日記帳(2012年8月13日)

 

 

まさ父さん激励のお言葉ありがとうございます。

最近釣りに行くひまがないので,せめて雑記や日記を時々更新しようと思います。

 

 

世間は普通にお盆休みだろうと,わたしは一日も休みがありません。

きのうの日曜日もずっと仕事で,今日の昼頃にようやく1本アップしたので,

コンビニの冷やしうどんを買ってきたところです。食いながらこれを書きます。

 

 

仕事で一日中パソコンの前に座っているのに,それでもまだこういう日記とかを

書いたりする動機は,基本的に「書くことが好きだから」ということに尽きる。

だからフリーライターをやっているわけだが。とにかく書きたいことは,仕事でも

プライベートでもいくらでもある。話すより書く方が好きだ。話すのと書くのとでは,

「言葉の重み」が違うからだ。話すのは刹那的で一過性だから,口がすべったり,

前の発言と矛盾することを言ったりすることがよくあるが,それを聞いても人は

たいてい何も思わない。会話(あるいは口頭の議論)とはそういうものだ,という

暗黙の了解があるからだ。しかし,書いたものはそうはいかない。後で考えて

書き直しができる分,「完成品」にはそれなりの質と責任が求められる。だから,

テレビの討論番組はほとんど見ないが(出演者がほとんど「言いっ放し」だから),

文字に書かれたものは新聞・雑誌・書籍・ネットなどよく読む。

 

 

大津市のいじめ自殺事件について,いろんな人がいろんなことを書いている。

多くが指摘するように,この種の事件では「一般論で語れる部分」と「個別の事情」

とがある。我々は個別の事情については(せいぜい新聞雑誌に書いてあることしか)

よく知らないので,一般論で語るしかない。その点で,これまでに読んだいろんな

意見のうちで一番同感できたのは,精神科医で社会評論家の香山リカが新聞に

書いていた,およそこんな内容の記事だ。

 

いじめ事件の関係者たちは全員,それが「いじめ」であることを認めたがらない。

いじめる側も,いじめられる側も,保護者も,教師も。この精神性は人間に普遍の

ものではあるが,みんながその「見たくないもの」に目を向けることが問題解決の

第一歩となる。

 

そんなことは誰にでもわかっている?本当にそうだろうか。

 

 

かつて ―  だいたい20年くらい前くらいまでかな? ― 「教育をどうするべきか?」と

いう議論がマスコミを賑わす際には,ある種の意見がよくクローズアップされていた。

その意見とは,「子どもたちに『道徳』をもっと教えるべきだ」という主張だ。

 

今でも大人向けの本では,「国家の品格」とか「美しい国」とか,日本人が古来から

持つ徳性を復活させるべきだ,的な主張をする人たちは少なからずいる。しかし,

今日の「教育談義」の中で「道徳教育の復活」が話題になることはなく,また将来も

ないだろう。その理由は明白だ。「道徳とは何か?」という共通理解が,社会の中に

なくなりつつある(あるいは既になくなってしまった)からだろう。

 

たとえば昔の日本では,「親孝行」という言葉があった。しかし,この言葉を現在の

学校で使えるような勇気ある(あるいは愚かな)教師は日本中探してもまずほとんど

いないだろう。「うちの親は本当に孝行の対象になる価値があるのか?」という正当な

疑問(精神的な意味でなく)を持つ子は少なからずいるだろうし,そもそも学校で「親」や

「家族」について語ることは,実質的に既にタブーになっていると言っていいかもしれない。

 

 

では,問おう。 「いじめ(の解決)」とは,道徳の問題なのか?

 

 

この問いに対する答えは,人によって違うだろう。ぼくの答えは「断じてノー」だ。

 

ここまで書くのに20分ほどかかったので,ちょっと休憩してウドンを。

 

 

30分経過。ウドンを食って,休憩がてら先週買ったマンガ「空が灰色だから」(2巻)を

ちょっと読む。いろいろヤバい。気を取り直して続きを。

 

 

そこそこ知られた人が書いた社会評論的な文章の中にも,「これはちょっと…」と思う

ようなものがある。内容に賛成とか反対とかというのではなく,書き手の動機が問題だ。

自分の言っていることは一般の人から見れば風変わりに思えるかもしれないが,

世の中に一人くらいは自分のような(考え方をする)人間がいてもいい」的な言い訳を

している文章を時に見かける。ここには,「何か言いたいことがあるから文章を書く」と

いうのではなく,「人と違ったことを言って自己主張したい(人目を引きたい)」という,

まんま2ちゃんねらーの発想がある。自分はそういう文章は決して書きたくない。

この日記帳や雑記帳に書いていることは,もちろん全員が賛同することは決してないが,

自分と同じように考える人も世の中には少なからずいるはずだ」という信念がベースに

なっている。そのことは改めて言っておきたい。

 

脱線ついでももう1つ書いておくと,今日の自分の物の見方を決定付けた最大の経験は

たぶん「同和教育」だったろうと思う。我々くらいの年代で,かつ特定の地域(たとえば

広島県)で暮らしていた人にしかわからないだろうが,あの当時(1970〜80年代ごろ)

