日記帳(2012年8月5日)

 

 

清清しいくらい忙しい。

 

 

 

週末も全く休めず,ほとんど家と仕事場の往復で毎日が過ぎていく。

嘉門達夫の歌じゃないが,誰かの陰謀じゃないかと思うくらい,なんで自分だけ

こんな忙しいのか不思議な気がする。8月中にやる仕事を改めて数えたら,まだ

あとこれだけ残っていた。

 

・S社の教科書準拠の英文法問題集の原稿書き(3冊)(下請け)
・編プロA社経由の参考書の原稿書き(孫受け)
・E社のリスニング教材の解説の原稿書き(下請け)
・編プロT社の請負い英会話本の内容校正(孫受け)
・N社に提出した市販本のデータの入れ替え

・8月末に出席するP社の営業会議の資料作り

・T社の雑誌連載の原稿

・「日本の魚釣り」から頼まれた写真撮影の仕事

 

最後のは,「週刊 日本の魚釣り」の中に「釣り場紹介」のコーナーがあり,今まで

山口県の釣り場を出したことがないので,周防大島の釣り場の写真を8月中に

撮ってきてほしいと頼まれている。せっかく遠くまで行くので釣りもしたかったが,

往復だけで数時間かかるし,広い島をぐるぐる回るので,どこかの日曜日に

写真だけ撮りに行くことになりそうだ。

 

そんなわけで最近全く釣りには行ってないし,オリンピックさえほとんど見てない。

今日の日曜日も,仕事の合間にこれを書いている。

 

2日前に,有名なミュージシャンがテレビの報道番組で「反原発」の発言をしていた。

原発に賛成か反対かということは後で語るとして,この問題が今後どうなるかを

予想すると,ぼくはこう思っている。

 

日本が国として「脱原発」の意志決定をする日がたとえ将来訪れるとしても,

その日が来るのと北朝鮮の政治体制が崩壊するのとどっちが早いか?と

いうレベルだろう。(つまり,その日は当分来そうにない)

 

たとえ橋本新党が「脱原発」のマニフェストを掲げて第一党になっても,それをすぐに

実現するのは無理だと思う。さまざまな抵抗を受けて政策は骨抜きにされるだろう。

 

 

いつも思うことだが,今のところ世間で見られる「原発に賛成か反対か」という議論は,

「どちらが正しいか」を論じる段階に至っていない。そこがTPPとは違う。TPPの場合は

基本的に経済問題だから,「TPPに参加することが日本経済にとって損か得か?」と

いう議論の土俵の上に賛成論者も反対論者も乗っている。しかし,原発問題の場合は

そうではなく,お互いに違った土俵の上で自分の主張を繰り返している。

 

賛成論者は,「経済」の土俵で発言している。「原発は日本経済にとって必要だ」という

のが,その基本的な姿勢だ。一方反対論者は,「思想」あるいは「哲学」の土俵から

物を言っている。今は事故のリスクが前面に出ているが,反対論者の主張の背景には

「お金がなくても幸せになれるはずだ」という思想があるように思われる。彼らは,

原発がなくなった場合の(少なくとも短期的な)経済的悪影響を過小評価し,あるいは

真剣に考えようとせず,「あの悲惨な事故を見てみろ。あんなことが二度と起きないよう

原発には反対だ」と言っているようだ。

 

個人的な意見を言わせてもらえば,議論の場でこういうことを言っても許されるのは

福島県民だけだ。それはちょうど,「何があっても核兵器には反対」とか「何があっても

死刑は必要」という一種の「思考を停止した主張」をしても許されるのが,原爆や凶悪

犯罪の被害者とその関係者に限定されるのと同じだ。そうでない一般の人々は,

「無条件に賛成」とか「無条件に反対」とかを,少なくとも議論の場では言ってはいけない。

 

 

じゃあ,結局お前は原発問題をどう思うんだ?と問われるなら,最初にこう答えよう。

 

原発反対論者がもしも賛成論者を議論で説得しようと思うなら,「経済」という

土俵の上に乗るべきだ。

 

お互いが別々の土俵の上で好き勝手なことを言い合っていても,対立が増すばかりで

議論は深まらない。反対論者は,「原発と経済」の問題をもっと真剣に考えるべきだ。

それは「原発を動かすことで経済的利益を得る一部の人間がいる」とかいう次元の低い

話ではない。われわれに突きつけられている問いは,「原発を停止させた結果,一時的に

せよ日本全体の経済力がおそらく低下することを,あなたはどう思うか?」ということだ。

 

この問いに対する答えは,自分がどんな仕事をしているかによって違ってくるだろう。

ミュージシャンのように「電力の供給が減る」ことが直接的なダメージにならないような

仕事をしている人は,「それでもいいじゃないか」とおそらく答えるだろう。一方,たとえば

町工場の経営者や従業員は,電力供給の悪化と電気料金のアップが自社の存続や給料に

直結していると思えば,「原発がなければ困る」と言うだろう。そう考えると,原発賛成論者の

理由の方がより切実であり,「原発がなくなってワシらが失業したら,誰が責任取るんじゃ?」

という賛成論者の意見に,反対論者は誠実に答える努力をしなければならない。

「たとえ原発がのうなってもワシは直接困らんから,原発は不要じゃ」というのは,議論の

場では通用しない。

 

