日記帳(07年12月10日〜12月15日)

 

 

元F1チャンピオンのシューマッハが,ドイツの旅行先で飛行機に乗り遅れそうになり,

乗っていたタクシーを運転手の代わりに運転して,どうにか間に合った。タクシーの

運転手は,シューマッハが運転する車に乗れたと感激していた --- というニュースが,

新聞の三面記事に載っていた。これを読んで,思った。もしシューマッハが日本で

同じ行動を取ったなら,単なる「ほほえましいエピソード」では終わらないだろうな,と。

なぜなら,この記事を読んだ読者の中から,こういうことを言う人が出てきそうだからだ。


『シューマッハの運転したそのタクシーは,スピード違反をしていたのではないのか?

警察はきちんと取り締まるべきだった。新聞も,スピード違反を黙認するような記事を

載せるべきではない』


考えすぎかもしれない。が,日本人は概して,この種の「悪者探し」が好きなように思える。

ぼく自身は実利主義者なので,「実害がない限り,すべての法律や決まりを厳密に守る

必要はない」と思っている。そして自分の知る限り,日本以外の国々ではこのような

考え方が支配的である。食品偽装事件について週刊文春に「その程度のことで大騒ぎ

するな」という趣旨の記事が出ていたが,全く同感だ。


話は変わって,今回日記帳を更新したのは,今年中にどうしても書いておきたかった

ことが1つあるからだ。


人の考え方はそれぞれ違っていて,自分とは違う考え方に出会ったとき,それらを

全部否定したり腹を立てたりしていては議論などできない。だから,自分とは違う

考え方に対しても,極力その人の立場を理解しようと努めることが必要だし,そう

考えればたいていの人の言っていることはそれなりに納得できる。しかし時には,

自分の心の敏感な部分に触るというか,「人として許せない」と思うような意見に

出会うことがある。年末を迎え,今年いろんなメディアで見聞きした意見の中で,

個人的に「どうしても許せない」と思ったケースが1つあったので,ここに紹介しておく。

もちろんこれは個人的な感性の問題であり,他の多くの人々に賛成してもらおう

とは思わない。わかる人にだけわかってもらえたら,それでいい。

その「どうしても許せない意見」の全文を,以下に再掲させていただく。

2007年11月3日の中国新聞に載った,次の署名入り記事である。

 

