日記帳(08年2月4日〜17日)

 

 

今は17日(日)の昼過ぎ。今日は朝の7時から8時半まで須波で竿を出し,当たりなし。

仕事場へ戻ってから2時間ほど仕事をし,買出しに行ってスーパーで買ったお好み焼きを

食べ,お茶を飲みながらこれを書いている。午後はまた仕事。マグロは少しずつ近づいて

いるが,まだ100mくらい先を悠々と泳いでいる。今の時期は小中の仕事が片付いて,

別の大きな仕事をもう1本抱えているが,締め切りがだいぶ先なので3m級のマグロ

(コブダイで言うと1m50cmくらい?)との格闘に昼夜を問わず大半の時間を割いている。

寒いし釣れんしで釣りへ行かん分,休日には映画くらい見に行きたいが,時間が惜しい。

 

おととい娘と二人でNOVAへ行き,手続きを済ませてきた。毎月5回分の授業のチケットを

買う月謝制のコースで(未消化分は1年以内なら翌月に繰り越せる),旧NOVAの債権を

返金してもらう関係で,数ヶ月は月謝が75%オフになる。月々約3,200円の月謝で済む

ので,とりあえず割引期間中は支払いを続ける。仕事上は,これでひと安心となった。

しかしNOVA福山校の場合,授業の時間帯がだいぶ短くなった上に講師の数も足りない

ようで,当日も受付の事務員が一人しかおらず,来客や電話で大変そうだった。

 

で,話は前回の続き。

 

「なぜ日本人は劣化したか」(香山リカ・講談社現代新書)

 

香山リカは好きな評論家の一人で,書いてあることがわかりやすい。悪く言えばアクが

弱いが,良く言えば万人受けするタイプ。歌手で言えばユーミンやスピッツのような感じだ。

ついでに言うと,以前個人的に好きな評論家と嫌いな評論家のことを書いたが,嫌いな

方で大事な人物を1人忘れていた。養老猛司だ。新聞雑誌に時々載るこの人の時事評論

を読むと,一般大衆を小馬鹿にしたような物言いが多い。「頭の悪い君らには,この程度の

ことを書いておけば十分だ」的な傲慢さが感じられて仕方がないのだが。

 

それはさておき,香山リカのこの本は,社会のさまざまな局面で日本人が「劣化」している

現実が説明されている。たとえば政府は最近コンテンツ事業(ゲームソフトなど)を日本の

重要な産業にしようと目論んでいるが,現実に今の日本で人気があるのは,ポケモン

などの定番ソフトを除けば,「能トレ」「常識力」などの実用モノだけになっているという。

これらのソフト,あるいは小学生の算数や書き取りを大人がやるようなソフトや本の

流行は,一般大衆がゲームの世界でさえ複雑なプロセスを嫌い,すぐに目に見える結果が

出るようなわかりやすいモノを求める(要するに頭が単純になった)傾向の現れだと筆者は

分析している。あるいは仕事上のモラルの低下や,活字(力)の低下(最近の新聞の活字は

以前よりはるかに大きい)など,いろんな低下が同時多発的に起きていることがわかる。

 

そして筆者は,これらの現象の背景を説明するキーワードとして,「新自由主義経済」

「排除型社会」「ゼロ・トレランス」などを挙げている。かいつまんで言えば,竹中前大臣が

中心となって推進した市場経済原理主義の弊害がさまざまな社会階層や分野で起きて

いるが,被害者であるはずの人々がそれを悪いことだと思っていない(むしろ「進化」だと

思っている人もいる)点に問題がある,というのが筆者の考えである。こんなことを書いても

実際に本を読まないとわけがわからないと思うので,本書から個人的に感じたことを

述べてみたい。

 

この本に出てくる「劣化」の一側面としての「寛容の劣化」という点に,特に共感を覚える。

もともと日本人は,几帳面すぎて寛容度が低い傾向がある。電車が5分遅れたくらいで

イライラするのは,世界中探しても日本人しかいない。「ゼロ・トレランス(=寛容ゼロ)」と

いう考え方は,その延長線上にある。たとえば「服装の乱れは非行につながる」として,

(実際に「非行」に走っているわけでもないのに)学生の服装を厳しく取り締まる学校の

姿勢などは,「ゼロ・トレランス」的であると言える。同じことは,「一度罪を犯した人間は

再犯の危険があるので社会に戻すべきではない」的な思想,あるいは,「万一子供が

登下校の途中で事故や犯罪に巻き込まれてはいけないので,親が送り迎えすべきだ」

というような主張も,「ゼロ・トレランス」の裏返しである。これらの例のどこに問題がある

のかと言えば,「自分はこう思う[する]」という個人的な判断・行動基準と,「社会全体

がこうあるべきだ」という「べき論」との区別がついていないことである。たとえば,

「子供の身が心配だから,わが家では登下校の送り迎えをしている」ということと,

「学校全体として,親に『わが子の送り迎え』を義務付けるべきだ」ということとは違う。

「送り迎えができればその方がよいが,わが家では物理的に無理だ」という家庭もある。

親が当番を決めて集団登下校の引率をしている学校も多いが,その当番に参加できない

人もいる。そのへんはケースバイケースであって,一律に強制するとトラブルの元になる。

 

思えばこのホームページの日記帳や雑記帳では,「ゼロ・トレランス」的な物の考え方に

対して,一貫して疑問を投げかけてきたように思う。たとえば,あるプロ野球選手が道路

交通法違反で警察に捕まったとき,「イメージダウンが怖いから解雇する」という方針を

採らなかった球団の姿勢は立派だ,と書いたことがある。そこに「寛容」の精神を見た

からだ。あるいは,前に紹介した「ウェブ炎上」という本の中でも,インターネットを通じた

「悪者」バッシングが,裁判よりも強力な影響を持つことがあると紹介されている。

また,「何か問題が起きたとき,誰が責任を取るのか?」という責任回避的発想,

あるいは最近医者(特に産婦人科医)のなり手が少ない大きな理由は,手術がうまく

いかないとすぐ訴訟を起こされるからだという現実。挙げればきりがない。これらは全て,

ゼロ・トレランスの考え方と根っこのところでつながっている。

 

前にも書いたが,人間が社会に出て大人になるプロセスとは,つまるところ,

世の中には自分の知らなかったいろんなタイプの人間がいる」という発見の

積み重ねであると思う。そして,年を取って「物がわかるようになる」ということは,

そうした他人との接触の繰り返しを通じて,「他人に対する寛容度(共感)」を増して

いくプロセスであると思う。だからぼくは,年を取っても他人への非寛容の度合いが

強い人を,まっとうな大人とは認めない。そして,自分の狭い経験で言う限り,ある人の

社会的地位と「他人への寛容度」とは,おおむね反比例する。要するに,地位の高い

人ほど他人への共感度が低い。その論法の結論は「地位の高い人々は子供だ」

となるのだが。そのへん,どうなんでしょう?

 

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