日記帳(09年9月22日〜9月26日)

 

 

今週は水曜日までシルバーウィークで暦の上では休日だったが,火曜日以降はふだん通りに仕事をした。

水曜日の夕方,家族4人で福山市内の「コロナワールド」へ行き,ボウリングをやった。

ふだんからマウスと包丁と釣り竿より重いものを持ったことがないので,1ゲームが限界。

スコアは102だった。かぐや姫の「好きだった人」を思い出した。

そのあと同じ建物にあるカラオケで2時間ほど歌い,駅前のチェーン居酒屋へ行った。

初めての店で,入店したのが9時過ぎだった。入り口で「未成年の方にはお酒は出せません」と

言われたが,それは当然なので入店して席に着いた。すると注文を取りに来たお姉さんが,

「18歳未満の方はおられますか?」と聞いてきた。下の娘はまだ17歳なので「います」と答えたら,

「18歳未満の客がこの店で食事できるのは夜の10時まで」という内規があるのだという。

「保護者同伴でもだめですか?」と聞くと,「一応そういう決まりですので・・・」と言われた。

もめるつもりもなかったので「わかりました」と答えて結局10時を越えても居座ったが,

こういう愚かな決まりを作る,あるいは守らせようとする人の気がしれない。

そういう決まりがあるなら店の入り口にでも明記しておくべきだが,そんなことをしたら売り上げが

減るのは目に見えている(その店はビルの地下にあり,隣に同じようなチェーン居酒屋が2軒

並んでいる)。しかし店の決まりがある以上は客に伝えなければ処罰されかねないので,

仕方なく「客を席に着かせてから制限時間の話を切り出す」方針を取っているのだろう。

律儀な客はそれを聞いて店を出るかもしれない。そのリスクを冒してまで「たとえ親子連れで

あっても,18歳未満の子は夜10時まで」という決まりを店が作っている理由は何だろうか?

しいて憶測するなら,次のような理由が考えられる。

・経営者が「子どもが夜遅くに出歩くのはよくない」という倫理観を持っている。

・そういう方針を打ち出すことで,「健全な店」というイメージアップを狙っている。

・他店は守っていないが,実際にはそういう法律がある(?)。

しかし,ここで問題にしたいのは,「そんな決まりを作っても現場の人間が守るわけがない」

という現実に対する,上層部の鈍感さだ。現場は1円でも多くの売り上げを確保したいに

決まっているわけで,われわれの席に来た係のお姉さんも「決まりだから一応伝えておきます」

という感じだった。そういう「儀式」を客に強要する無神経さには,はなはだ不快感を覚える。


 

 

今は26日(土)の昼前。きのうの金曜日は夕方から広島へ行き,昔の仕事仲間と酒を飲んだ。

そのあとカラオケへ行って1時過ぎまで歌っていたので,今日は二日酔いで仕事はパス。

だらだらこの日記を書いている。ちなみに昔の仲間と行ったカラオケでみんなが歌った曲は

ほとんど拓郎・揚水・かぐや姫・ハマショー・オフコース・GSのような路線で,毎回同じような

曲ばかり歌っている。家族で行くときは全然違っていて,ハイロウズとかコブラツイスターズとか

フラワーカンパニーズとかガガガSPとか,アコースティックなロック調の新しめの曲を歌う。

 

きのう会った昔の仲間の中に弁護士をしている友人がいたので,ちょうどいい機会だと思って

裁判員制度についてどう思うか?」と尋ねてみた。彼は基本的には賛成の立場で,理由は

まあ世間で言われているようなことを言った。この制度は小渕政権の時代に京都大学の

1人の法学者がリーダーシップを採ってプランを作ったのだそうだ。要するにその1人の

センセイの意向が強く働いているのだという。「裁判官はこの制度をどう思っているのか?」

とも聞いてみた。さぞかし「プライドを傷つけられた」と反感を持っているのだろうと思ったが,

実際はそうではないらしい。弁護士の彼の話によれば,裁判官はエリートではあるものの,

自分たちが「世間知らず」であることを自覚しており,1人で判決を下すことに不安を感じる

傾向があるという。特に死刑判決がそうだ。下級審で死刑判決を出した裁判官は,内心では

「上級審で死刑が取り消しになってほしい」と思っているのだという。それくらい,人を裁くと

いうのは責任の重い仕事なわけだ。だから裁判官は,意地悪な言い方をすれば,裁判員が

混じるおかげで「責任逃れ」ができる,という安心感を持っているかもしれない。

 

