日記帳(10年9月13日〜12月5日)

 

 

11月末までずっと仕事が忙しく,この日記帳も3か月近く休んでしまった。

ようやく日記を書く時間が取れたので,今日はカープの話を少し。

 

先日2ちゃんねるの掲示板をのぞいてみたら,カープのフラグがいくつか立っていた。

野村監督・大野コーチ・松田オーナーの三者にかなり批判が集中していたので,

それについて思うことを書いてみたい。

 

話が飛ぶが,駅伝の掲示板も見た。高校駅伝の有力校にはそれぞれのファンが

掲示板を作っていて,世羅高校の掲示板は大荒れだった。荒らしているのはたぶん

特定の一人だろうが,要するに「外国人留学生を使って勝つのは卑怯だ」という趣旨の

ことを,汚い言葉で大量に書き込んでいた。その投稿者によると,たとえば仙台育英や

青森山田も外国人留学生をメンバーに入れているが,それらは私立高校であって,

世羅は公立高校なのだから悪質さの度合いが大きい,と言いたいようだ。

 

この人のコメントを読んで思ったのは,テレビの討論番組などにもいつも感じることだが,

自分の優先順位を他人に押し付けてはいけない」ということだ。ファンにしてみれば,

「外国人選手と日本人選手は能力差がありすぎるので,外国人が入るとフェアな勝負が

できない」という点を問題視する。その背景には,「自分がひいきにする(日本人だけで

構成された)チームに勝ってほしい」という思いがあり,彼にとってはそれが最も高い

優先順位を持っている。では,世羅高校の側に立って考えればどうなるか?彼らの

最終目的は,言うまでもなく全国優勝だ。それ自体は他のチームと同じだが,世羅高校

駅伝部にはたぶんもう1つの使命がある。それは,彼らが「町起こし」の一翼を担う

ことを期待されているということだ。世羅町は山間部にあり,地元に大きな産業もない。

放っておけば過疎化が進むことは目に見えている。そこで,昔から駅伝の名門校として

名を馳せる世羅高校に頑張ってもらって世羅町の知名度をアップし,町の活性化を図る

という思惑が,たぶん町側にはあるだろう。その観点から言えば,世羅高校の外国人

留学生は,ある意味で「地元活性化の切り札」ということになる。「公立高校だから

外国人留学生に頼るのは卑怯だ」というのは駅伝を競馬のように見るファンの側の

理屈であって,地元の側からは「公立高校だからこそ,町にとって利益があると見込んで

わざわざ予算を組んで外国人留学生を招いたのだ」という正反対の理屈が成り立つ。

どっちがいい悪いの問題ではない。優先順位が違うだけのことだ。

 

 

以上の話をふまえて,まず「カープのフロント(オーナー)への批判」を批判してみたい。

松田オーナーへの批判の多くは,「オーナーには,カープを強くしようという意欲が薄い」

という点を問題視する。その一例として「チームからFAで多くの選手が流出する一方で,

これまでFAで選手を取ろうとしたことがない(今回の内川が初めて)」という点がしばしば

指摘される。これは一つには今まではFA選手を獲得するだけの資金がなかったために

仕方のなかった面があるが,それは本稿の論点とは関係ない。ここで問題にしたいのは,

「君たち(オーナーを批判するカープファン)が最優先するのは,本当にカープが強くなる

という一点なのか?」,言い換えれば,「強くなるために払う犠牲を考慮しているのか?」

ということだ。阪神を見るがいい。野手のレギュラーは外国人と移籍選手ばかりで,

生え抜きの主力は鳥谷ひとりだ。城島の加入は確かに戦力のアップにはなったが,

他のチームなら十分レギュラーを狙える狩野の成長を阻んでいる。君たちは,本当に

カープがああいう(阪神のような)チームになることを望むのか?

