日記帳(2012年9月30日)

 

 

今日の日曜日(30日)は何とか蒲刈へ釣りに行きたかったんだが…

 

9月末締め切りの原稿がぎりぎりまで残っていて,きのうの土曜日に全部上がったら

今日は釣りに行けるはずだったが,あいにく終わったのはゆうべの夜になってから。

カキを調達する時間がなかったので今日の蒲刈行きは断念。ただ,どっちみち台風が

接近中で今(日曜日の午後)も雨が降っているので,結局この週末も釣りに行けず。

仕方がないので今日の午前中は,明日締め切りの仕事を1本やってノルマ終了。

10月も大きな仕事が1本あるので,ゆっくり釣りができるのは11月以降になりそうだ。

 

最近,新聞とかを読んでいてずっと思うことがあるんだが・・・まずは野球の話から。

 

カープは結局CSには行けなかったが,まあそれなりには頑張ったと思う。

選手にも監督にも特に不満はない(もっとも今年は多忙でほとんどテレビを見てない)。

しかし,中国新聞の野球記事では相変わらず,カープの負けがこんでくるにつれて

言いがかりとしか思えないようなコメントが増えていた。詳細はここでは省くが,

たとえば「野村監督の采配が悪いから試合に負けた」とか,「選手のやる気が

感じられない」というようなコメントのことだ。それらの記事を読みながらこう思った。

 

「この記事を書いている人は,一種のエンターテイメントとしてわざとこういうことを

書いているのだろうか?それともこれが本心なのだろうか?」

 

仮に記者が本心ではなく「こういうことを書けば読者にウケるだろう」と思って

書いているのなら,本人の品性に問題があるように感じる。誰かを批判することで

「そうだそうだ」という読者の共感を得ようとする姿勢は,「いじめのメンタリティ」

そのものでしかない。一方,記者が本心からそういう批判をしているのだったら,

自分の気持ちがどこから沸いてくるのかが,自分ではわからんもんよのう」と

いう思いを強く持つ。これが,本日のお題だ。

 

カープが弱い理由は,1つしかない。個々の選手の能力が,他のチームよりも

多少劣っているからだ。数字を見れば明らかだろう。打率が.250の選手に,

.300の選手と同じ働きを求めたって無理に決まっている。ところがだ。

批判する人はえてして「チームが負けるのは,選手の能力差以外の理由が

あるはずだ」と考えたがる。なぜか?この理由は容易に想像できる。

「選手が劣っているから弱い」と考えたら,総入れ替えしない限り強くなれない

ことになり,先の(あるいは当面の)希望が見えないからだ。だから,選手の

能力の差には目をつぶって,「何かここをちょっと変えれば勝てるはずだ」と

いう安易な逃げ道に走ろうとする。要するに,

 

本当に「弱い」ものとは,批判者が現実を直視する力だ

 

ということになる。そのことが,「監督が下手だ」とか「選手に根性がない」

とかのレベルの低い批判を繰り返す記者たちにはわからないのだろうか?

本当にカープという野球チームや選手たちが好きなのだったら,彼らの実力の

不足を正直に認めた上で,「それでも頑張れ。応援しとるからな」と励まして

やればいいではないか。采配や選手のやる気を責めるのは,単なる

八つ当たりでしかない。そしてそのことは,そういう批判をする人々が,

日頃から周りの他人をどう見ているか?という,いわば本人の生き方に

直結している。想像するに,彼らは普段から,何か事件があるたびに

「犯人探し」をしたがる性癖の持ち主なのだろう。その事件がいじめであれ

殺人であれ原発事故であれ同じだ。しかし世の中で起こることの中には,

「犯人」が特定できないものも多い。たとえば病気だ。ある人が病気になるのは

(うつ病など一部を除いては)他の誰かが悪いわけなく,しいて言えば運が

悪かったのだが,それでも人は「なぜ私(やうちの子)だけがこんな目に…」

と考えようとする。それは,次の事実を示している。

 

人間は,何事にも「理由」をつけないと気がすまない

 

