日記帳(10年5月17〜30日)

 

 

●今は30日(日曜日)の夕方4時半。先週は雨で釣りは行けず,今日は法事で広島へ往復

して,さっき帰って来た。きのうの土曜日は,法事のために大阪から帰省した下の娘も連れて,

家族4人で倉敷の美観地区へ観光に行った。10年ぶりくらいに行ったが相変わらず

観光客が多かった。いがらしゆみこ美術館(キャンディ・キャンディの作者)というのが

できていたので入ったが,「キャンディ」自体は作画担当のいがらしゆみこと原作者・

水木杏子との著作権争いがもとで,グッズの販売もできないそうだ。

この争いのことは知っていたが,今回改めてウィキペディアで経緯を読むと,裁判自体は

原作者が勝訴したことになっている。漫画家が原作者に対して「あなたには著作権は

ない」と主張したのだから,それは漫画家の方が一方的すぎるだろう。テレビアニメの

再放送やグッズ販売に対しては,ロイヤリティーを折半すれば問題ないはずで,その方が

双方にとってもメリットがあるはずなのに,もったいない話だと思う。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3#.E3.82.AD.E3.83.A3.E3.83.B3.E3.83.87.E3.82.A3.E3.83.BB.E3.82.AD.E3.83.A3.E3.83.B3.E3.83.87.E3.82.A3.E8.91.97.E4.BD.9C.E6.A8.A9.E8.A3.81.E5.88.A4

 

●このところ時間が経つのが早く,1週間はあっという間に過ぎる。しかし締め切りを1か月

延ばしてもらった原稿は,今月末になってもまだアップしそうにない。理由の一つは体調の

問題で,最近背中が痛くて夜中に目が覚める。実家の近くに新しくできた「アーバン整体」

で診てもらうと軽度の神経痛だそうで,マッサージしてもらうと数日は調子がよくなるが,

しばらくするとまた元に戻る。「ぎっくり腰になりやすい骨の形なので気をつけるように」と,

どこへ行っても言われることをまた言われた。しかし6月は町内会のドブ掃除もあるし・・・

整体では指圧で神経を刺激するのでものすごく痛い。痛くないと効かないそうだ。

ものすごい力でグイグイ押されているように感じるが,実際は軽く触っている程度だとか。

本物の神経痛になったらこんな痛さじゃないですよ,と脅された。おー恐い。

 

●先週の雨の日曜日,映画を見に行った。「書道ガールズ」だ。タイトルからして,

「とめはね」と「スウィングガールズ」を合体させたような映画だろうとは思っていた。

その予想はだいたい当たっていたが,しかし面白かった。今年見た映画の中では一番だ。

たぶん今年の邦画の人気投票のベスト10にランクインすると思う。まだ公開されているので,

興味のある人にはお勧めしたい。基本的には青春映画だが,世相を反映したシナリオが

秀逸で,ストーリーの完成度が高いと思う。

 

●新聞記事などを読んでの感想もあれこれあるが,どんどん忘れて行くので,記憶に残って

いるのを1つ。昨年5月にスタートした裁判員制度の評価に関して新聞各紙が特集記事を

掲載している。新聞社が右寄りか左寄りかによる論調の差はあまりなく,おおむね各社が

次のことを指摘している。

 

昨年末までの裁判員裁判計138件で裁判員を務めた人を対象にしたアンケートでも、

参加した感想について96・7%が「よい経験と感じた」と回答している。選ばれる前に

「やってみたい」と思っていた人は全体の30・1%にすぎなかったことを考えると、実際に

参加することで意識が変わった人が相当数にのぼることを示している。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100518/trl1005181735006-n1.htm

 

しかし,「ちょっと待てよ」と言いたい。裁判員のほとんどが「よい経験だと感じた」という

事実は,裁判員制度というものを評価する上で何か意味があるのだろうか?

裁判における裁判官の位置付けは,本質的には野球やサッカーの審判と同じだ。

つまり上記のアンケートは,スポーツの審判に対して「あなたは審判をやったことが

自分にとってよい経験になったと思いますか?」と尋ねているのと変わらない。

 

およそ裁判には少なくとも,原告(A)・被告(B)・裁判官(C)という3人の人間が関わる。

そして,言うまでもないことだが,「裁判は誰のために行うのか?」言い換えれば「裁判に

よって利益を得るのは誰か」という問いに対する答えは,「AとB」である。C(裁判官)は

裁判制度によって利益(金銭的報酬という意味ではない)を得る人間には当たらないし,

そもそも利益を得てはならないと思う。上記の調査に即して言うなら,「裁判員の経験は

自分にとってプラスになった」という意見を肯定的に評価するなら,「裁判官の経験が

自分にとってプラスになるなら自分は裁判員をやりたい(そうでなければやりたくない)」

という動機を認めることになる。それは,公平無私であるべきアンパイアが,判定作業に

自分の都合や利益を持ち込むことを意味する。また,そのことは(国民全体に裁判員に

なることを義務付けている)制度との不整合という問題もあり,それ以上に由々しいのは

裁判制度とは一体誰のためにあるのか?」という本質的な問題を,国民の目から

遠ざけるてしまう危険性をもはらんでいる。

 

