日記帳(10年8月18日〜9月4日)

 

 

仕事が普通のペースに戻ったので,今日の土曜日(9月4日)は朝の1〜2時間ほど

須波でかぶせ釣りをやるつもりで,5時過ぎに家を出た。

 

尾道バイパスを走行中,スピードメーターの横に何かのトラブルを示すランプが点灯した。

しかしバイパスの途中で止まるわけにもいかず,そのまま海沿いの国道2号線へ出た。

左側には駐車スペースはないので,とりあえず西木原のローソンで車を停めるつもりで

そのまま走り続けたが,明らかにエンジンの調子がおかしい。どうにかローソンに着き,

駐車場へ入ろうとしてブレーキを踏んだら,そのままエンジンが切れてしまった。

駐車場の入り口に車が斜めになって止まった状態で,とりあえずパーキングにしたが,

きちんと駐車場に入れる必要がある。エンジンは全くかからないので,外へ出て車を

押していくしかない。しかし入り口は軽い上り坂になっていて,ニュートラルにすると

車がバックして道路へ出てしまう。店員さんに手伝ってもらうしかないかと思ったところへ,

たまたま近くに駐車していたトラックの運転手さんが出てきて,押すのを手伝ってくれた。

 

ボンネットから煙が出ていて,明らかにオーバーヒートの状態。しばらくエンジンを冷まして,

コンビニで2リットル入りの水を買ってラジエーターに補給。ランプは消えたが,またいつ

トラブるかわからんので釣りは中止。そのまま仕事場へ戻った。9時を過ぎてから修理に

持って行ったところ,ラジエーター周りが焼けついていて交換が必要,とのこと。

代車を借りようかとも思ったが,代車で釣りに行くのもなんかなあ・・・ということで,車は

そのままそこに置いて家に電話して迎えに来てもらった。

 

そういうわけで,しばらく車はなし。したがって釣りにも行けず。車がないとどこへも行けない

ので,結局今日も仕事をする羽目になった。しかし,今日はどうにかコンビニまで止まらずに

動いてくれてラッキーだった。バイパスや高速の途中でエンストしたら,えらいことだった。

それと,トラックの運転手さん,お世話になりました。

 

 

で,ただ仕事をするのもなんなので,新聞記事で見つけたこんな話を。


改正臓器移植法の初適用 手続きの検証が不可欠 (中国新聞 '10/8/12)

 わが国の移植医療が新たな段階に入ったといえよう。本人の書面による意思表示が

ないまま、家族の承諾による初めての脳死者からの臓器提供が行われた。

 臓器提供者(ドナー)は交通事故で脳死となった20歳代の男性である。

摘出された両肺を20歳代の患者に移植する手術が岡山大病院で実施されたほか

心臓、肝臓、膵臓(すいぞう)、腎臓も4人の患者に移植された。経過は良好という。

 脳死者から臓器を提供する場合、これまでは本人の書面による意思表示と家族の

同意がセットで必要だった。

 それが先月17日に施行された改正臓器移植法によって、本人が生前に提供拒否の

意思表示をしていなければ、家族の承諾だけで臓器提供ができるようになった。

 それだけに本人が生前、拒否の意思を示していなかったかどうか、しっかりと

確かめなければなるまい。

 「家族で臓器移植関連のテレビを見ていた際に、本人が口頭で提供の意思を

示していたと家族に確認した」。今回の事例について日本臓器移植ネットワークは

こう説明している。

 一方で疑問もわいてこよう。そもそも、いつ、家族の誰とこうしたやりとりがあったのか。

家族の方から自発的に臓器提供を申し出たのか。それとも病院側が選択肢として

提示したのか…。
 家族の「そっとしておいて」との思いも痛いほど分かる。ただ、こうした点を丁寧に説明

していくことこそ、移植医療に対する国民の理解を深めていく出発点になるはずである。

 しかしネットワークは「家族の了解が得られていないので答えられない」として、

家族の意思確認などがどう行われたのか、詳細を明らかにしなかった。

プライバシーへの配慮とはいえ、これでは、あまりに後ろ向きと言わざるを得ない。

もっと透明性を高める必要がある。

 厚生労働省は来月上旬、脳死判定に詳しい医師や法律の専門家による検証会議を

開くという。第三者の手で速やかに検証を行ってもらいたい。

 家族承諾と並ぶ改正法のもう一つの柱が、脳死下での子ども(15歳未満)の

臓器提供に道を開いたことだ。だが、こちらもすんなり進むか予断を許さない。

 提供できる体制が整っているとする病院は、2割に満たない実態が日本脳神経外科

学会の調査で浮き彫りになっているからだ。「小児の脳死判定ができない」「医師不足」

などが理由という。虐待の確認も求められるが、対応できないとする病院が目立つ。

 家族の承諾だけでできる臓器提供は、それだけ家族に重い選択を迫ることにもなろう。

まして子どもの場合はなおさらだ。負担を和らげるためにも、家族への継続的な心の

ケアが求められる。

 改正法のねらいである移植を増やすためには、ドナーカードの普及をはじめ国民の

理解を促す努力を続けていくしかない。

 

ニュースには,聞いてすぐ理解できるものと,解説されないと何が問題なのかよく

わからないものとがある。この記事は後者だ。

 

この社説の筆者は,「臓器提供のプロセスを詳しく明らかにすべきだ」と,赤字の文面に

よって主張している。しかし,ぼくはそうは思わない。「臓器提供が家族と病院のどちら側

からの申し出によるものか」を明らかにすると,どんなことが起きるだろうか?

