日記帳(2013年1月13日)

 

 

きのうの土曜日は,広島で昔の仕事仲間との新年会に参加した。

午後5時から紙屋町の中華料理店で2時間ほど夕食をとり,そのあと

5人で近くのカラオケへ行って3時間歌い,お好み村でお好み焼きを食べた。

みんな同世代でそろそろ定年へのカウントダウンが始まっているが,

自分のことはともかく自分の子どもの世代のことを考えると心配は尽きない。

素人考えでは,一度金を使ったら終わりのハコモノを作るより,全国の

介護職員に最低月収で20万円くらいが行き渡るように補助金を増やす

方が,経済や社会に与える効果は大きいんじゃないかと思うが…

田舎には年寄りが多いので,産業がなくても介護施設を作れば若者の

雇用も生まれるしね。

 

今日の日曜日は広島から高速バスで昼ごろ帰って来たが,きのうの酒が

残っているので仕事場で静養。明日は祝日だが,天気予報に雪マークが

出ているので釣りはお休み。今日から「HUNTER×HUNTER」の映画が公開

だが,最初は人が多いのでしばらく経ってから見に行こうと思っている。

それにしても「ワンピース」の人気はすごい。12月の公開から3週間で50億円を

売り上げ,2012年の興行収入トップの「海猿」(約70億円)を抜くのも時間の

問題と言われている。正月に見に行ったが,それなりに面白かった。

 

 

話は変わって。大阪でクラブ顧問の体罰を受けて自殺した高校生の話を少し。

 

体罰に関しては,以前「雑記帳」の中で詳しく語ったので,興味のある人はこちらへ。

 

06/01/04  体罰について〜正しい議論のしかた〜

 

以下の話は,上の記事に書いた内容がベースになっている。

ちなみに上の記事の内容をごく簡潔に要約すれば,次の2点になる。

 

@体罰論争で最も重要なのは,「体罰とは何か」を定義づけることである。

A体罰を考える際により重要なのは,「体」ではなく「罰」の方である。

 

今日の新聞によれば,橋下市長は今回の事件について「自分の責任」と遺族に

陳謝し,涙を浮かべて次のようなことを述べたという。

 

これまで自身の高校時代のラグビー部での経験を踏まえ,「頭をはたいたり,

尻をけるぐらいは,あるものと思っていた」としていたが,ここ数日の熟慮の

結果「考え方を改めないといけない。前時代的で不要」との考えに至った

ことを説明した。(デイリースポーツから抜粋)

 

実際の記者会見をテレビで見ていないのでこの記事だけから判断すると,

橋下市長のこの態度は潔くて好感が持てるし,語っている内容も一般常識に

叶っているかのように見える。しかし,橋下氏は「体罰に対する自分の考え方」

を変えたのではなく,「自分の中での『体罰』という言葉の定義」を変えたにすぎない

ということを指摘しておかねばならない。

 

ここで1つの問題提起をしておく。

 

(A)「体罰によって自殺者が出た。だから体罰は全面禁止すべきだ」

 

この意見には,論理の飛躍がある。物事を合理的に考えるなら,正しい結論は

こうであるべきだ。

 

(B)「体罰によって自殺者が出た。だから,自殺者を生むような体罰は

全面禁止すべきだ」

 

そして,(B)は次のように言い換えることができる。

 

(B')「体罰によって自殺者が出た。しかし,自殺者を生まないような体罰は

全面禁止する必要はない」

 

橋下市長は,かつては(B')の立場を支持していただろうと想像できる。

ご本人が現在(A)の方に方向転換したというなら,以前雑記帳に書いた

質問を,ここでも繰り返さねばならない。

 

あなたの言う『体罰』って,何?

 

勝手な想像にすぎないが,次のように考えてたぶん間違いないと思う。

 

<橋下氏がかつて持っていた定義>

 体罰=多少の肉体的苦痛を伴う教育的指導

 

<現在の橋下氏が持っている定義>

 体罰=暴力

 

したがって,橋下氏の意見は次のようにパラフレーズできる。

 

かつて自分は,体罰[=多少の肉体的苦痛を伴う教育的指導]は許される

と思っていた。しかしその考えは間違っていた。今では,体罰[=暴力]は

許されないと思う。

 

「『体罰』という言葉の定義が変わったにすぎない」とは,そういうことだ。

もう少し現実的なレベルで考えてみよう。

 

たとえば橋下市長が「体罰は絶対に許さない」という強い意志を持って,

市の教育条例などに「生徒に体罰を与えた者は懲戒免職とする」といった

意味が曖昧な規定を加えた場合,現場は困り果ててしまうだろう。なぜなら,

今回のクラブ顧問のような指導者側の多くは,自分のしたことが「体罰」

だとは認識しておらず,適正な指導の一環だと思っているからだ。

したがって「体罰とは何か」をきっちり定義づけておかないと,行政側は

法の運用ができない。そして,「体罰とは何か」を定義づけることは決して

容易ではない。橋下氏自身が語っているように,「頭をはたいたり,尻を

けるぐらい」のことで指導者を懲戒免職にしたら,逆に市が訴えられるだろう。

 

話をまとめると,次のようになる。

 

