日記帳(08年4月14日〜4月27日)

 

 

今日(27日)の日曜日は,11時まで釣りをして何も釣れず,帰ってから昼食を取り,

このHPの釣り日記などを書いて,今は午後1時半。特に見たい映画もないし,夕方まで

時間が余るので,日記帳を更新してみようかと思う。

 

まず,マグロの話。マグロは水揚げされ,引き取り手がいったん決まりかけたが,諸般の

都合でキャンセルとなり,今は別の問屋さんと交渉の最中だ。条件面(お金ではない)で

折り合わないところがあって,まだすんなりとは決まりそうにない。その関係でマグロの

化粧直しをしなければならないので,やるべき仕事はある。ただ,今日は絶好の天気

なので(実際は部屋にこもってパソコンを叩いているのだが),仕事をやる気が起きない。

 

次はカープの話。まだ「今年もダメか〜」という状態にはなっていないので,一応毎日の

スコアはチェックしている。確かにカープの総得点はリーグ最低だが,やっぱり最大の

問題点は,先発投手の力不足だと思う。今シーズン,「ここは代打で」という場面で,

ブラウン監督が代打を出さなかったケースでは,続投した先発投手が必ずその直後

(6回か7回)に失点している。リリーフ投手陣は頑張っているのだから,力が劣る先発

投手は5回で交替させてやった方が勝率が上がるのではないだろうか。ただ,来年以降を

考えると,今の先発ローテーションを大幅に組み替える必要があるだろう。現在好調の

高橋は来年メジャー挑戦を予定しているし,長谷川・宮崎は不安定すぎるし,数年先を

見越して先発投手を育てるという観点にはそぐわない。そこで,私案として,来年の先発

投手は,「@大竹,Aルイス(残留すれば,の条件付き),B篠田・大島・斎藤のうち1人,

C岸本・永川のどちらか,D他球団からトレードで獲得」の5人としてはどうだろうか。

長谷川・宮崎・青木高はリリーフに回ってもらう。コズロースキーが残れば,彼を先発に

してもいいだろう。Dの候補は,中里(中日),久保(ロッテ),近藤(オリックス),深田

(巨人)ら。カープ側のトレード要員は,嶋・東出・森笠・広瀬ら。野手は似たようなタイプの

選手がダブっているので,栗原以外は全員トレード要員にしてかまわない。

先発候補に前田健が入っていないのは,二軍のスコアを見てもまだ力不足の感じがする

からだ。「二軍では好成績を残すが,一軍では通用しない」というタイプは,過去にも大勢

いた。たとえば「津田二世」と言われた秋村や,二軍の公式戦で200本塁打という奇跡的な

記録を残した斎藤,最近で言えば即戦力投手と期待されたが2年でクビになった田中らだ。

前田健が彼らの二の舞にならない保証はない。新人の篠田は大いに期待できそうだが。

ついでに言うと,カープは来年のドラフトで岩本(広商→亜大)・上本(広陵→早大)の2人を

最優先で指名する方針らしいが,これはどうかと思う。確かに地元出身のスター候補は

必要だろうが,戦力のバランスから言えば,一番欠けているのは「若手の先発投手」だ。

岩本は今年入った松山とダブるし,上本も梵や小窪と同タイプだ。ブラウン監督は今年で

3年契約が切れるので,来年は「球場も監督も一新」という可能性が高い。新生カープが

来年好スタートを切るためには,今年中に「数年先まで見越した先発ローテーション投手」

を人選しておくことが不可欠だろう。

 

 

今年に入ってから仕事が多忙だったため,本は数冊ほどしか読んでいない。その中で

一番印象に残ったのは,「偽装国家U」(勝谷誠彦・扶桑社新書)だ。当然「T」もある

わけだが,それは買っていない。内容は筆者が最近の社会的事件に対してコメントを

加える「時事評論集」だが,さすが(「新しい歴史教科書」の)扶桑社の面目躍如と言う

べきか,相当に過激な内容である。読み物としてはなかなか刺激的で面白く,事実を

述べた部分は情報的価値も高い。ただし,事件に対する筆者の「解釈」には,あまり

賛同できない。たとえば,「『赤ちゃんポスト』は『子捨て箱』である」というタイトル中の,

次のような箇所だ。

 

私が偽装と呼ぶからには,そこに利権が必ずあります。

ここにあるのは金銭の利権ではなく,いわば「善意利権」です。

まず,病院。

はっきり言ってしまうと子捨て箱は,キリスト教徒でもある慈恵病院の幹部が,

捨てられる子供を救うという自己満足を得るためのものなんですよ。

これはカネよりたちが悪い。

この善意に寄生するのが,子供が邪魔で仕方ない親たち。

損をしているのは,長く日本に根付いてきた公序良俗です。

 

筆者は日本を「利権談合共産主義の国」と呼び,「はしがき」の中で次のように

この言葉を説明している。

 

得する側対損する側が二対一となる,三方一両損ならぬ「二方得一方損」の法則,

利権トライアングルの存在は,偽装の必要条件です。

 

これは,それなりに面白い分析と言える。しかし筆者は,この「法則」をあらゆる事件に

適用しようとするあまり,無理な「こじつけ」を行っているケースが多い。上の「赤ちゃん

ポスト」の解釈はその一例である。

 

上記(紫文字)の筆者の説明の,どこに問題があるのか?