日本の一部(あるいはあちこち)で展開されていた同和教育,あるいは部落解放運動は,

それはもう筆舌に尽くし難いものだった。詳しいことはここでは書かないが,とりわけ学校

関係者の中には,この運動の「犠牲」になった人々がたくさんいる。当時ぼくは役所に

おり,決裁書類に混じって同和団体の機関紙が回覧され,読んで判を押して次の人に

回すよう取り決められていた。最初の頃は一応読んでいたが,内容はトンデモなものだった。

書き手は日本人のはずなのに,まるで日本語の文章になってない。無教養にもほどがある

だろうと思ったが,「差別されて学校へ行けなかったのだから,国語力がなくても当然だ」と

言われれば(実際に言われたわけじゃないが)納得せざるを得ない。しかし,そんな人たちが

リーダーとして運動を主導しているわけだから,まともな議論なんかできるはずがない。

そこでたいていは「あの運動(あるいはあの人たち)とはなるべくかかわらないようにしよう」

ということになるわけだが,ぼくはそうならなかった。運動にかかわったのではない。逆だ。

今の同和教育は間違っていると思う。それを誰もがわかる言葉で説明したい」と思った。

そして,自分なりのロジックを考え出し,当時の上司に連れて行ってもらった飲み屋で

こんこんと自説を述べた。上司は酔っていたこともあって「そんな難しい話はええから。

とにかく目をつけられんように。周りが迷惑するので」的な,予想通りのリアクションをした。

 

当時20代のぼくが考えた理屈は,次のようなものだ。この考え方は今でも変わっていない。

 

@「差別」には,2つの側面がある。それは「積極的な差別」と「消極的な差別」だ。

A「積極的な差別」とは,(格段の理由がないのに)自ら進んで行う差別を言う。

   ただしこれは,親や周囲から受けた「洗脳」の結果であることが多い。

B「消極的な差別」は,「自己防衛のための差別」と言い換えることができる。その典型は,

  結婚差別である。本人は結婚したいと思っても,「あの相手と結婚したら,自分の身内も

  差別のターゲットになる」と考えて結婚をキャンセルするケースがある。就職差別にも

  似た面がある。

C同和教育は,両者を混同している。積極的な差別は,同和「教育」によって是正される

   かもしれない。しかし消極的差別は「心」ではなく「社会」の問題であって,学校教育を

   通じて是正することはできない。

D実質的には学校における同和教育は「教育」ではなく「部落解放同盟の勢力拡大の

  手段」という側面が強く,現場に混乱をもたらすものでしかない。

(実際に当時学校で行われていた「差別糾弾運動」はすさまじいもので,校長室に

校長を軟禁して徹夜交渉を強要し,「確認書に校長印を押すまでは家に帰さない」

という,今なら確実に犯罪扱いされるようなことが普通に見られた)

 

一読して想像できるように,上の「差別」は「いじめ」に置き換えて考えることができる。

「積極的ないじめ」は仮に教育で是正できたとしても,「消極的ないじめ」は決して「心の問題」

ではない。前にも書いたと思うが,「学校で友だちがいじめられている。どうしたらいいか?」

と子どもに相談されたら,ぼくならまず「担任はどんな人か?」と尋ねる。信頼できそうな

人なら,周りに知られないように先生に「チクる」ように勧める。信頼できそうになければ,

その友だちにはかわいそうだが「ほっとけ」と言うだろう。「お前が味方してやれ」とは決して

言わない。それによってわが子がいじめのターゲットになったとき,親は守ってやることが

できないからだ。それで本人が登校拒否になったところで,担任が責任を取るわけでもない。

要するに「自分の身にかなりの高い確率で危険が及びそうなことはするな」ということだ。

これは社会生活の知恵であって,道徳とか正義感とかの問題ではない。心ならずも

被差別部落出身者との結婚をキャンセルする男や女,あるいはそういう人々の採用を

避けようとする地元の小企業の経営者たちも,同じ発想で行動しているにすぎない。

 

 

以上は前置き。ここからが本題だ。

 

あなたは,白人のヌードと黒人のヌードのどっちが好きですか?

日本人と中国人,日本人と韓国人のどっちが好きですか?

美人とブスのどっちが好きですか?

イケメンの公務員とデブで不細工なニートとどっちが好きですか?

 

こういう質問に対する「答え」は,人によって,また問いによって違うだろう。

Aさんは「白人でも黒人でもヌードでありさえしたらええよ」と言うかもしれない。

Bさんは「日本人でも中国人でもまじめに働いてくれたらええよ」と言うかもしれない。

Aさんは「ブスより美人の方がええに決まっとるじゃろう」と今度は言うかもしれない。

 

では,聞こう。私たちは,そうした「感情」をコントロールする必要があるのだろうか?

