日記帳(07年11月24日〜12月9日)

 

 

今年もぼちぼち終わりに近づき,大掃除や年賀状の季節になってきた。

きのうの忘年会の疲れを取りながら,今日は半日パソコンに向かっている。

 

仕事の総括。今年出した市販本は,これだけ(一番右のは2008年1月発売)。本の紹介はこちら

 

 

「一発当たれば印税生活」のような本は,残念ながらない。

市販本の原稿書きは締め切りに余裕があることが多いので,どうしても後回しになる。

印税もどれだけ入るか脱稿時点ではわからないので,下請け仕事の方が割りがいい

ケースが多い。しかし中学生向け問題集の原稿書きとかの仕事を長期間やるのは

飽きるので,原稿を書く分には一般書が一番楽しい。

いや,一番楽しいのは釣り雑誌の原稿(原稿料が入るやつ)か。

 

そんなこんなで今年もいろんなことがあり(ここには書けないことも含めて),まあどうにか

無事に暮れようとしている。フリーになって以来常に感じるのは,「いつ仕事がなくなる

かもしれない」というプレッシャーだ。売れっ子の芸能人や漫画家なども事情は同じらしく,

「もうあんたは十分稼いどんじゃけ,仕事がのうなってもえかろうが」と傍目には映るが,

本人はそういうわけにはいかないだろう。ましてこちらは「十分稼いだ」などとはとても

言えないので,毎日が必死と言えば必至だ(が,実際は適当に思考停止して逃げている)。

 

馬場俊英が紅白に出場するまでに売れたのは,驚きだった。今年になって急に

売れたシンガーソングライターだが,有線では去年からよく流れていたので,人気が

出る前から知っていた。「人生という名の列車」をカラオケで何度か歌ったこともある。

この人もいったんデビューした後でクビになり,38歳で再デビューを果たしたことで

「リストラの星」と言われているが,本人は「いつまでこの人気が続くかと思うと怖い」と

テレビで言っていた。

 

映画は,今年は「キサラギ」が断トツで一番面白かった。「かもめ食堂」のスタッフが

作った「めがね」は,相変わらず変な話だったが,映像のインパクトが強かった。

福山のシネマモードで今年見た映画のうち,一番客が入っていたのはこの作品だった。

 

本で言うと,「若者はなぜ3年で辞めるのか」も印象に残ったが,今年のマイベストは

「ウェブ炎上」(荻上チキ・ちくま新書)だ。ネット上の集団行動(サイバーカスケード)

