日記帳(2013年1月20日)

 

 

今週はきのうの土曜日(19日)まで東京へ出張して,あちこちの出版社へ

仕事の打ち合わせや挨拶回りに行った。東京は14日に降った雪が残って

いて,店の前に客寄せ用の雪だるまを作っている人たちもいた。

この週末はセンター試験で,この時期は雪が降って受験生が会場に行けない

ことがある。自分が受験生の時にも,雪で電車が遅れて遅刻しそうになった

ことがあった。学生服を着ていたので,タクシー待ちで長い列を作っていた

人たちが親切に順番を譲ってくれてどうにか間に合ったのを思い出す。

 

ところで,東京へ行く新幹線の中で読んだ「週刊現代」にこんな記事があった。

JRの役員が痴漢の容疑で捕まり,その日のテレビに自分の顔写真が出たのを

苦に(容疑を否認したまま)自殺したという。週刊誌の論調では「まだ裁判にも

なっていないのにテレビで顔まで映していいのか。もし冤罪だったどうするのか」

という問題提起をしていた。そのことの是非はさておき,この記事を読んで,

大阪で生徒が自殺した桜宮高校に対する橋下市長の対応のことが思い浮かんだ。

 

今日の話のキーワードは,「優先順位」と「社会的権利」だ。

 

教育委員会の結論は明日の21日に出るそうだが,現時点までの経緯で考えてみる。

橋下氏(※前回の記事では漢字を間違えていた。ゴメン)の主張は次の2点だ。

 

(A) 2013年度の体育科の入試を中止する。

(B) 春の人事異動で体育顧問の教員を総入れ替えする。

 

どちらも橋下市長に決定権はないので,「従わなければ予算を出さない」という脅しに

よって自分の主張を実現しようとしている。(それ自体の是非はここでは問わない)

 

この橋下氏の主張を「どう思うか」と尋ねられたとき,人はさまざまな答えを出すだろう。

それらの感想には,2つの種類があることを指摘しておきたい。

 

(1) 共感するか?という感想

(2) 正しいと思うか?という感想

 

橋下氏が主張する(A)(B)に対するぼくの感想は,次のとおりだ。

 

(1) 共感するか?と問われるなら,答えはノーだ。

(2) 正しいと思うか?と問われるなら,答えはやはりノーだ。

 

ここで,1つ目のキーワードである「優先順位」について考えてみたい。われわれは普段,

どんな判断をするにも,いろんな条件に優先順位をつけている。たとえば「今日の昼飯は

何にしようか」と考えるときも,自分が食べたいもの,料理の値段,カロリー計算などの

いくつかの条件を考慮に入れて,「本当はカツカレーが食べたいけど,今ダイエット中だし

給料日前だから我慢してきつねうどんで済まそう」というような判断を下す。橋下氏の

「入試を中止すべきだ」という判断も同じことだ。彼は入試を実施した場合のメリットと

デメリットを比べて(=いろんな判断材料に優先順位をつけて),「中止した方が利益が

大きい」と判断したわけだ。その判断に対して共感するかどうかは,次のように言い換える

ことができる。

 

「橋下氏の主張に共感する」とは,「いくつかの判断材料に対して橋下氏が設定した

優先順位と自分の優先順位とが一致する」ことを意味する。

 

「橋下氏の主張に共感しない」とは,「橋下氏の優先順位と自分の優先順位とが

一致しない」ことを意味する。

 

したがって,橋下氏の主張に共感しない人は,「自分が重視している判断材料を,

橋下氏は軽視している」と考えていい。そこで,体育科の入試の中止に関連する

「判断材料」にはどんなものがあるのかを考えてみると,次のようなものが思い浮かぶ。

とりあえず(A)「入試の中止」について考えてみよう。

 

<入試を実施するメリット>

@在校生(特に現在体育クラブに所属する生徒)の混乱が防げる。

A桜宮高校を志望する受験生の混乱が防げる。

 

<入試を中止するメリット>

B新たに入ってくる生徒が今回と同様の体罰を受ける可能性を防げる。

C「世間に対するけじめ」をつけることができる。

 

橋下氏自身は「体育科の来年度の教育方針が決まっていない段階で入試を実施する

ことはできない」と言っているが,これは要するに「筋が通らない」ということであり,

上のCと本質的に変わりはない。

 