結局この議論は,以前からよく言われているとおり,「あなたは『経済成長至上主義』に

賛成ですか,反対ですか?」という問いに行き着く。そしてその国民的議論は,実質的に

既に決着がついている,とぼくは思う。

 

今の若い人は知らないだろうが,オジサンたちが若いころ,世界には「冷戦」というものがあった。

アメリカとソ連を中心として世界をニ分割した勢力争いだ。その思想的バックボーンになったのが,

「自由主義と共産[社会]主義」の対立だ。日本国内ではその対立は「自民党VS社会党」という

図式に反映され,常に自民党が優勢ではあったが,社会党も一定の支持を得ていた。

 

そして,時は流れた。かつての「冷戦」構造は完全に崩れ,アメリカの勝利に終わった。それは

日本もアメリカのようになっていくことを意味していた。政治的にも,今日の日本の政党のうち,

民主党のかなりの議員と自民党のほぼ全員が(少なくとも経済運営に関しては)「アメリカ流」に

賛成する人々であり,かつての社会党の系譜を引く社民党は見る影もなく凋落している。

 

では,アメリカチームを勝たせソ連チームを敗北に導いた原因は何か?

歴史学者や経済学者がどう解説するかは知らないが,その答えは素人でもわかる。

アメリカ流の「自由(経済)主義」を勝たせた要因は,「人々の欲望」だ。

歴史を見れば明らかなように,人類は全体として,自らの欲望(物欲や競争心)をコントロール

することができなかった。その結果が戦争であり,原発事故であるわけだ。俯瞰的に見れば

共産主義は「人間の欲望にブレーキをかけようとする運動」だったと言えるだろう。

そしてその試みは,見事に失敗した。

 

われわれ人間は,たとえ個人のレベルで「欲望の制御」がある程度可能だったとしても,

集団としての欲望は制御できない。この事実を認めることが,議論の出発点だ。

 

原発反対論者が言う「経済成長だけが幸福への道ではない」的な主張は,個人には通用

しても集団には通用しない。少なくとも日本の社会全体は,よほどのことがない限り,

「経済成長至上主義」の思想から決して逃れることはできない。悲観的かもしれないが,

これが現実だ。「よほどのこと」とは何かと言えば,たとえばかつての敗戦だ。このときも

日本人や日本社会が主体的に変わろうとしたのではなく,アメリカに誘導されて大きな

社会変革が起きたにすぎない。今回の原発事故は大事件ではあるが,社会全体としては

「思想的転換」は起こらないだろう。

 

私たちには資源がない。だからお金を稼ごうと思ったら,他国に製品を売るしかない。

そのためには生産力が必要だ。そのためには豊富な電力供給が必要だ。そのためには

原発が必要だ。――― 賛成派の主張は結局そういうことだから,反対派が賛成派を

説得しようとすれば,この理屈のどこかに風穴を開けねばならない。原発に代わる安い

電力の確保が担保されていない現状では,上の主張の前半の部分,つまり「お金を稼ごうと

思ったら」という発想を変えたらどうか?という話になる。そこで「そんなにお金を稼がなくて

いいじゃないか」という思想が生まれ,「お金だけが幸せの条件ではない」というある種の

現実逃避に足を突っ込むことになる。

 

 

では,「原発は是か非か」というぼく個人の見解を順に述べよう。

 

まず,原発には反対だ。できるだけ早く全廃すべきだと思う。

その第1の理由は,原発がなくても自分はとりあえず困らないからだ。

 

お前,さっき自分で言うたことと矛盾しとるやろ?と誰でも思うだろう。しかし,そうではない。

 

まず,さっき言った言葉をもう一度繰り返そう。

 

原発反対論者がもしも賛成論者を議論で説得しようと思うなら,「経済」という土俵の

上に乗るべきだ。

 

この主張は前半と後半がセットであり,前半を否定すれば後半も否定される。つまり,

 

原発反対論者がもしも賛成論者を議論で説得しようと思わないなら,彼らは「経済」と

いう土俵の上に乗る必要はない。

 

これが,現在多くの反原発論者たちが実際に行っていることだ。彼らは最初から

原発賛成(推進)論者と「議論」する気などない。そして,それでいいと思う。なぜなら

前からずっと言っているとおり,「世の中は議論では動かない」と思うからだ。

もともとあった原発反対論がこれほど大きくなったのも,福島の事故という現実が

あってこそだと考えれば,そのことが納得できるだろう。本当に世の中を変えたいと

思うのなら,何も議論に頼る必要はない。暴力はダメだが,「大衆を洗脳すること」は

全然かまわない。大衆は洗脳されやすいものだ。だから報道番組に芸能人が出て

「原発反対」と叫び,あまり物を深く考えないミーハー市民を扇動してもいいだろう。

それが契機になって原発が廃止される可能性がたとえほぼゼロだとしても。

 

