が起きる最大の理由は,リーダーたちの好戦的な性格にあるのだよ.

一般人は戦争が嫌いでも,指導者たちは戦争が好きなのさ」

 

この真理は,戦争だけでなく,世の中のあらゆる事象に当てはまる.

来週の日曜日は投票日だが,新聞の論調を見ると「格差の是正」とか「地域社会の

再生」とか「社会構造の転換点」といった言葉が並んでいる.庶民の声を拾い上げた

紙面では,ほとんどの人が「弱者にもっと思いやりのある政治を」「今の世の中は

弱肉強食で,政治に『愛』が感じられない」というようなことを言っている.

このような普通の人々の発想は,「なぜ戦争は起きるの?」という子供の疑問と

同じで,残念ながら「強者」たちの耳には(本当の意味では)届かない.

 

世の中は,強者と弱者とに二分されているわけではもちろんない.

しかし,エスタブリッシュメント(支配者層)の人々は,「権力を持っている」という

意味だけで強者なのではなく,まず例外なく「攻撃的な性格」の持ち主でもある.

逆に言えば,攻撃的な性格の人でなければ成功者にはなれない,ということだ.

ここで言う攻撃性とは,他人と争いたがる性向という限定的な意味ではなく,

「前に進みたいという欲望」くらいの幅広い意味である.子供たちの間にも,

生まれついての性格の違いは見て取れる.生来のリーダーシップを持っている

子もいれば,羊のようにおとなしい子もいる.時々「成功者」と呼ばれる人々が

新聞のコラムなどに連載記事を書いている.そこに書かれていることは,

「自分はこのようにして成功した.だから世間の他の人々も,同じようにすれば

成功できる」という内容であることが多い.こういう記事を読むたびに思うのは,

「この人には,自分のような『特殊な才能』を持たない人間の気持ちは永久に

わからないのだろうな」ということだ.

 

端的に言ってしまえば,「性格的強者」は,弱者が嫌いである.彼らの思考は

常に前向きであり,自己実現の願望が人並み以上に強い.ある性格的強者が

たとえば科学者や芸術家であれば,彼らのエネルギーは科学的真理や芸術的

真理の探求に向かうだろう.では,彼がもし実業家や政治家であったなら?

実業家なら,間違いなく「1円でも多くの金を儲けたい」と考えるだろう.そして,

その目的を達成するためにあらゆる手段を取るだろう.より多くの利益を上げる

ためには,競争相手に勝たねばならない.その努力の過程で彼は,少しでも

安上がりの労働力を求めるだろう.現在,労働者の最低賃金の引き上げが

話題になっており,野党の多くは時給の最低保証を1,000円以上に引き上げる

べきだと主張している.しかし,もしそれが実現しても,現在低賃金で苦しんで

いる労働者の多くが救われることはないだろう.なぜなら,経営者たちは,

日本人に高い給料を払うよりも,低賃金の外国人労働者を増やす方向に

向かう可能性が高いからだ.その結果「安い給料で働く」ことさえできなくなった

失業者が町にあふれ,社会はますます混乱するかもしれない.そして,その

ようにして社会が荒廃しても,それに対する責任を感じる企業経営者など,

一人もいないだろう.彼らの目的は,自社の利益追求のみにあるからだ.

外資による敵対的TOBなども,これと全く同じ構図で考えることができる.

自分の経済活動の結果として弱者,つまり不幸な人々が増えても,彼らは

心の痛みを感じることはないだろう.「格差社会」という本の中でも指摘されて

いたことだが,たとえば100円の品を1万人に売るよりも,1万円の品を100人

に売る方が簡単だし利益も大きくなるのだから,弱者が増えても彼らは

実質的に困りはしない.彼らは当然,そういう打算のもとに行動するだろう.

 

では,政治の場合はどうだろうか.政治家にとっての自己実現とは,「政治の

世界で自分の地位を上げること」であり,「政治的闘争を勝ち抜く」ことだろう.

その意味で小泉前総理は,具体的な政策の実現よりむしろ,日々の政治闘争

そのものに生きがいを見出していたに違いない.政治の場合は,科学や芸術

とは違って「万人が認める業績」というものが想定しづらいので,「闘争」が

自己目的化する傾向があっても不思議ではない.その過程の中で,実業家

たちと同様に,政治家もまた「上昇」「拡大」「勝利」を志向する.その最終的な

結末が戦争である.「政治家は天下国家のことを考える仕事だ」と反論する

人もいるだろうが,それは部分的にしか正しくない.現実の政治家たちの

頭の中を占めているのは,第1に「次の選挙に勝つこと」,つまり「闘争」

そのものである.もちろん「自分の力で世の中をよくしたい」という気持ちは

持っているだろうが,それはある意味で彼ら自身の自己実現欲を満たす

ための手段にすぎない.

 

「強者の論理」は,世の中のあらゆる局面に見られる.それを特に感じるのは,

税金・教育・家庭生活などの分野だ.福祉・農業・医療についても弱者切り捨て

の傾向は強いが,それは主に財政難という現実的な制約による.

たとえば税金に関しては,「ニートなど税金をまともに払っていない連中を支援

するために国民の税金を使う必要はない」という意見が,「強者の論理」の

典型である.現代の経済的弱者たちは,必ずしも自分の責任でそうなった

わけではない.教育や家族問題しかり.既得権を持つ人々の頭の中には,

理想的な家族像や社会像があり,そのワクの中に現実を押し込めようとする.