 

 

 

「ない」と思う。「白人のヌードの方が好きだ」「美人の方が好きだ」と思ったとしても,

その時点では何も咎められる必要はない。「なぜ好きなんだ?」と問われるなら,

「そうねえ,強いて言えば(黄色人種の)オスの本能かな?」と答えたってかまわない。

 

しかしだ。

 

「オレは白人とはお近づきになりたいが,黒人は避けたい」と喫茶店のマスターが思った

としても,それ自体は問題ない。ところがそのマスターが「黒人の入店はお断り」という

看板を店に掲げたら,それはアウトである。同じ理由で「ゲイお断り」もだめだろう。

じゃあ「下駄履きの方はお断り」とか「入れ墨の方はお断り」とかはどうなんだ?となると,

そのへんはケースバイケースの判断になってくる。店としては「ヤクザっぽい人がいると

他の客が入らない(あるいは他の客に不快感を与えかねない)」と考えてのことだろう。

つまり「消極的差別」である。「ヤクザの入店を制限できるのなら黒人の入店を制限

したっていいだろう?黒人を怖がる客もいるのだから」という理屈が通用するかどうかは

その場所の環境にもよるだろうが,今日の日本社会ではおそらく無理だろう。

 

では,これはどうか。大学生A子とB子がある会社の面接を受けに来た。A子は成績は

優秀だが顔が残念な子だ。B子は美人だが頭が悪い。会社はB子を採用した。A子は

言った。「納得いきません。私の方が仕事はできると思います。おたくの会社は顔の

よしあしで採用を決めるのですか?」− このケースでは,会社側はこう考えるだろう。

「事務の仕事は君の方ができるかもしれないが,受付に座らせるにはB子の方がいい。

美人の方がお客も喜ぶからね」(もちろんA子にはそんなことは言わない)

これも「消極的差別」の延長にあると言える。この種の判断はケースバイケースであり,

「差別する側(A)」と「差別される側(B)」との関係は,一般的には次のようにまとめる

ことができるだろう。

 

@(A)は,たいていの場合は(B)を積極的に差別しようとは考えていない。

Aしかし,(B)を差別しないことで自分に不利益が及ぶ可能性が高いと(A)が

   判断したときは,(A)は結果的に(B)を差別することがある。

Bその(A)の「消極的差別」が許容されるかどうかは,(A)が置かれたその

   ときどきの状況によって異なる。

 

上の一般論の「差別」は,そのまま「いじめ」に置き換えることができる。

 

ということは,何を意味するか?ぼくの結論はこうだ。

 

 

@あなたが誰かを「嫌いだ」と思う感情は,是正する必要はない。

 

Aその感情が相手に対する差別・いじめ(=相手の人権の侵害)

   に発展することは,基本的には許されない。

 

Bただし,その差別・いじめをしないことによって,あなた自身が

  不利益を被ることが高い確率で予想される場合は,あなたの

  差別・いじめは(場合によっては)許容されることもある。このとき,

  「許容」するのは周囲の人々でもあり,かつあなた自身でもある

  (自分を責める必要はない)。

 

 

最初に「いじめ(の解決)は心の問題ではない」と書いた。

それは@に関連している。あなたがブスより美人が好きなのと同じように,

「積極的ないじめの心」を持っている人がそれを捨て去ることはできない。

大切なのは,その「感情」を「相手の権利の侵害」という社会的なトラブルに

発展させてはいけないということだ。社会性を養うとは,そういうことである。

憲法や法律は国民の権利や義務を定めるものであり,基本的に個人の

内面にはタッチしていない。「心の中でどう思っていようと,他人の権利を

奪ってはいけない」というのが社会生活の根本原理である。

 

そして,あなたが幸いにも「積極的ないじめの心」を持っていないとしたら,

あなたはせいぜい「消極的ないじめ」への加担者にすぎないだろう。

そのことで自分を責める必要は,基本的にはない。大人も子どもも,みんな

同じようなことをやっているからだ。ただ,「リスクの見積もり」には慎重を

期すのがいいだろう。「まあ大丈夫だろう」と静観していたらいじめられて

いた子が自殺してしまい,そのことがあなた自身にとって一生のトラウマに

なるかもしれないのだから。もしあなたのクラスにいじめられている子が

いたなら,それはあなたが「危機管理」というものを考えるいいチャンスを

与えてくれるだろう。

 

最後に,あなたがいじめられている当事者だとしても,「適切な危機管理の

必要性」は変わらない。太平洋戦争では大勢の人が死んだ。当時の人々に

そんな発想は無理だっただろうが,あの戦争はわずか4年弱で決着したの

だから,どこかの山奥にでも潜んで戦争の期間だけ逃げ回っておけば,

命を落とさずに済んだ。戦争でさえそうだ。あなたがいじめられている

期間はどんなに長くても3年間なのだから,その間はとにかく逃げ回ろう。

嵐が過ぎれば,その先に必ず平穏な日常が戻ってくるだろう。

 

 

えーと… もう2時半が近いですね。今回も2時間くらいかかってしまいました。

今日はあと軽い仕事をちょっとして,夕方近くの海でも見に行きます。

 

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