それは,「利権」という言葉の定義を,無制限に拡張していることである。

ふつう「利権」とは,文字通り「(金銭的)利益を得る権利」を意味する。しかし筆者は,

人間の心まで「利権」の一種だと呼んでいる。こういうふうに言葉の意味を拡張して

しまうと,何でも言えてしまう。たとえば,原発建設に賛成する人は,それによって

(地域振興という)「利権」を得るだろう。一方,原発の建設に反対する人は,それに

よって何かの(普通の意味での)「利権」を得るとは思えない。しかし筆者の論調を

使えば,「原発反対派は,自分が自然保護に貢献しているという自己満足を得る。

それがその人にとっての『利権』だ」ということになってしまう。この種のロジックは,

「理屈と膏薬はどこにでもつく」という揶揄が意味する事実の悪しき典型である。

 

 

話がこういう方向に行ったので,昨日雑記帳にアップした「光市母子殺害事件」の

件もここでフォローしておきたい。この問題には関心を持つ人も多かったようで,

さっそく数件の感想のメールをいただいた。全員に共通していたのは,皆さん

「死刑を容認する(あるいは積極的に賛成する)」立場を取っておられたことだ。

世論調査を見ても,日本では死刑容認派が3分の2かそれ以上を占めている。

人によって理由は違うだろうが,「どんな凶悪犯でも死刑にはすべきでない」という

意見に抵抗を感じる人は多いだろう。ぼくもその一人だが,ぼくがその意見に抵抗

を感じる最大の理由は,犯罪(者)の凶悪性にあるのではなく,死刑制度全廃派の

人々の教条主義的な(あるいは硬直した,あるいは頭でっかちな,あるいは思考を

停止した)物の考え方が好きではないからだ。

 

昨日書き忘れたことを,ここに追加しておこう。「終身刑」に関する考え方についてだ。

これを読んでいる皆さんに,一つ質問しよう。あなたは,

 

(A)終身刑と死刑との間の落差

(B)無期懲役と終身刑との間の落差

 

この2つの「落差」のうち,どちらの方がより大きいと思うだろうか?

もしかしたら,多くの人が「Aだ」と答えるかもしれない。しかしぼくは,Bの落差の

方が大きいと思う。文学部の出なので法律論には素人だが,素人なりにそう思う。

それは,「人間に対する見方」という点において,死刑と終身刑とは同じ地平にあり,

無期懲役という発想はそれらと対立しているからだ。ここで問題となるのは,

「犯罪者の人格を矯正することは可能か?」という問いかけである。

 

死刑と終身刑は,この問いかけに対して「ノー」と答えている。つまり,「凶悪な

犯罪者の人格は,矯正不可能である。よって彼らは,永遠に社会から隔絶

せねばならない」という思想が,死刑および終身刑の背景に存在する。一方,

無期懲役とは「期限を定めず,社会復帰できると認められる時期が来れば,

刑務所から出してあげますよ」という性格の制度である。そこには「刑務所の

中で自ら反省すれば(または人格矯正の指導を受ければ),犯罪者の反社会

的人格は矯正可能だ」という思想がある。すなわち,死刑・終身刑はともに

「性悪説」の立場に立っており,無期懲役は「性善説」の立場に立っている。

 

そもそも懲役刑には,さまざまな目的がある。「ペナルティを与える」あるいは

「犯罪者を一定期間社会から隔離する」などのほかに,「反省の時間や機会を

与える」ことも,その目的に含まれる。つまり,「犯罪者が社会復帰するための

準備を行わせる」ということだ。しかし終身刑という制度の場合,本人には

社会復帰の道が閉ざされているのだから,刑務所の中で本人が反省しようが

すまいが,そんなことは(社会にとって)どうでもよい。要するに終身刑も死刑も,

「犯罪者を切り捨てる」という意味では同じなのである。そう考えると,「死刑は

許されないが終身刑なら許される」という発想は一種の「自己満足」であり,

「自分の目の前からゴミがなくなってしまえば,海へ捨ててもかまわない」と

いう発想と同根なのではないだろうか。

 

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