 

批判派たちは,オーナーの「温情主義」を攻撃する。「弱いんだから,もっと選手に厳しくしろ」

あるいは「選手をどんどん入れ替えるべきだ」という声も多い。たとえば戦力のバランスから

言えば,現状では野手に比べて投手に計算できるコマが少なすぎるから,チーム強化の

観点からは,カープの野手と他チームの投手をトレードするという選択肢はあるだろう。

名前を挙げるなら,現状のカープは外野手が余っている。3つのポジションに広瀬・嶋・

赤松・天谷・岩本の5人のレギュラー候補がいるので,このうち誰か一人をトレードで出して

計算できる投手を取るのがよかろう。相手の候補としては,日本ハムの八木・ソフトバンクの

新垣・中日の朝倉・巨人の久保/西村/金刃・阪神の江草らが考えられる・・・

 

が,しかし。「広瀬・嶋・赤松・天谷・岩本の誰かをトレードで出す」ことに,どれだけのファンが

賛成するだろうか。何かを変えようとすれば,その代償が必要だ。犠牲を払わずにプラス

だけを求めることはできない。カープというチームは,あるいは松田オーナーは,長い期間を

かけて育てた選手をトレードしてまでチームを強化するという道を選ばない人なのだろう。

「いや,広瀬だろうが栗原だろうがトレードして,チームの強化を目指すべきだ」と言うのなら,

それはそれでいい。しかし,払う犠牲に目を向けないで夢ばかり追うのは,無責任な傍観者の

態度でしかない。(同じことは,内川の獲得についても言える。彼が入れば外野は右から広瀬・

岩本・内川となる可能性が最も高く,赤松も天谷も出番を失ってしまう。打力アップの代償と

して,本来チームが目指していた守備・走塁面で大きなマイナスを被ることになる。だから,

内川は逃げられて正解だった)

 

このことは,カープ球団だけの話ではない。一般企業の中にも,温情主義的な会社(組織)と,

効率重視の組織がある。ぼくはその両方に勤めたことがある。温情主義的な会社の方は,

オーナーが「一度雇った人間は絶対に首にしない」というポリシーの持ち主だった。実際に,

ギャンブルにのめり込んでオーナーから個人的な借金をしていた人もいたし,会社の帳簿を

ごまかした人もいたが,解雇されなかった。仕事の効率は,全体として高いとは言えなかった

だろう。手抜きをする人もいた。しかし,働きやすい職場ではあった。一方,効率重視の会社

に勤めていた頃は,今思い出しても腹が立つことが恒常的にあった。それは,「オレが監視

していないと,こいつらは手抜きをするんじゃないか」という上からの視線が常に感じられた

ことだ。それは特定の上司のパーソナリティの問題ではなく,効率重視の組織の必然的な

ありようだったのだろう。実際,こんな少人数でよくあれだけの仕事量がこなせるものだ,

というくらい,社員は必死に働いていた。その代わり,次から次へ辞めていった。

 

この経験から言えることは,温情主義的な会社は「社員に対する会社の責任」を最も重視し,

効率主義的な会社は「会社の業績アップ(およびその結果としての社員の待遇改善?)」を

最も重視していたように見えることだ。前者を好む人は,後者に対してこう言うだろう。

「せっかく育てた社員が次々に辞めていくんじゃ,長い目で見れば効率が悪いだろうに」。

一方,後者を好む人は前者をこう批判するだろう。

「社員が怠けた結果,会社自体が潰れたら何にもならんだろう」。

より優れているのは,どちらのタイプの経営者なのか?それは,結果で判断するしかない。

 

カープのオーナーが温情主義的であるのだとしたら,そこには「いい面」も「悪い面」もある。

悪い面は,言うまでもなくチームが強くならない(あるいは強くなるための最善の策を取って

いない)ということだ。では,「いい面」とは何か?たとえば前田智徳選手の来季の年俸は

7千万だが,単年の成績だけを見れば彼にそれだけの給料を払うのは高すぎるだろう。

せいぜいその3分の1くらいが妥当ではないか。しかし,カープは従来から年功序列的な

年俸の査定をしており,1年だけいい成績を残しても大幅にはアップしないが,その反面

実績のある選手には成績が下がっても大幅なダウンはしないシステムになっている。

そういうことも含めて,カープ球団のチームカラーは昔から家族主義的であり,よく言えば

チームの一体感を重視する(悪く言えば仲良しグループ的でありプロとは言えない)傾向が

強い。そういう方向を支持するかどうかは人によって意見が違うだろう。個人的には,

赤松や天谷をトレードするようなチームにはなってほしくない。だから,フロント(オーナー)

が目指しているチーム運営の方向性を,ぼくは嫌いではない。

 

 