裁判員制度に関してアンケートを実施するなら,裁判員や弁護士を対象にするのでは

なく,この制度によって直接の利益を受けるべき「原告」「被告」に評価させるべきでは

ないだろうか。質問の内容は,「あなたの裁判に裁判員が加わったことは,原告

(または被告)としてのあなたにとって,よかったと思いますか?」ということだ。

しかし,この質問自体,ある意味で矛盾をはらんでいる。たとえばある原告が,「私の

裁判に裁判員が加わってくれたおかげで,より市民感覚に近い(私にとって有利な)

判決を出してもらえました」と答えたとしたら,その意見はどう考えるべきだろうか?

あるいはある被告が,「自分の裁判は,素人の裁判員を排除し,プロの裁判官だけに

やってもらいたかった」と答えたとしたら?--- 直感的にわかることかとは思うが,

これらの意見を裁判員制度というものの評価と関連付けることは間違っている。

なぜなら,「裁判員が入ることによって,自分の裁判への有利・不利が左右される」

なんてことは,(理論上)あってはならないからだ。それはあたかも,スポーツにおいて

暗黙裡に存在するいわゆるホームタウン・デシジョンを,公式に認めるに等しい。

 

結論をまとめると,次のようになる。

 

@裁判の一義的な目的は,「公平な判決」を出すことである。

A裁判によって利益を得るのは,原告と被告である。

Bしたがって裁判官(裁判員)は,原告・被告の双方が「この人なら公平な判定を

  してくれるだろう」と期待できるような人物でなければならない。

 

裁判員は,Bの条件を満たしていない(と思う)。ほかにどんなもっともらしい理由を

つけ加えようが,当事者である原告・被告が認めなければ,裁判員制度を肯定的に

評価することはできないはずだ。「裁判員をやってよかった」などというアンケート結果を

あたかも裁判員制度のメリットであるかのようにアピールするのは,マスコミがこの

制度の旗振り役たちに踊らされた(あるいは談合の?)結果のように映るのだが。

 

●ついでに,社会問題についてのコメントをもう1つ。「非実在青少年」という言葉が

有名になった,東京都の「青少年健全育成条例」の改正案について。

 

(A)http://mitb.bufsiz.jp/

(B)http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2010/03/20k3i601.htm

 

(A)は反対意見をまとめたサイト,(B)は東京都の公式見解だ。ちょっと前にはPDFで

東京都が公表した想定問答集(しんちゃんのお尻やしずかちゃんの入浴シーンはOK,

などと書いてありマスコミで揶揄されたもの)がネット上にあったのだが,今はどこに

行ったのか見当たらなくなってしまった。

 

ここでは,(B)から3つの見解を抜粋してみよう。

 

<反対意見1>

「みだりに」「性的対象として」「肯定的に」との規定が曖昧であり、青少年の性行動を

肯定的に表現した漫画は全て規制され得る。

 

<上記に対する東京都の見解>

「みだりに」とは、正当な理由なくということであり、学術的見地、犯罪捜査等の目的で描く

ものを除外する趣旨である。「性的対象として」とは、読者の性的好奇心を満足させるための

描写としてという意味である。「肯定的に」とは、不当に賛美し、又は誇張して、という意味である。

したがって、全体として、みだりに性的対象として肯定的に描写したものとは、未成年者の性交・

性交類似行為を直接明確に描いたもののうち、読者の性的好奇心を満足させるための描写と

して、殊更にその行為を賛美し、あるいは殊更にその行為を誇張して描いたもののことをいう。
したがって、単なるベッドシーンや、主人公が性的虐待を受けた体験の描写がストーリー上

含まれるだけで規制されることはない。 

 

<反対意見2>
「18歳未満のキャラクターによる肯定的な性描写」を規制することは、青少年の知る権利を奪い、

性を自分の問題として考えるための道を閉ざすもの。 

 

<上記に対する東京都の見解>

上記の通り、単なる「18歳未満のキャラクターによる肯定的な性描写」を規制するものでは全くない。
今回、新たに指定基準に追加することにより青少年の閲覧を規制しようとするのは、漫画等の

設定において明らかに18歳未満の青少年の性交又は性交類似行為を描いたもので、みだりに

性的対象として肯定的に描写したもののうち、強姦等著しく悪質なものであるが、これは、

青少年がこうした性暴力の対象となることや、近親相姦等の対象となることについて「社会が是と

している」というメッセージを、閲覧する青少年に与えることは、青少年の健全な性に関する

判断能力の形成を阻害するおそれがあるからである。 

 

