日記帳(10年1月25日〜1月30日)

 

 

本当なら今ごろ,しまなみ海道のどこかの島で竿を振っていたのだが・・・

 

今週は,水曜日から木曜日にかけて,仕事の打ち合わせで東京へ出張した。

水曜日は,午後3時に神保町のI社へ。持ち込んだ企画とは別の形になったが,ほぼ出版の方向で

話がまとまったのでひと安心した。初対面の担当者は老舗出版社にしては非常にフランクな感じの

ベテランの方で,今後も継続してお付き合いできると嬉しい。編集者にもいろんなタイプの人がいるが,

こちらの都合から言えば,性格の問題よりも,本の内容に関して話が通じにくいのは困る。つまり,

編集者に英語の知識があまりないようなケースだ。I社の担当者は,修正したサンプルを見せたら

一目で「これは面白いですね」と言ってくれたのでありがたかった。

このあと神田のビジネスホテルにチェックインしてから,新宿経由で高円寺のJ社へ。ここへ行くのも

初めてのことで,社内にひととおり紹介してもらった。用件は雑誌のゲラの受け渡しで,30分ほどで

話は終了。新宿まで戻って本屋に立ち寄った後,神楽坂のB社へ。まもなく出版されるTOEIC関係の

本の共著者2人と編集のKさんを交えて最後の打ち合わせ。8時半ごろ終了。タクシーで東京駅近くの

丸ビルへ行き,おでん屋で二人の共著者と酒を飲んでホテルに戻る。携帯についている万歩計の

カウンターは,15,000を越えていた。歩いて汗をかいている上に,暖房の効いた部屋と冷たい外気に

交互に体をさらして,昼間から寒気を感じていたが,翌朝の木曜日に目覚めるとノドが痛い。鼻水も

やたら出る。春になると時々花粉症の症状が出るので,今年もかかったか?とこの時は思った。

しかしこの日ももう1軒打ち合わせがある。10時半にホテルから歩いて行ける距離にあるM社へ。

ここも初めて行くが,社長のHさんとは面識がある。この出版社は別の会社の編集者だったHさんが

独立して去年立ち上げたばかりの会社で,まだ出版点数は10冊くらいしかない。去年企画書を

まとめて送っておいたら返事が来て,具体的な話をしに行った。収穫はあり,とりあえず1冊作る

方向で話がまとまった。今後も継続して何冊か出せそうな感触もある。今回の出張では,I社とM社に

持ち込んだ企画がそれぞれ通り,釣りで言えば45cm級のチヌと70cm級のコブダイを釣り上げた

くらいの成果があった。しかも交通費と宿泊代をB社が持ってくれたので,損得勘定の面では大きな

プラスだ。少なくとも4月末ごろまでは予定が(きついくらい)詰まったので,その間は何も考えずに

原稿を書いていればいい。これが一番楽だ。仕事の見通しが立っていると,落ち着いて休める。

当面急ぎの仕事がないときは,休もうと思えば休めるが,どうしても不安が先に立ってあれこれと

企画を考えたりするので,精神衛生上よろしくない。

で,木曜日はM社を出て東京駅へ行き,自由席の車両の前に20分ほど並んで12時半の新幹線で

帰った。車内で弁当を食べたあたりから体の具合が本格的に悪くなり,夕方の5時ごろ仕事場に

戻って熱を測ると,37.5度あった。ここでようやく,花粉症ではなくただの風邪と判明。家へ帰り,

受験を控えた娘にうつすと大変なので居間にいるのは避け,別室にフトンを敷いてそのまま寝る。

途中で軽く夕食をとって風邪薬を飲み,7時ごろから翌朝までずっとフトンで寝ていたら,今度は

腰が痛くなった。朝,熱を測ると37度まで下がっていたが,まだ調子が悪い。しかし月末の金曜日

なので,仕事にひと区切りつけておきたいので,9時ごろ仕事場へ。M社に出す企画書を修正して

メールで送り,J社でもらった新しいゲラに目を通し,I社の原稿サンプルを作り直し,T社とL社から

届いていたメールに返事を出し,R社に出す資料を宅配便へ持って行き・・・で,気がつけば夕方。

仕事に出ると体調が悪いのどうのと言ってはおられず,仕事をしているうちに風邪も治まったらしい。

しかしまだ食欲はなく,昼食はコンビニのうどん,夕食は出来合いの惣菜で軽く済ませ,この日も