続いて,野村監督・大野コーチへの批判に関して。

批判の主な論点は,「投手の酷使」と「練習のさせすぎ(による故障)」の2つだ。

前者については,特に中継ぎ投手が酷使されるのはどのチームも事情は同じであって,

ことさらに監督・コーチの責任にはできない。しかし,大竹が契約更改のときに語った

内容には驚いた。彼は今年春先から肩の調子が悪く,6月ごろ一時的に復帰して

3試合先発したが,そのときも激痛と戦いながら投げていたのだそうだ。これはもう,

投手コーチの責任だろう。「大竹自身が痛みを隠していたのだから,コーチが見抜け

なくても仕方がない」という言い訳は通用しない。それは過労死した部下に対して,

「本人の申告がなかったから,そんなに疲れているとは知らなかった」と上司が

言い訳するのと同じだ。ブラウン監督時代なら,大竹が激痛に耐えながら投げる

(その結果投手生命の危機にさらされる)ような事態は,たぶん起きなかっただろう。

 

このことは,「コーチや監督は何のために存在するのか?」という根本的な問いかけと

密接に関係している。そこのところで,ぼくは野村監督のこれまでの言動に見られる

彼の「指導者として目指している方向性」が好きではない。

 

前任者のブラウン監督と野村監督との違いを端的に言えば,こういうふうになるのでは

ないかと思う。ブラウン監督は選手に対して,現時点での実力以上の働きを決して

要求も期待もしなかった。彼が選手に求めたのは,「現在の自分に可能なベストの

パフォーマンスを試合で実行する」ということだ。だからブラウン監督は,コーナーを

つくコントロールを持っていない投手が,自分の力以上のものを出そうとして,結果的に

四球を与えることを許さなかった。アバウトなコントロールしかないのなら,自分にできる

範囲でストライクゾーンにベストの球を投げればよい,というのが彼のポリシーだった。

一方,大野コーチが投手に求めるものはそうではない。アバウトなコントロールしか

ないのなら,もっと正確なコントロールを身に着けなければいけない,と彼は言うだろう。

それは練習においては正論かもしれないが,現実の試合でそれを求めてはリスクの

方が大きい。野村監督の考えもそれと同根のものを感じる。彼は「やる気をもっと

前面に出せ」と選手を鼓舞するのが好きだが,その言葉は「技術の不足は気合いで

埋めることができる」と主張しているかのように響く。要するに,野村監督は選手に

対して,「今自分が持っている能力以上のものを試合で出す」ことを求めているように

映る。その点が,ブラウン監督と野村監督の決定的な違いではないだろうか。

 

どちらが監督して優れているかは,一概には言えない。監督の役目はさまざまであり,

チームのムードを盛り上げたり選手にやる気をださせたりするテクニックも求められる。

一般企業に例えて言えば,野村監督は「俺について来い」と部下の先頭に立って

行動するプレイイング・マネージャーのような管理職であり,ブラウン監督は選手が

最もよいコンディションで試合に臨むための環境整備を重視する管理職だったのだろう

(もっともブラウン監督は選手に自由に盗塁させないなど采配面ではかなり独裁者的な

面もあったが)。

 

ただ,個人的な思いを言えば,実際にプレーするのは選手なのだから,監督は第一に

「選手が働きやすい環境」を整えることを優先してほしいと思う(その意味で,ぼくは

野村監督よりブラウン監督の方が好きだ)。練習に関して言うと,連携プレーなど

チームとして機能するための練習は必要だが,個々の選手の能力アップは基本的に

選手個々に任せるべきではないかと思う。「練習した者が上達する」という恫喝的な

スローガンを掲げている限り,監督の目を気にしてオーバーワークに陥り故障する

選手は後を絶たないだろう。プロ野球に入って来る選手たちはみんなエリートであり,

その中で先天的な能力に応じた序列ができてしまうのは仕方のないことだ。

冷たい言い方だが,監督やコーチの本来の役目は,個々の選手の潜在能力を

冷静に査定して,戦力になりそうな選手とそうでない選手とを選別することにある

のではないだろうか。実際,カープの二軍の選手起用はそういうふうになっている。

全員に均等にチャンスが与えられるわけではなく,潜在能力が高いと首脳陣が

判断した選手に(たとえ目の前の結果が出せなくても)より多くの出場機会が

与えられている。そこのところさえ間違えなければ,能力の高い選手は放って

おいても自ら輝きを放つようになるのであって,監督やコーチが高校のクラブ

活動のように「鍛えた」結果として選手が育つという考え方は,それ自体が

間違っているように感じられるのだ。

 