<反対意見3>
現行第8条第1項の「著しく性的感情を刺激する」で規制可能。新たにこのような規定を立てる

のは、取り締まりの範囲を限定しているように見せるための目くらまし。

<上記に対する東京都の見解>

 「著しく性的感情を刺激」しない程度の表現に止まるものであっても、青少年に対する性暴力や

近親相姦等を是とする漫画等を、青少年に閲覧させることは、その健全な性に関する判断能力の

形成が阻害される面で適当でない。一方、これを閲覧規制の対象とするため、「著しく性的感情を

刺激し」という現行条文の解釈を、立法によらず、行政が勝手に拡大・変更することは、まさに

行政の恣意的な運用による表現の自由の過度な規制であるとのそしりを免れないもの。 

 

 

「問題」という日本語を英訳する場合,problemとmatterの2つが考えられる。

problemにはsolution(解決)がつきものであり,problemとは「解決すべき問題」ということだ。

一方matterは,It's not a laughing matter.(笑い事じゃないよ)などの表現からもわかるとおり,

「ことがら,関心事」という意味での「問題」を意味する。たとえば普天間の問題を,Futenma

problem ととらえるか Futenma matter ととらえるかで,その人の言うことは全然違ってくる。

沖縄県の人々や政治家たちにとってはこの問題は problem だが,大多数の国民にとっては

matter でしかない。だから,両者の意見を同列に論じるのはそもそも間違っている。

 

この条例に関しても,(実質的にはもう過去の話だが)都の職員たちにとってはproblemだから,

「しずかちゃんの裸はOK」のような,世間の目から見れば「この人たちバカじゃないの?」

みたいな見解も発表しなければならないことは致し方ない。一方でmatterとして野次馬的に

見れば,なかなか興味深い出来事だった。

 

出版社などから反対意見が殺到したのは当然だが,都の当局の弁明はひたすら及び腰だった。

「そんな,皆さんが考えているような大それたことじゃありませんよ」という論調だ。過激な審議会と

世間の批判との板ばさみで,事務方はさぞ胃が痛んだことだろう。

 

上の青字の説明だけではわかりにくいかもしれないが,この条例の改正に関する都の姿勢は,

 

青少年がこうした性暴力の対象となることや、近親相姦等の対象となることについて「社会が是と

している」というメッセージを、閲覧する青少年に与えることは、青少年の健全な性に関する

判断能力の形成を阻害するおそれがある

 

という点に集約されている。Q&Aではもっとわかりやすく書かれており,要するにこういうことだ。

 

「未成年の読者が,近親相姦や援交などの反道徳的な(あるいは違法な)マンガを読んで,

『こういうことをしても許されるんだ』『こういうことをしたら気持ちがいいんだ』という,性に

対する誤った理解をしたらまずいでしょ?だから規制するんです。」

 

この理由付けはしかし,この条例改正を意図した人々の動機とは,たぶん大きく違っている。

彼らの頭にあるのは,「こんないかがわしいマンガを子どもに読ませることはけしからん」という,

よく言えば「大人としての良心」,悪く言えば「自分の道徳観の押し付け」である。そしてぼくの意見では,

彼らの思いは心情的には理解できる。しかし,上の赤字の理由付けには説得力がないと思う。

 

日本を発信源として世界に広がった「萌え」ブームの実態は,ざっくり言えばその8〜9割が

「ソフトポルノ」である。かつて「ロリコン」と呼ばれていたものに少し飾りをつけ,内容的をやや

ソフトにしたものが,今日の「萌え(マンガ・アニメ)」であることは,疑う余地がない。ネット上でも

相当過激なものが氾濫しており,まっとうな大人なら「こんなものを子どもに見せるのはダメ」

と思うのは当然だろう(ただしその見解が正しいかどうかは別の話だ)。ちなみにネット上で特に

問題となっているのは,今日一大マーケットを形成しているBL(ボーイズラブ)系マンガの扱いで,

東京都がこれに対する規制を強化しようとしている(実際に書店の棚からBL系雑誌が撤去される

事件も起きた)として,出版社やファンから多くの反対意見が出されている。

 

そうした背景をふまえて,上記の赤字の理由付けになぜ「説得力がない」のかを説明してみよう。

とは言っても,わざわざ説明するまでもなく,直感的に「ヘンだな」という思いが沸くかもしれない。

都の主張がもし正しいとしたら,こういうプロセスが想定されていることになる。

 

@たとえばここに,「近親相姦を美化したマンガ」がある。

Aそれを読んだ青少年の中には,「近親相姦はやってもいいんだ」「近親相姦を通じて性的な

   快感を得ることができる」と誤解する者がいるかもしれない。

Bだからこうしたマンガは規制すべきだ。

 

問題は,Aのプロセスである。実態として近親相姦を取り上げたマンガには,次の4類型がある。

 

(A)「兄と妹」  (B)「姉と弟」  (C)「母親と息子」  (D)「父親と娘」

 

これらを1つずつ検証してみよう。まず(C)(D)に関しては,「母親」「父親」は大人だから,この

条例の対象外となる(そもそも母親や父親は,まずこんなマンガは読まない)。では,「息子」

または「娘」がこの種のマンガに刺激されて自分の親に肉体関係を迫るようなことがあるか?