そして彼は,「裁判員が課す量刑の重さは,自分の予想とは全然違っていた」と言った。

彼は裁判員制度が始まる前に,「おそらく判事よりも裁判員の方が甘い(寛大な)量刑を課す

だろう」と予想していた。目の前にいる被告に対して同情心が沸いたり,人を裁くことへの

責任の重さから量刑を自主規制するのではないか,と予想したわけだ。しかし現実には,

裁判員の判断はプロの判事の判断よりずっと厳しかった。

 

たとえば,竹原市で教え子の多数の少女にわいせつ行為を繰り返した40代の小学校教師

に対して,裁判員を交えた裁判で「懲役30年」という判決が最近出た。ぼくなんかは妥当な

線だろうと思ったが,弁護士の彼は「プロの裁判官だけなら,従来の判例とのバランスから

考えて,たぶん懲役10〜15年程度だっただろう」と言った。

 

この話がもし本当だとしたら,そこには次の2つの見方ができる。

 

@ 素人の裁判官を入れたおかげで,より市民感情に近い判決を出すことができた。

A 素人の裁判官を入れたせいで,不当に(?)重い判決を出すはめになった。

 

@は裁判員制度に対する肯定的評価であり,Aは否定的評価だ。個人的には今回の事件に

対する「懲役30年」という判決は妥当だと思うが,たとえそうであってもAの観点は無視できない。

理由は,この例からわかるとおり,「たまたまその場に居合わせた裁判員のパーソナリティに

よって量刑が左右されるおそれが大きい」という点にある。

 

ただし裁判員が入るのは一審のみであり,被告が控訴・上告すれば(プロだけで判決を出す)

上級審で量刑が軽減される可能性もある。もしそうだとしたら,裁判員制度には実質的な

意味がなくなってしまう。この点を彼に問うと,「いや,裁判員の判断は上級審に大きく影響する

だろう」と言った。まあ,それはそうだ。上級審で裁判員の判断とは全然違う判決が出たのでは,

世間が「裁判員制度を導入した意味がないじゃないか」と批判するのは目に見えている。しかし,

もしそうであるなら,「誰でも最低3回は裁判を受ける権利を持つ」という司法制度の根本が

機能不全に陥ることを意味することになり,それはそれで大問題だ。

 

少なくとも言えることは,もしも自分が被告人であったなら,裁判員が混じる裁判は受けたくない。

彼らは相対的にプロの裁判官よりも厳しい判決を出す傾向がある,ということが,最近の一連の

裁判員裁判を通じて明らかになりつつあるからだ。その意識がもっと広く浸透して犯罪抑止効果に

つながれば,それはそれでいいのかもしれないが。・・・いや,やっぱりよくない。


 

 

ついでに,どシロウトの経済論議を1つ。

 

自民党の中川さんを中心とするいわゆる「上げ潮」派の理屈は,間違っていると思う。

彼らのロジックをかいつまんで言えば,こんな感じになるだろう。

 

@ 企業がもうかる。

 → A 雇用が増え,賃金が上がる。

 → B 市民の購買力(=内需)が拡大する。

 → C さらに企業がもうかる。

 

確かに,かつての日本にはこうした経済成長のサイクルがあった。

しかし今日では,@→Aの流れが寸断されている。だからこのサイクルは成り立たない。

端的に言えば,「企業はもうかっても,社員の給料は上がらない」ということだ。

その理由は,企業が利益を人件費に還元せず,内部留保など企業体力をつける方に

ばかり金をかけるからだ。ではなぜ企業がそうするのかと言えば,それは国際競争の

中で生き残るためだろう。現実に経済がグローバル化している今日,そうした企業の

戦略を責めることはできない。

 

では,国民が全体として「貧しく」なっている現実にどう対処すればいいのか?