広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの機長で,1日に92歳での死去が報じられた

ポール・ティベッツ氏は,市民ら20数万人を殺傷した原爆使用の「正当性」を主張し

続けた。彼の言説と軌跡をたどると,未曾有の惨禍をもたらした原爆を,勝利を追求

する軍人の視点からしかとらえられなかったことが浮かび上がる。今に続く米国の

歴史観や,核兵器の力に頼る根深い考えを表し続けたともいえる。ティベッツ氏が

B29戦略爆撃機に母の名前を付けた広島への飛行について,発言を許可されたのは

19年後の1964年。東西冷戦が続き,米軍は原爆の機密保持に神経をとがらせていた。

米の雑誌などから「戦争を終わらせた英雄」と呼ばれた大佐は准将となり,66年に退役。

オハイオ州で飛行会社を経営した。彼の行動が再び注目されたのは76年の模擬原爆

投下ショー。自らが操縦かんを握って再現した。78年には全米在郷軍人会から原爆

投下の頁献に対して在郷軍人賞を受けた。

「広島の人間が望むような言葉は決して口にしなかった」。中国新聞ニューヨーク特派員

として80年,インタビユーにこぎつけた松浦亮さん(73)は死去を聞いてそう回顧した。

「広島の惨状になんと答えるのか」の質問に,氏は持論を主張した。「原爆投下で

たくさんの人命が失われたが,私はもっと多くの人命を救ったと信じている」(80年6月

18日付中国新聞)。原爆の使用を決断したトルーマン米大統領の戦後の発言と同じで

あり,その歴史観は現在の米首脳まで続いている。


搭乗員12人の行動をまとめた「ヒロシマヘの七時間」(ジョセフ・マークス著)ではさらに

直裁に語っている。「(戦争に)勝つためには動員可能な手段をすべて使わなければ

ならない」。氏が監修し,80年に全米放送されたドラマ「エノラ・ゲイ」では「原爆は世界に

平和をもたらした」とのナレーションで終わる。


軍人になる前は医学生だった氏は終生,投下の「正当性」にこだわり続けた。97年には

「同じ状況下に置かれれば,迷わず再び任務を遂行するだろう」と述べ,投下60年の

2005年8月にはネット上で「原爆は必要だった。後悔していない」と発表した。


氏は終戦直後に科学者らを乗せて長崎に降り立っている。しかし最期まで原子雲の下で

何が起きたのか,被爆者の身にその後も何が続いているのかに目を向けなかった。

見つめるにはあまりにも重大な結果を引き起こしたからでは…。そう推し量るのは,

終生軍人として生きた氏に対して,甘すぎる考えだろう。  (編集委員・西本雅実)

 