もしも「家族の側が臓器を提供したいと申し出た」という情報が公開され,その家族が

何らかの形で特定されれば,バッシングを受ける可能性があることは想像に難くない。

「身内の遺体を切り刻むことを遺族が申し出るとは不謹慎だ」「故人が生前に臓器提供

の意志を示していたかどうかは(新法の下では)問われないのだから,遺族の判断で

遺体を提供したに違いない」というような。

では,逆に「病院の方が臓器提供を家族に打診した」という場合はどうだろうか?

これはもう,説明するまでもない。この種の情報をいったん公開してしまえば,ケース

バイケースで情報を出したり隠したりすることは当然できない(それこそマスコミに

叩かれる)から,日本臓器移植ネットワークが情報を非公開にした判断は正しいと思う。

 

ただし,ここで付記しておきたいことがある。ここまでの話の流れは,「自分の考えは

この社説の書き手の考えとは違う」と言っているだけであり,その人の良識や人格を

批判しているわけではない,ということだ。相手の意見の背後に隠れている「思想」や

「価値観」を理解しようとする姿勢がなければ,そういう誤った方向に向かいかねない。

 

社説の文面を,もう一度見てみよう。

 

 そもそも、いつ、家族の誰とこうしたやりとりがあったのか。家族の方から自発的に

臓器提供を申し出たのか。それとも病院側が選択肢として提示したのか…。
 家族の「そっとしておいて」との思いも痛いほど分かる。ただ、こうした点を丁寧に説明

していくことこそ、移植医療に対する国民の理解を深めていく出発点になるはずである。

 

ここには,書き手の「真意」は表現されていない。「こういう点を丁寧に説明すること」が,

なぜ「移植医療に対する国民の理解を深めていく出発点になる」のかがわからない。

「家族の『そっとしておいて』の思いも痛いほどわかる」というのも,厳しく言えばウソだろう。

賛否のバランスを意識した飾り言葉にすぎない。

 

池上センセイになり代わって,ぼくが解説しよう。上の文面における社説の筆者の真意は,

次のようなことではないかと思う。

 

なぜ私(たち)が情報の公開を求めるのか?それには,2つの理由があるのです。

第1に,私(たち)は,医者も遺族も信用できない。臓器提供に関する情報が隠されると,

「医者が半強制的に臓器の提供を遺族に迫った」あるいは「遺族が臓器提供と見返りに

医者から何らかの対価を受け取った」ような(犯罪的な)ケースがあってもわからないでしょ?

第2に,私たちマスコミは情報の提供が仕事であって,対象が何であろうと,「情報を隠す」

ことに対しては生理的な反発を覚えるのですよ。理屈じゃないんです。

 

これがもし「邪推」だと言うなら,「遺族と病院のどちらが臓器提供を申し出たのか」という

情報が,「遺族のプライバシー(あるいは遺族がバッシングを受けるリスク)」よりも優先

されるべき理由を,誰かにわかりやすく説明してもらいたい。こういうことを言う人はいる

かもしれない。「故人の意思表示がないままに遺族が悩んだ末に臓器提供を決めたの

だとしたら,そのプロセスを報道することによって同じように考える人が出るかもしれない

(そうすると臓器提供者が増える)。だからそのプロセスは報道する価値がある」と。

しかしこれは,取ってつけた理屈だ。臓器提供がそのような外的刺激に左右される

「軽い」行動にすぎないのだったら,これほどの社会問題になるはずがない。この問題が

世間の注目を集めるのは,遺族のアイデンティティに関わる,いわば「生き方」を問う

テーマだからであって,それを詳しく報道したがる姿勢の背景には,24時間テレビで

身体障害者を使って視聴率を稼ごうとするテレビ局の思惑と同種の「マスコミの本能」

のようなものを感じてしまう。

 

逆に言えば,上の青字が「邪推」ではないという前提のもとでは,ぼくは社説の筆者の

ロジックも良識も人格も否定しない。そういう判断はあってよいだろう。そして,ぼくの

判断がこの筆者の判断と異なる根本的な理由は,ぼくは医者や遺族よりも

マスコミの方がより「信用できない」という点にある。これは「だれを信用するか」と

いう価値観,あるいは優先順位の問題であって,どっちが正しいかという問題ではない。

 

結局何が言いたいのかと言えば,あらゆる議論の背景には「価値観の相違」があり,

どちらか一方の価値観が他に優越するわけではないということだ。そして,それを

意識していれば,自分とは違う意見(=自分とは違う価値観)を持つ相手の人格を

誹謗するような愚かな行動はしなくなり,同時に「議論では物事は解決しない」と

いう結論に至らざるを得ないのではないか?ということである。

 

 

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