「自分のようにすれば成功するはずなのに,できないのは君たちの努力が

足りないからだ」と新聞のコラムに書く成功者たちと,根は同じだ.攻撃的な

性格の人は,往々にして自分の意見を他人に押し付けたり,他人を自分と

同一視する傾向がある.教育論を語る識者の大半はそうだし,安倍総理

にも多分にそうした面を感じる.さらに言えば,教師一般にもそういう傾向が

ある.学科の教師であれ体育の教師やコーチであれ,彼らはある意味で

成功者であり,「誰でも努力すれば(自分と同じように)できるはずだ」と思い

込みやすい.しかし実際には「努力してもできない」子も少なくないのだ.

 

「強者は弱者が嫌いだ」というのは,もっと卑近な例からもわかる.たとえば

スポーツや勉強もそうだ.スポーツは「相手に勝つ」ことが実質的な目的で

あり,上達すればするほど「強い相手」を求めるようになる.自分より明らかに

弱い相手と戦って勝っても,大きな達成感は得られない.政治の世界にこれを

当てはめてみると,政治家はたとえば「実現困難な政治的事業」には熱意を

もって立ち向かうだろう.小泉前総理にとっての郵政民営化や,安倍現総理

にとっての憲法改正がそうだ.一方で,「自分でなくてもできること」には,

あまり大きな熱意を示さないだろう.安倍総理が基本的に経済政策に無関心

なのは,その方面では自分の存在価値をアピールできないからだろう.

「弱者を救う」という目的は,多くの政治家が持っている「攻撃的性格」とは

基本的に相容れない.繰り返すが,強者が求めるものは「進歩」や「拡大」

や「勝利」である.彼らは,新しいものを作ったり,社会構造を変革したり,

外敵と戦ったりすることには情熱を燃やすだろう.しかし「弱者たちの世話を

すること」は,彼らの本質的な欲望を満たしてはくれない.「子守りのような

仕事は自分以外の誰かに任せておけばよい」というような感覚に近い.

現在政治家たちが「弱者たちへのフォロー」をしきりに言い立てているのは,

選挙での票目当てにすぎない可能性が最も高い.

 

 

以上のことから,「庶民の心の痛みがわかる人が政治家になってほしい」と

いう普通の人々の願いが,いかに現実離れしているかもわかる.はっきり

言って,「人の心の痛みがわかる」ような人が,政治や実業の世界で成功する

可能性は極めて低い.これは何も,政治家や実業家が悪人ばかりだ,と

言っているわけでは決してない.単に,個人の性格的な特徴と職業との

相関を一般化しようとしているにすぎない.つまり「世の中はそういうふうに

できている」ということだ.企業経営者たちは言うだろう.「人件費を削って

経費を節減しなければ,グローバル化する経済環境の中で生き残っては

いけない.会社が儲かっても社員の給料を上げないのは,会社の資産を

増やして体力をつけておくことが競争力強化につながるからだ」と.しかし,

それは半分は本当で半分はウソだ.ウソの半分とは,彼ら経営者自身の

「個人的欲望」が,そうした経営方針の動機となっているからである.

その欲望とは上昇欲であり,他者を出し抜こうとする競争欲である.

彼らにとっては毎日が戦争であり,その戦争を戦うこと自体が,彼らの

生きる意味である.社員の幸福のことなど,構っていられるはずがない.

 

同じことは政治家にも言えそうだ.「日本の農業も競争力をつけるべきだ.

だから補助金は,一定以上の規模の農家にしか出さない」と彼らは言う.

「日本の農業を守るために小規模農家に補助金を出す」という選択肢も

ある(現に野党はそう言っている)のだが,「産業の競争力強化」という

方向に話が向かうのは,そういう「攻めの姿勢」こそが彼らの個人的な

性向によりマッチするからだとぼくは思う.日本の財政がここまで悪化

した第一の責任は,政治家たちが湯水のごとく税金をバラまいたから

だが,今に至っても彼らが財政の引き締めに重い腰を上げないのも,

「経済成長によって税収を引き上げる」という成長路線に固執するのも

(この路線自体,既にかなりの国民の共感を得にくくなっているのだが),

官民のリーダーたちの「上昇を志向する性格」によるところが大きい.

政治の究極の目的は国民のすべてを幸福にすることだろうが,現実

にはそれはあり得ない.せんじつめれば政治とは「税金の再配分」で

あり,お金の量が一定である以上,誰かが得をすれば誰かが損をする

に決まっている.だから政治家の生きる意味とは,ある場合には

「自分のスポンサーにどれだけ得をさせるか」であり,別の場合には

「選挙での勝利」であったりするだろう.自分(たち)の力では世の中の

幸福の量全体を増やしたり減らしたりはできないことを,彼らは内心で

理解しているに違いない.だとすれば,彼らの思考は「他者と競争して

自分の側の取り分をより大きくする」方向へと向かわざるを得ない.

 

今回の選挙の結果がどうなるかはわからない.

ひとりの市民としては,今の「欲望追求」型の社会の方向性が変って

ほしいと思っている.しかし,政治家という職業が攻撃性の強い人物を

求めるのだとしたら,どの政党が勝っても,政治の本質は変らない

ような気がしないでもない.そういう意味で,政治(家)がわれわれの

生活に介入する程度が少なければ少ないほど,心優しい庶民たちは

幸福でいられるのではないだろうか.政治家の諸君,君らは君らの

土俵の上で勝手に戦っていてくれ.われわれは君らの個人的欲望を

満たす道具ではないのだから.

 

 

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