さてそこで,「議論を放棄した原発反対論者たち」(自分を含む)は,何を判断基準に

しているのか?それは結局,「自分個人にとっての原発の価値」ということになる。

自分は原発がなくても困らない,というのはそういうことだ。

 

原発に反対する理由その2。たとえ「日本経済にとって」という土俵に乗ったと

しても,原発が必要だとは思わない。

 

「本当に原発に代わる電力供給の道はないのか」という問いに対する答えは,

たぶんノーだろう。今まで原発に回していた予算を別の発電形態の普及に

振り向ければ,太陽でも風力でも「事業者が儲かる」程度の設備投資を促す

ことはたぶん可能だろうと思う。「将来は可能だとしても今すぐには無理だ」と

言うのなら,電力減で一時的に生産力が落ちた会社には,国や電力会社が

保証金を出せばいい。農家へ出す補助金と同じ理屈だ。

 

原発に反対する理由その3。「経済成長市場主義」に反対だから。

 

「原発に代わる安定的で安い電力が確保できれば,それでいいのか?」という

大きな問題がある。電力供給を確保して生産力を下げないということは,現在の

経済力を維持する(あるいは高める)ということであり,それは「経済成長路線」を

守ることにほかならない。経済成長を求める社会は,必然的にアメリカ的になる。

つまり貧富の差が大きくなる。貧しい者が幸せになるのは難しいが,じゃあ金持ちは

幸せかと言えば,そうは言えないだろう。成功者はみんな厳しい競争にさらされて,

気の休まるひまもない。つまり経済成長主義は,誰も幸福感を持てないような社会を

作り出す可能性が高い。だから個人的には,こういう路線には反対だ。

 

 

しかし,本稿の主題はここから先だ。既に述べたように,こんなことは個人的な

レベルでは誰でも思いつくのだが,それが「社会全体の意志」にはなり得ない。

つまり我々はこれからも,国全体としては「欲望の追求」をやめないだろう。

そうした社会全体の流れに対してどう自分の身を処していくかについて,人の

行動は大きく次の2つに分かれるだろう。

 

A型:社会の流れに乗ることで「自分の幸せ」をつかもうとする

B型:社会の流れから離れて「自分の幸せ」を追求する

 

この問題に関して言えば,A型の人は,今は一時的に社会全体が脱原発,つまり

「経済成長より大切なものがある」的な方向に向いていると察知(あるいは錯覚)

してそれに乗っていこうとするかもしれないが,やがて熱が冷めて「やっぱり経済は

成長すべきだ」という雰囲気に戻ったときは,結局今まで来た道へ回帰するだろう。

B型の人は,社会の動きとは無関係に,よく言えば自分の意志で行動する(悪く

言えば自分の殻に閉じこもる)だろう。ぼくはB型寄りだ。

 

本当の意味での「B型の人」は,たぶんそんなに多くない。日本人の場合は特に

そうだろう。良くも悪くもそれが我々のDNAであって,我々は基本的に「他人がどう

振舞っているか」を自分の重要な行動原理にしている。それがある面では社会の

一体感を生み,別の面では戦争に突き進むような国民性につながっている。

ぼく自身は個人主義的な傾向がかなり強くて,「国」とか「会社」とか「家」とかと

いうものに帰属することが大切だとは思わない。他の人は知らないが,自分や

自分の家族は,1人1人が思ったままに個人の人生を生きればいいと思う。

だから原発の問題についても,真剣に考えようとすればするほど「自分自身の

身の丈の範囲」でしか語ることができない。社会がどうあるべきか,ということを

考えても仕方がない。なぜなら,社会全体の意志はもうわかっているのだから。

この問題に関して言えば,社会全体の意志とは「それでも日本という国は,

これからも経済成長を目指していく」ということだ。

 

だから,自分が原発に反対する理由を上で3つ挙げたが,大切なのは1番目,

つまり「原発がなくても自分はとりあえず困らない」という点だけであって,

2番目と3番目には対した意味はない。原発にも経済動向にも直接の利害

関係がないから,傍観者的に無責任な意見を吐いているだけだ。

 

最後に今回の記事を短くまとめると,次のようになる。

 

個人的には原発はいらない。しかし,日本の原発は当分なくならないだろう。

なぜなら,原発は社会の欲望の象徴であり,社会は自らの欲望を制御する

ことができないからだ。

 

追記:もし脱原発の方針が決まることがあるとしたら,それは社会が禁欲的に

なったことを意味するのではなく,「原発なしでも欲望は満たされる」ということが

確認できた(欲望追求の方向性は変わらない)ということにすぎないだろう。

 

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