たいていの人はこの記事に特に違和感を感じないだろうし,「大いに賛成だ」と思う人も

大勢いるだろう。しかしぼくは,この記事を書いた西本氏という編集委員に,どうしても一言

言わないと気が済まない。あなたは「思想」に振り回されて,「人間」というものが見えなく

なってしまっている。

記事の最後の文では回りくどい言い方をしているが,要するに西本氏は,「ティベッツ氏は

(原爆を投下したという)自分の罪を認めて懺悔すべきだ(った)」と主張している。皆さんは,

この意見を聞いてどう感じるだろうか?何度でも言うが,ぼくはこの意見に,そしてそれを

書いた西本氏に対して大きな不快感を抱く。たとえこの人の身内が,原爆の犠牲者だった

としてもだ。原爆反対の思想が間違っているとは言わない。しかし,その主張のために

他人の人生を愚弄するのは,人として「やってはいけない」ことだと思う。

お前は何が言いたいんだ?と思われそうだから,もう少し説明しよう。人は誰でも,自分の

「生きる意味」を考えようとする。人が自殺したり犯罪に走ったりするのは,自分の生に何の

意味も価値も見出せないからだ。たとえば戦死者の遺族は,それが事実であろうとなかろうと,

その人が「国や家族を守るために尊い犠牲となった」と思い込もうとする。そういう観点から

言えば,身内が原爆で亡くなった人は,なぜその人が死ななければならなかったのかの意味

づけが難しい分,悲しみの持って行き場がないと言える。同じことは通り魔に身内を殺された

人にも言えるし,だからこそ彼らは「二度とこのような事件が起きないように」と祈ったり行動

したりすることで,自分の身内が死んだことに何らかの意味づけをしようとするのである。

一般に人が自分の人生を振り返るとき,「自分の人生は間違いだった」と総括する人は

ほとんどいないだろう。他人の目からどう見えようが,自分の生きてきた道を肯定しようと

努めるはずだ。それが人間の本性である。さて,ここに一人の元軍人がいる。彼は上官の

命令を受け,爆弾を落として敵国の軍人や民間人を殺した。そして時が過ぎ,彼は自分の

「生きた意味」を考える。自分のしたことは間違いだったのか?--- 彼は,世間の他の人々と

同じように,「自分の人生には(肯定的な)意味があったはずだ」と思いたがる。彼にとっての

人生の意味とは,「自分の落とした爆弾によって,結果的に他の多くの人々の命が救われた」

という思いだ。その意味づけが客観的に見て正しいかどうかは問題ではない。彼のその思いは,

「国や肉親を守るため」と自分を納得させて死んでいった日本人兵士たちの心情と変わらない。

それが人間というものだ。西本氏は「終生軍人として生きた氏に対して,甘すぎる考え」と言うが,

それは逆だ。「終生軍人として生きた」氏だからこそ,自分の生きた意味を,「軍人としての

務めを全うした」という思いにこめるのである。彼は司令官でもなければ,原爆投下の意志

決定ができる立場にもなかった。軍隊という組織の1つの歯車に過ぎない。軍隊に限らず

組織人というものは,上から与えられた命令を忠実に実行するのが務めである。そして

太平洋戦争では,日本の兵士も米国の兵士も「正義は我にあり」と信じて戦っていた。

したがって彼が「自分は軍人としての務めを果たした」「結果として正義は実現された」と

思い込んだとしても,それは当然のことである。原爆投下当時の総司令官や大統領を

批判するなら理解できる。しかしティベッツ氏は当時,一人のパイロットにすぎなかった。

今年話題になった一連の食品偽装事件,たとえばミートホープを思い出してみるがいい。

偽装の意志決定をしたのはワンマン社長であり,現場の社員たちは仕方なくその命令に

従ったにすぎない。従わなければクビになって生活していけなくなるからだ。そういう事情を

知った上で,あなたはミートホープで働いていたオジサンやオバサンたちを責めることが

できるのか?「事情がどうであれ,おまえたちは消費者に迷惑をかけたのだから懺悔せよ」

と,現場で働いていた従業員たちをあなたは糾弾するのか?そういうことをする人間がもし

いたなら,ぼくはその人を許せない。その指弾は,「世の中のために,おまえは偽装行為を

断るべきだった。その結果おまえがクビになって路頭に迷おうが,知ったことではない」と

言っているのと同じだ。西本氏ががティベッツ氏に対して言っていることは,それと同じ

なのである。ましてこの記事は2日前に死去したティベッツ氏への「追悼文」であり,

その中で西本氏はティベッツ氏の「人生」を否定していることになる。それは,まっとうな

人間のすることではない。


ところで,このように考える人があるかもしれない。


「原爆で身内を失った遺族なら,この元機長に恨みの一つも言いたくなるだろうし,懺悔を

求める資格もあるかもしれない。西本氏はその遺族たちの心情を代弁しようとしているのだ。」


しかし皆さん,思い出してみてほしい。戦争を実際に体験して身内を失った人々が,テレビで

語る番組を。彼らはそこでどんな言葉を発するか?「アメリカが憎い」「自分の肉親を殺した敵の

兵士が憎い」「広島に原爆を落とした飛行機の操縦士が憎い」などと言う人は,一人もいない。

もちろんそういう感情も,なくはないだろう。しかし,心ならずも戦争に駆り出されたのは日本人も

敵国人も同じであり,敵国の兵士個人を責めても仕方がないことを,彼らは心の中で理解している。

そして彼らが実際に口から搾り出す言葉とは,「戦争が憎い」「戦争は絶対にしてはいけない」--- 

これが全てだ。いわば彼らは,悲しみを乗り越えて「罪を憎んで人を憎まず」の境地に達し,敵の

兵士への恨みを戦争そのものへの怒りに昇華させているのだ。だから西本氏が書いていることは,

決して原爆被害者の心情を代弁してはいない。「原爆投下を正当化するのは間違いだ」と彼が

考えるのは,かまわない。しかし,その主張のためにティベッツ氏という,戦争の当事者であると

同時に被害者でもある一個人をスケープゴートにすることは,一種の「いじめ」である。もしも

ティベッツ氏に非があると言うのなら,戦争に参加して外地で人を殺した(日本兵を含む)すべての

兵士に対して,同じ批判を向けなければ不公平である。西本氏に問う。あなたは,ティベッツ氏に

投げかけたのと同じ論法で,今生きている元日本兵たちに対して,「あなたは中国や東南アジアで

敵の兵士や現地の人々を殺したことを謝罪すべきだ」と非難することができるのか?戦争は兵士

たちに心ならずも殺人の罪を犯させるのであって,誰しも自ら進んで人殺しをしたわけではない。

だから彼らは,一方に殺人という罪の意識を,他方には「自分の生に意味を持たせたい」という

欲求を抱え,その葛藤の中で苦しむのだ。その苦しみがわかるからこそ,人々は兵士個人を

責めることをせず,憎しみを戦争そのものに向けるのである。

繰り返し,西本氏に言う。あなたはティベッツ氏を,「私の人生は間違っていました」と言ってから

死ぬべきだった,と評している。それは,ティベッツ氏個人に対する侮辱であるだけでなく,人間が

生きるという営みそのものに対する冒涜である。ぼくにはそれが,どうしても看過できないのだ。

 

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