「体罰はいかなる場合でも許されない」と考える人の頭の中には,「体罰=悪」

という思い込みがある。逆に「体罰はある程度許される」と考える人の頭には

「体罰=教育の一種」というポジティブなとらえ方がある。この「体罰」という

言葉から受けるイメージの違いが,体罰論争を混乱させている。したがって,

お互いが「体罰とは何か」という共通認識を持ち,制度設計の観点からは

「体罰とはこれこれこのような行動を言う」という詳細な定義づけを行うことが,

現在の橋下氏の考える「暴力的な体罰」を教育現場から排除するための

条件である。(しかし体罰の定義づけは容易ではない)

 

 

そして,ここからが今日の話の本題だ。

雑記帳にも書いたとおり,悪いのは「体への罰」ではない。体であれ心であれ,

「罰の与え方」が問題なのだ。一つの例を想像してみよう。

 

野球部の生徒Aが,練習中にふざけていた下級生Bの頬を平手打ちした。

これを暴力とみなした顧問が,「おまえは退部だ」と生徒Aに通達した。

この場合,顧問のAに対する罰は,「体罰」ではない。しかしA本人は大きな

衝撃を受けた。自分はBのためによかれと思ってやったのに…。

結果,野球という生きがいを奪われたAは首をつって自殺した。

 

このケースでは,Aが自殺した直接の原因は,顧問が彼に与えた「罰」にある。

顧問が責任を追及されるとしたら,その理由は「Aに与えた罰が厳しすぎたの

ではないか?」ということだ。今回大阪で起きた事件も,本質はこれと同じだ。

「顧問が生徒の体に傷を与えたこと」よりも,「顧問の扱いによって生徒が

心身に受けた傷が大きすぎた」ことが問題なのである。要するに「ゼロか

100か」ではなく,「30か70か」という程度の問題だと言っていい。

これは学校だけの問題ではない。一般企業ではさすがに「体罰」はまず

見られないだろうが,罰の与え方によっては悲惨な結果を生むこともある。

罰を与える側には,罰を受けた本人の「痛み」を想像する力が求められる。

 

そして,さらに視野を広げてみると,「いじめ自殺」と今回の高校生の自殺

との間の共通点も見えてくる。生徒間のいじめによって自殺した生徒と,

クラブの顧問による体罰(暴力)によって自殺した生徒との共通点は,

心身に受けたストレスが本人の許容限度を上回ったということだ。

教育行政が考えねばならないのは,この種の「ストレス自殺」を未然に

防ぐためのセーフティネットを作ることだと言える。「いじめ防止」とか

「体罰をなくす」とかは,その基本理念の個別のファクターにすぎない。

 

では,「ストレス自殺の防止策」とは何か。これを法律や条令で一律に

決めるのは難しい面がある。なぜなら,同じ扱いを受けても,それに

よってどの程度のストレスを感じるかは人によって違うからだ。現に,

今回大阪で事件を起こした顧問の「体罰」を肯定したり感謝したりして

いる生徒やOBもいるというではないか。そこには,クラブ活動であれば

顧問と部員の,いじめであれば「いじめっ子」と「いじめられっ子」や周囲

との間の人間関係が介在しており,そこで生じる「化学反応」は千差万別

である。いじったりからかったりしたりされたりする関係はどこにでもあり,

それが「ストレスを受ける側の我慢の限度を超えていないか」を想像する

力が,大人にも子どもにも必要である。しかし(今回のクラブ顧問のように)

大人でもそうした「人の痛み」に対する想像力が鈍い人は少なからずいる

 

たとえば,強力な権限を持つ「駆け込み寺」のようなものを作ったとしよう。

名称は「学校での悩み相談室」とか何とか。大阪なら市長の直轄でもいい。

いじめ・クラブ活動など学校生活全般の悩み事を中学生・高校生から受け,

相談を受けた行政側は調査チームを学校へ派遣してしかるべき指導を行う…

しかし,この「相談室」が目論見通りに機能する可能性は極めて低い。

理由は,おそらく相談件数が相談室の職員のキャパシティを超えてしまい,

本当に深刻な事案とそうでない事案との判別がつかなくなるだろうから。

 

このように,学校現場で自殺者を生むような深刻なトラブルを「制度改革」

によって防ぐことは,(努力はすべきだが)なかなか難しいように思われる。

遠回りなようだが,一人一人の意識の変化に期待するしかないだろう。

くり返すが,「体に傷をつけるかどうか」は大きな問題ではない。

ブスだのデブだのハゲだののたった一言でさえ,使う状況と相手を

間違えれば自殺者を生む可能性だってゼロではないのだから。

誰かを自殺に追い込む引き金を引くタイプの人にとって一番大切なのは,

相手の痛みを感じる力を養うことである。

 

しかし,学校に限らずどこの世界にも,「寸止め」できない人たちがいる。

そういう人たちに「そこまでやったらまずいでしょ」と助言するかどうかは,

地位や力関係ではなく各自の「良心」の問題だろう。たとえば校長や社長が

そういう「暴走癖」のあるタイプの人だったら,あなた止められる?という話だ。

それは一人一人のいわば「生き方」の問題であって,強制はできない。

今にも自殺しそうな人が自分の近くにいたら,あくまで自分にできる範囲で,

何とか助けてあげられないかと考えてみましょうね,ということだ。

 

君がいじめを見て見ぬふりをした結果,クラスメイトが自殺したとしよう。

君は「いじめを止められなかった自分」を責める必要はない。

タイムマシンに乗って過去へ戻っても,当時の君は同じ行動を繰り返すだろう。

しかし今の君は違うはずだ。今度同じような場面に遭遇したら,今度は何らかの

アクションを起こそうよ。人間はそうやって成長するのだから。

 

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