と想像すると,それはほとんど考えられない。これは多くの人に了解してもらえるだろう。だから,

(C)(D)のタイプのマンガを規制することには意味がない。では,(A)(C)はどうか?これには

少し現実のマンガの知識が必要だが,そもそも近親相姦を取り上げたマンガは,ほとんど全部が

「若い男の読者」を対象としている。いわゆる「腐女子」向けのマンガは「男×男」のカップルを

描いており,「男×女」のパターンはない。したがって,(A)(B)のようなマンガを女性が読む

ことはまずあり得ない。ということは,(A)(B)タイプの近親相姦モノを読んで,自分の姉や妹に

セマる若い男がいるのか?という点が問われることになる。これは,あり得る話かもしれない。

しかし,これもまた常識で考えればわかることだが,仮にそういうことがあったとしても,それは

たぶんマンガという表現形態が生まれるずっと以前から存在していた事実であり,ことさらに

マンガのせいにするのは無理だろうと思う。少なくとも,「暴走族を美化したマンガを読んで自分も

暴走族に入りたがる若者がいるかもしれない」という危惧に比べて,説得力が高いとは言えない。

 

まして,BL系のマンガやアニメはなおさらだ。「男×男」のカラミを描いた腐女子御用達のマンガを,

若い男が読むことなどまずあり得ない(絶対ないとは言わないが,まあ千人に一人くらいだろう)。

つまり,「BLマンガを読んで『自分も同じことをやってみよう』と思う若い男」など,まずいそうにない。

したがってBLマンガは,東京都の(青少年に悪影響を与えるという)論調に従うならば,最も

「人畜無害」なタイプのマンガであり,規制する必要など全くない。逆に言えば,BL系マンガが

規制の対象として想定されているという事実こそ,この条例のそもそもの発想が「若い娘がこんな

ふしだらなマンガを読むとはけしからん」という,ジイチャンバアチャンによる「大きなお世話」に

端を発していることの証拠だとも言える。

 

結局,「この種のマンガを読んだ青少年に悪影響がある」という理由付けに,無理があるのだ。

都の事務方も,おそらくそのことを知っていただろう。だから公式見解も,言い訳のオンパレードの

ようになっているのだろうと思う。ではその無理はどこから生じたのかと言えば,答えは簡単だ。

「こんなマンガはけしからん」という道徳観を,「青少年健全育成条例」によって明文化しようと

したからである。道徳は法で定めるものではなく,社会の構成員が(暗黙の了解を通じて)その

ときどきで形成していくべきものだ。今回の件は,言ってしまえば一種の茶番であって,一部の

過激な議員や委員会の委員さん(あるいは知事)たちの顔を,事務方が一生懸命に立ててやった,

という構図に映る。そもそも,(今回の改正案には罰則はなかったが)たとえ法的強制力のある

条例を作ったとしても,規制する側が想定しているような「ソフトポルノ」が青少年の目の前から

消えてなくなるようなことは現実としてあり得ない。ほとんどの青少年にとっては,昔の人が

学生の頃に谷崎潤一郎や富島健夫から得ていた情報や刺激を,今ではマンガやゲームから

得ているに過ぎないのであって,両者のやっていることは基本的に同じである。彼らがそうした

媒体を通じて反社会的な性向を形成していくかどうかは,基本的には本人の問題であって,

媒体の責任ではないと思う。年寄りはえてして,自分が昔やっていたことを忘れて(あるいは

美化して)「今の若者は・・・」と説教したがる。この図式はいつの時代も変わらないのだから,

「こんなマンガはけしからん」と言う今の年寄りたちを責めるのも,気の毒なのかもしれない。

 

身もフタもないことを言うなら,「表現の自由」などと声高に東京都を批判する出版界や言論界の

論客たちに対しても,この問題をmatterとして外から眺める立場からは,「そこまで目くじら立てる

必要はないだろう。どうせ東京都(少なくとも事務方)も,こんな条例が成立するとは思ってないし,

たとえ成立しても実効がないのは明らかなのだから」という感想を抱かざるを得ない。けだし,

当事者はご苦労なことだ。

 

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