早めに寝た。翌日(きょうの土曜日)には熱は引いたが,まだ釣りができるような体調ではないので,

この週末は釣りはパス。しかし,そういう日に限って天気が最高にいいのが悔しい。



釣りにも行けず,仕事の方は月曜日から本格的に再開することにしているので,とりあえず時間は

ある。で,最近のニュースから話題をいくつか拾ってみた。

 

まず,もう「最近」とは言えないが,足利事件について。新しいDNA鑑定で無実が立証された

菅家さんが,92年に取り調べを受けた当時の検事に対して謝罪を求めたが,検事は謝罪せず

「厳粛に深刻に受け止めています」としか答えなかった,という。

 

http://mainichi.jp/select/today/news/20100123k0000m040124000c.html?link_id=RTD05

 

これに対する菅家さんの「永久に許せない」というリアクションには誰でも全面的に共感できるし,

それ以上特に言うことはない。一方,この謝らなかった検事の心情については,単なる否定感情

以外の気持ちも湧くのだが,これを読んでいる皆さんはどうだろうか?

 

ちなみに,菅家さんの取り調べテープの書き起こしを読むと,ドラマでよくあるような脅迫的な

取り調べが行われたわけではなさそうなことは理解できる。

 

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100122k0000m040128000c.html?inb=yt

 

ただ,だからといって検事や検察の判断が正しかったとは言えない。現に裁判で無罪が確定した

からという理由だけではなく,検事本人が語っているように,「ちょっと強く言われると反論できない」

ようなタイプの人間は,世の中にはゴロゴロいる。それを見抜くのも,犯罪捜査官の仕事だろう。

取り調べの調書を読めば読むほど,「頭の切れる検事」と「気弱な一市民」との間の,埋めがたい

ディスコミュニケーションが浮き出ているように感じる。端的に言えば,検事は菅家さんが発した

言葉の文字どおりの解釈を誤ったわけではない。しかし,菅家さんのハートを理解することは

できなかった,と言える。そしてコミュニケーションの目的とは,必ずしも言葉の字面の意味を

伝えることにあるのではない。そういう意味で,今回のこの検事の失敗は,野球の審判の誤審の

ようなものとは性格が違う。むしろ,男女の間のケンカのようなものに近い。

 

そういった解釈をふまえて,謝罪を拒んだ検事の胸に去来した心情を推測するなら,おそらく

一つには「ここで自分が謝罪すれば,検察全体に迷惑がかかる」という,組織の理論を優先

する姿勢があっただろう。本人の気持ちというより,上から「謝罪するな」という指示があったかも

しれない。そしてもう一つ考えられるのは,この日記では時々言っていることだが,「ここで謝る

ことは,自分の人生を否定することと同じだ」という気持ちだ。「当時の自分の判断は間違って

いなかった」「あの判断が間違っていたとしたら,これまで自分がやってきたことは全部間違い

だったことになる」というような。このような気持ちも,漠然とは理解できる。厳しい言い方を

するなら,「謝罪をすることによって(いくらか)償われる,失われた菅家さんの17年」と「謝罪を

することによって失われる,自分の全人生」とを天秤にかけたとき,後者の方が重たい,という

判断が心の中で働いた結果が,「厳粛に深刻に受け止めています」という,一般人から見れば

ふざけた答えだったのかもしれない。もちろんこの検事には菅家さんに対する大きな責任が

あるし,謝って済むような問題でもない。あるいは「反省すべきは検事としての技術不足であり,

それは腕の悪い医者が誤診で患者を死亡させてしまうのと同じだ」というような言い方もできる

だろう。それでもなお,この検事の方にもいくらかの感情移入をしてしまうのだな,自分は。


 