これはたぶん,人間という生物の本能だろう。この本能があるから人間は

合理的な思考をすることができ,科学や社会が発展してきたわけだ。

だから人間が全体として「理由探し」をすることは決して悪いことではないが,

だからといって「すべてのことには合理的な理由がある」と考える必要は

全くない。もっとも,この「合理的」というのも怪しい言葉であって,たとえば

「カープが弱いのは選手の能力が低いからだ」「いや,監督が無能だからだ」

というように,何が「合理的」であるかは人によって解釈が違う。上の例から

わかるとおり,「これが正しいはずだ」とあなたが思っているその意見は,

あなたの日頃の物の考え方や生き方を反映している。そしてそのことは,

野球を見る目以外のあらゆる事象に当てはまる。

 

たとえば「尖閣諸島の問題をどう思いますか?」と人々に尋ねたとしよう。

ある人は「自分が読んだ歴史の教科書で知っている限り,尖閣は日本の

領土だと思う」と言うかもしれない。また別の人は,「中国っちゅう国は

ロクなもんじゃないのう」と言うかもしれない。そうした各人の意見は,

本人の日頃の物の見方や生き方を反映しているに違いない。だから,

たかが(とあえて言うが)領土問題に関する議論でさえ,自分の意見に

反論されれば,人は穏やかではいられない。なぜなら,それは自分の

生き方を批判されるに等しいからだ。

 

原発ゼロ政策をどう思いますか?」という問いもしかり。

Aさんは「あんな危険なもんはない方がええに決まっとるじゃろ。電気

料金が上がる?潰れる会社が出る?そんなもん,わしの知ったことか」

と言うかもしれない。それを聞いたBさんは,こう批判するかもしれない。

「みんながそんな自分勝手なことばっかり考えとったら,社会は成り立たん。

日本の経済全体のことを考えたら,原発はやっぱり必要じゃろう」 

 

さて。この2つのどっちが「正しい」のだろうか。答えは簡単だ。

どっちも正しい。言葉を変えて言えば,特定の偏った判断基準を設定しない

限り,正しいかどうかの判定はできない。しかし仮にそうしたとしても,その

判断基準自体が偏っているので,「正しい」という言葉に実質的な意味はない。

上の議論では,一見Bさんの方がまともなことを言っているように響くかも

しれないが,必ずしもそうは言えない。たとえばBさんはこう考えている。

「日本は輸出産業で豊かになった国だから,経済を発展させるには電力の

供給が一時的にでも止まるのはまずい(というのが自分の経済理論だ)」

「自分は,今まで自分が生きてきた社会がいい社会だと思っている。だから

この社会がずっと続いてほしい」

「個人のことしか考えない人間は品性が低い。社会全体のことを考えるのが

立派な人間であって,自分はそうなりたい」

このように,Bさん自身は「原発政策」という1つのテーマについて語っている

つもりであって,実はBさんの語る内容には本人の人生観が色濃く反映して

いるわけだ。したがって,

 

議論とは,各人の人生観の戦いである

 

と言っても大きな間違いではない。そう考えれば,議論をした結果として

何かの決着がつくはずだ,と考える方がどうかしている。負けた方は自分の

人生を否定されるのだから,絶対に負けを認めるわけがないではないか。

 

最初に挙げたカープの野球記事について,こう書いた。

自分の気持ちがどこから沸いてくるのかが,自分ではわからんもんよのう

 

「監督の采配が悪い」と批判する記者のその気持ちは,どこから沸いて

くるのか?それは記者さん,あなたの日頃の生き方からだよ。

あなたが普段,まわりの人たちを,自分の会社を,また社会全体を,

どういう目で見ているかを思い返してみればいい。

彼らやそれらは,あなたにとって敵だろうか,味方だろうか。あるいは,

敵でも味方でもないという価値観をあなたは持っているだろうか。

あなたと価値観を共有する読者は,あなたの記事に共感するかもしれない。

でもぼくは,あなたの記事に共感しない。世の中の多くの出来事は理由も

なく起こり,無力なわれわれはそれを受け入れながら生きていくしかないし,

そこから逃げないのがカッコいい生き方だ,とぼくは思っているからだ。

 

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