自分が長い間プロ野球選手と似たような契約形態で仕事をしていたせいもあり,

ぼくはどうしても選手の方に感情移入してしまう。自分が一選手だったら,こういう

ふうに思うかもしれない。「オレは1年でも長くこの世界で生きていきたい。しかし,

オレがこのチームに10年在籍することは不可能ではないが,同じ監督やコーチが

10年居座ることは考えにくい。監督やコーチが代わるたびに,その方針の違いに

よって自分が振り回されるのはまっぴらだ。監督の言うことを聞いて猛練習して

体を壊しても,監督が責任を取ってくれるわけじゃない。だから,今の(腰掛けの)

監督に絶対的な忠誠を尽くす必要はない。なぜならオレはサラリーマンではなく,

個人事業主だからだ。労災が適用されるわけじゃない。自分の貴重な資産で

あるこの体は,自分で守らねばならないのだ」

 

そういう観点からは,現在の契約形態も見直すべきだろう。選手は球団に対して

もっと主張していい。たとえば救援投手なら「3日連投は拒否する」とか,「監督の

指示に従って行った練習中の事故により長期離脱を余儀なくされた場合は,

そのことを年俸ダウンの査定理由としてはならない」といったような文言を,

契約書に入れればいい。監督がスパルタ練習を事実上強制した結果として

選手生命にかかわるような故障を誘発し,それに対して当の監督が「故障しない

よう体を管理するのは自己責任だ」と言い放つような不合理(実際に野村監督は

そういう趣旨の発言をしている)を,許してはならない。選手に練習を強いる監督は,

基本的に選手を信用していない。マエケンのように実績を残した選手には自己流の

調整を許すが,結果を残していない選手には「練習が足りないからだ」という判断を

下し,しかも「こちらから強制しないと,お前らは十分練習しないだろう」と思っている。

そこのところが,かつてぼく自身が在籍した効率重視の会社で,上から感じた視線と

ダブるのだ。だからぼくは,野村監督が好きではないのだよ。

 

野村くん。君も1年目だから,失敗もあるだろう。試行錯誤するのはかまわない。

でもね。伸びない選手がいるのは,彼の練習が足りないからではないと思うよ。

それが,彼の能力の限界なのだよ。それでなくても本人は,他の選手たちと自分を

比べて,「ああ,オレはやっぱりダメかなあ」と思っているだろうよ。そういう選手には,

せめて悔いのないプロ野球人生を送らせてあげるのが人情じゃないのかい?

もともと短い選手生命が,オーバーワークによってさらに縮んで,故障を抱えたまま

解雇されるような不幸な結末だけは,避けてあげたいよね。監督としての君の視線は,

「選手を鍛えて強くする」ことよりも,「鍛えなくても一軍で働ける人材」を選別する

ことの方に向けるべきだとオジサンは思うよ。現にマエケンは,二軍で鍛えられた

結果として今の彼があるわけじゃない。斎藤や今井クラスの選手だって,本人に

才能があれば,放っておいても一人前になると思うよ。その前に故障さえしなければ。

 

 

最後に。今年の「野村語録」の中から,ぼくが最も許せなかった「事件」を1つだけ

挙げておく。これは掲示板でも誰も問題にしていないようだが,個人的に非常に

引っ掛かっているのだ。

 

それは,ヒューバーが珍しく活躍した試合後の,「万馬券が当たった」という

野村監督のコメントだ。これは,管理職として許されるセリフではないだろう。

投手がタイムリーを打ったのではない。ヒューバーは打力で飯を食っている選手だ。

彼が通訳を通じて「監督が君の今日のバッティングを評して,『万馬券が当たった』と

言っていたよ」と伝え聞いたら,さぞプライドが傷ついただろうし,モチベーションも

下がったはずだ。この試合の後で監督として言うべき言葉は,「ヒューバーは

もともと力のある選手なんだから,これをきっかけにガンガン打ってほしい」という

ようなものでなければならなかったはずだ。口がすべった,で済む問題ではない。

「上司は自分を信用していない」と思ったら,部下はやる気をなくしてしまうし,

その上司は他の部下からも信用されないだろう。大いに反省してもらいたい。

 

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