 

鳩山,小沢と続く「政治とカネ」の問題と,世論調査の動きを見ていると,いささかうんざりする。

鳩山さんや小沢さんに対しては,それほど大きな罪を犯したとは思わない。特に鳩山さんの

場合は立証されたとしてもせいぜい脱税のレベルであり,脱税など世間にはゴロゴロ転がって

いる。小沢さんの場合はワイロ性があるかもしれないが,そもそも企業献金というのは多かれ

少なかれワイロ性を帯びている(よく言われているように,そうでなければ会社に対する背任に

なる)。一番うんざりするのは,そういう事件の後にマスコミが世論調査を行い,それに対して

世論が敏感に反応して民主党の支持率が下がる,という負のスパイラルだ。ただしそれは,

マスコミが悪いとか有権者が悪いとかいうことではない。マスコミは世論調査をするのが自分

たちの義務だと考えているだろうし(そしてそれは間違いとは言えない),有権者はそんな

スキャンダルの後に「民主党をどう思うか?」と問われれば「よくない」と答えるのが当たり前

だからだ。だから,誰かに責任がある,と言うつもりはない。うんざりする理由は,これも前に

書いたことがあるが,そのようなサイクルを通じて発生する「ネガティブな感情の広がり」だ。

政権交代後の民主党を正当に評価する基準は,「自民党政権が仮に続いていた場合と,

現在の民主党政権とを比べた場合,どちらがいいと思うか?」という問いであるべきだろう。

党首や幹部の個人的スキャンダルがその問いよりも重視されるとしたら,それは優先順位の

つけ方が間違っている。子育てや教育に関してよく言われることだが,「100の欠点を責める

よりも,1つの長所をほめる方が子どもは伸びる」のだ。そういう警句が存在すること自体,

(とりわけ日本の)親や教師,つまり大人は,長所を評価するよりも欠点を指摘することの

方が好きだという事実を示している。もっと一般化して言うなら,「社会全体に寛容度が

足りない」ということだ。「激しい暴力や性描写を含むアニメやゲームは,青少年の心に

悪影響を与えるので禁止すべきだ」という意見があるが,もしそれが真実であるのなら,

真っ先に禁止すべきは「渡る世間は鬼ばかり」や「おしん」のようなテレビドラマだろう。

なぜならそれらは,「人の不幸を見るのが楽しい」という邪悪な感情を,人々の心に植え

つけるからだ。--- もちろんこれは冗談で,そうしたドラマが人気を博するのは,たぶん

人間のDNAの中に「人の不幸を見るのが楽しい」という遺伝子が組み込まれているから

だろう。ドラマをなくせば問題が解決するわけではない(似た問題はどこの国にもある)。

しかしそういう現実を考慮してもなお,「誰にでも一度や二度の失敗はあるだろう」「周りの

みんなと同じことをやったのに,本人だけを責めるのは酷だろう」という気分はある。

 

ついでに言うと,朝青龍の場合は,「横綱としての品格」を求めること自体が間違い

だと思う。相撲は日本の伝統的な競技だということを強調したいなら,外国人力士を

むやみに入れるべきではないだろう。現状から考えて,遠からず幕内上位はすべて

外国人で占められる時代が来るだろうが,彼らに「日本古来の醇風美俗」を守れと

言ったって,できるわけがない。要するに今の大相撲は,一種のプロレスにすぎない。

今後の方向性は,「格闘技のしての魅力づけを追求する」か,「外国人を排除して

伝統芸能の道を歩む」かの二者択一だ。プロレスラーに品格を求める人はいないのだ。

 

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