 

ぼくは基本的には,民主党の「ばらまき」に賛成だ。子ども手当については不公平感が

あるかもしれないので,いっそ「大人手当」にすればいい。基準は,おおざっぱに言えば,

前年度の申告所得が一定水準(具体的には生活保護の水準が目安になる)に満たない

成人に対して,一定額あるいは所得に応じた額の「生活手当」のようなものを支給する。

要するに,共産主義的な政策を取るわけだ。

 

では,その財源はどこから持ってくるのか?

答えは「法人税のアップ」である。諸外国との比較なんか関係ない。各企業の売上高に

応じて強制的に税を徴収して(ただし人件費の割合が一定の比率を超えている企業は

課税を免除する。これにより多くの中小企業が救済される),集めた金を国民に直接

支給する。かいつまんで言うなら,「人件費を出し渋る企業から強制的に税を集め,

国が市民に給料を支払う」というイメージだ。

 

先に言ったとおり,企業はいくら儲けても社員の給料を上げないのだから,企業自体を

儲けさせる政策を取っても内需は拡大しない。国民の生活水準を全体として上げようと

思えば,「国がダイレクトに国民に金を支給する」というシステムが一番有効だと思う。

(その金が内需の拡大につながるかどうかはわからないが,少なくとも貧困の問題は

ある程度解決する)

 

当然企業は反発するだろうし,高い税金を逃れるために海外に拠点を移す企業も

続出するかもしれない。しかし,トヨタやパナソニックの本社が中国に移転するような

事態は,たぶん起こらない(もし起こったとしたら,そうした企業は自らの社会的責任を

放棄してただ利潤追求だけに走る悪者のレッテルを貼られるだけだ)。

 

日本人は勤勉な国民として知られており,高度成長期にはその国民性によって日本を

経済大国に引き上げた。その基本的なメンタリティーは,今も変わっていないと思う。

そして,大きな会社の,地位が高い人ほど,「勤勉さ」の度合いは強いはずだ。

彼らは勤勉であり,野心もある。逆境に陥ってもそれをはね返すバイタリティーを

持っているだろう。そういう企業だけが社会の中で生き残っていくのだから。

したがって,仮に「法人税率のアップ」という大波が襲ってきても,彼らはあらゆる

手段を講じてその波を乗り越えようとするだろう。その努力は,従来なら「人件費の

削減」に向けられてきた。しかし,上で述べた「国が金をばらまく」方式を取れば,

企業がどれだけ人件費を抑制してもかまわない。極端に言えば,1,000人の社員の

うち正社員は10人で,残る990人はパートになったっていい。その990人が会社から

受け取る給料は今までより減るが,その減った分は(企業から強制徴収した財源で)

国が補填してくれるからだ。この方式で「損」をするのは,正社員の10人だけである

(彼らは高額所得者だから,国からの手当支給の対象からは外す)。しかし彼らは,

それを「損」だとは感じないだろう。なぜなら彼らはエリートだからだ。エリートは体を

壊すくらいバリバリ働けばよい。彼ら自身もそれを望むだろう(エリートとはそういうものだ)。

彼らがかせいだ金は,国を通じて「普通に働いて普通に暮らしたい」と思っている

一般市民にばらまかれるのだ。

 

言うまでもないがこれは一種の寓話であって,そのまま実行できるわけではない。

ただ,われわれの社会が今後向かうべき方向性として,基本的に「会社と社員は

かつては運命共同体だったが,今は敵味方の関係になりつつある」ということを

前提に物を考える必要があると思う。じゃあ政府は国民の味方として信用できるのか?

と問われると答えに困るが,少なくとも民主党の方が自民党よりは「貧富の差」の

拡大にブレーキをかける政策を取る可能性が高いとは思う。問題は財源だけだ。

大企業に高い税金を課しても,そう簡単に潰れはしないだろう。そうした企業の

経営陣には,その時こそ「大和魂」を発揮して,全国民のために死ぬ気で金を儲けて

もらいたい。それによって彼らのレゾンデートルも満たされるだろう。

 

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