を過去の事例とともに客観的に分析・解説した本で,「炎上」のメカニズムが興味深い。

たとえば,「集団分極化」という現象が取り上げられている。この説明によれば,

人々は集団で討議を行った後,お互いに歩み寄るのではなく,当初の意見の

延長線上にある極論へシフトする傾向があるという。端的に言えば,「朝まで生

テレビ」のような番組に参加したりそれを見たりした人は,敵対する相手の意見を

取り込んで自分の意見を修正するのではなく,当初持っていた考えよりもさらに

過激な(相手の意見から遠ざかるような)意見を持つようになる,のだそうだ。

言われてみれば,そうかもしれない。また,イラク人質事件でのバッシングや,

「福島瑞穂の迷言」など,具体例が非常に面白い。この本を読みながら,考えを

改めさせられたこともある。考えてみれば当然なのだが,たとえば掲示板荒らしと

いうのは,一種の「いじめ」の性格を持っている。そしてぼくは以前雑記帳に,

「いじめは一種の化学反応だ」と書いた。掲示板荒らしもまさに化学反応であり,

荒らされやすい火種(この本によれば,たとえば「朝日新聞」「朝鮮人」などの

キーワードはサイバーカスケードを誘発しやすいという)と,いじめっ子的性格が

少し強い個人(たち)とが反応して火がついたのが「炎上」現象であり,その

小規模な形での表れが掲示板荒らしだと言うことができる。しかるにぼくは,

同じ雑記帳で,掲示板荒らしという行為が,それを行う人たちの『心の歪み』から

発するかのようなとらえ方をしていた。それは間違っていたように思う。

もちろん,掲示板荒らしは品のよい行為ではない。しかし,いじめっ子がみんな

反社会的な大人になるわけでは決してないのと同様に,掲示板荒らしをする

人たちを異端視するような目で見るのはちょっと違うのだろうと思う。同じ人が,

あるときにはブログの炎上に加担し,別の場面ではたとえば「大切な自転車を

盗まれた○○さんのために情報提供を」というネット上の呼びかけに呼応して

善意のネットワークの一員となるかもしれないのだから。筆者によれば,

サイバーカスケードには確かにネガティブな面もあるが,それを防ぐために

規制の網をかけすぎると,インターネットの長所を否定することになりかねない

という。そのあたりの線引きは難しいところだが,たとえば「ウィニーの発明者を

処罰する」ような発想にはぼくは賛成できない。ネット上での発言は過激になり

やすく,特に掲示板荒らしは学校でのいじめとは違って「嫌なら掲示板やブログを

閉鎖すればよい」という逃げ道があるので,荒らす方も責任をあまり感じない

だろうというのは理解できる。まあ,お互いほどほどに,ということだ。

最後に,本書の中で最も印象に残り,共感を覚えた一節を挙げておこう。

 

−「インターネットの法と慣習」(ソフトバンク新書)の著者・白田秀彰氏の発言の引用−

 

「電脳界においては『法の完全実行』をやろうと思えばできてしまう・・・(中略)

法律に書かれていることは守らねばならないのだから,脱法行為は一切許され

ない環境になって何が問題なのか,という意見もあるでしょう。しかし,法の完全

実行は『法の過剰』とも呼べる事態をもたらします。というのも,現実界では

軽犯罪法など見てもらえればわかるように,私たちが日常行っている些細な

ことも犯罪として括られています。たとえば下品な話ですが,立小便はしっかり

軽犯罪法違反に含まれています・・・(中略)・・・それらを逐一処罰していれば,

相当息苦しい状況になることは想像がつくと思うんですね。このように,法律と

現実の間には適度な『ゆとり』がなくてはなりません。むしろ現実界では,完全な

法の実行は不可能だということが前提になっていたのです。」

 

−これに続く,筆者の意見−

 

例えぼ犯罪の場合、通常であれば法的手続きによって有罪宣告がなされるまでは

どんな人であれ無罪と推定されるという「推定無罪」の原則、つまり「疑わしきは

罰せず」の原則が確立しています。それにもかかわらず、「疑わしきはバッシング」

といわんばかりに私刑が加えられるなら、法によって保とうとしていた秩序体系に

大きなヒビをもたらします。すなわち、各人の「道徳」や「善意」が可視化されること

によって、それまで 「区別」されていた秩序を壊すことがあるのです。
確かに飲酒運転などは許されないことです。ただし一方で、ミクシィでは一時期、

「飲酒運転」などのキーワードで検索しては、「犯罪者」を積極的に見つけてコメント

欄で非難し、掲示板などでその人の日記や写真などをさらすという行為をしている

人たちもいました。これら「自警団」的な行為は、ともすれば「私刑」と変わりのない

行為となります。批判対象に問題がありさえすれば、それに対するどのような批判も

正当化されるというわけではありません。法的にまずいかどうかは、法の手続きに

よって明らかにされる必要があるはずです。それと同様に、誰かが法的にまずい

ことをしたとしても、それを裁く権利は個人には与えられていません。法に触れる

ようなことをした人を私刑し続けるという態度は、実はまったく法的な態度ではなく、

新たな暴力を生み出します。私刑の事例は有史以来数知れませんが、ウェブを

利用する形でさらなる過剰性が生まれていることには注意が必要です。

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