上の4つの判断材料のうちで,橋下氏が最も重視したのはCだろう。

ぼくは(何度も言うが)実利主義者だから,Cは重視しない。たとえば「自殺者を出した

ばかりの学校でまたすぐにクラブ活動が再開されたら,自殺した生徒の親は複雑な

気持ちになるだろうから,親の気持ちを尊重してクラブ活動自体をしばらく自粛すべきだ」

というようなことを考える人もいるだろうが,ぼくはそれを最優先すべきだとは思わない。

自分がより重要だと考えるのは@とAだ。

 

そして,大切なのはここから先だ。

ここまでは,「橋下氏の判断に共感するかどうか」という話をしてきた。ぼくは共感しないが,

それは「橋下氏と自分の優先順位のつけ方が違う」というだけであって,どちらが

いいか悪いかの問題ではない。たとえば,次の問いを考えてみよう。

 

教師Aがクラスメイトをいじめていた生徒Bの頭を平手でたたいた。

「その程度は指導の一環として許される」という意見を思うか?

 

これに対しては,「共感する」「共感しない」のどちらの答えもあるだろうし,どちらか一方が

他方よりも「正しい」とは言えない(結果として生徒Bがけがをしたというなら別だが)。

しかし,橋下氏の「入試を中止する」という判断がもし実現するとしたら,そこには

上に赤い文字で示した「(2)正しいと思うか?」という判断があっていい。

なぜなら,入試の中止は一部の生徒の「社会的権利の侵害」という側面を持つからだ。

入試が中止されれば,「桜宮高校でクラブ活動をしたい」と考える現在の中学3年生は,

その希望を叶えることができない。これは彼らの社会的権利の侵害に当たる。

「自分はブスより美女の方が好きだ」と頭の中で思うのは個人の自由だ。しかし,企業の

人事担当者が「君は顔が不細工だから採用しない」と言ったら,それは犯罪的行為になる。

このように他人の社会的権利を制約するような判断に対しては,「正しい[適切]か

どうか」という評価を下すことが正当化される

 

ただし,沖縄の基地を見れば明らかなように,「たとえ一部の人々であっても,社会的

権利は一切侵害してはならない」という制約が必ずしもすべてに優先するわけではない。

だから,「入試中止」という判断の是非に当たっては,「一部の生徒の権利を奪ってまで,

それよりも優先すべきものとは何か?」を問わねばならない。橋下氏にとっては,それが

けじめをつける」という判断材料ではないかと思う。感傷的な言い方をすれば,「学校の

せいで生徒が一人死んだのに,今までと同じように日常が流れたのでは,死んだ本人が

浮かばれない」という感覚と言ってもいいのかもしれない。そういう感覚に「共感するか」と

問われれば多くの人はイエスと答えるかもしれないが,「入試中止が正しいか」という問い

に対しては別の思考回路を働かせる必要があると思う。歴史小説や実録歴史マンガの

中には,面子を保つために自ら切腹したり,意に反して切腹させられたりする侍が大勢

出てくる。彼らは「けじめをつける」「筋を通す」「プライドを守る」という目的を自分の命より

優先したわけで,痴漢の容疑をかけられて自殺したJRの幹部の心情もそれと同じだ。

橋下氏の入試中止の判断の根底にある「自分が最も優先するもの」も,結局はそれらと

同じようなものではないかと思う。「けじめをつけるために自分が辞職する」というのなら

誰も文句は言わないだろうが,自分の判断で迷惑する人(中学生・高校生)が出る以上,

少なくとも彼らに対する詫びを入れ,同時に彼らの権利が守られるようフォローする

方策を示すのが礼儀というものだろう。

 

次に,「クラブ顧問を全員配置転換する」という方針についても,共感も賛成もできない。

賛成しない理由は実利的なもので,現在クラブに在籍している生徒の中には,指導者を

慕って桜宮高校に入学した者もいるはずであり,通常の人事異動のルールを無視して

顧問を異動させれば生徒たちの権利が侵害される。その他いろいろな理由があるが,

この件に関しては心情的な嫌悪感の方が強い。教育委員会は橋下氏に対して,

「教育は教師と生徒が協力して行うものだ。橋下氏は教育というものがわかっていない」

という趣旨のクレームをつけた。橋下氏はそれに真っ向から反対して「あなたたちの方が

教育者失格だ」という応答をした。これについては,教育委員会の方に共感を覚える。

 

子どもは親を選んで生まれてくることはできないが,教師を選ぶことはできる(はずだ)。

今大人になっている人は,自分が学生だった頃の,自分と教師との関係を思い浮かべて

みるといい。教師は人間であり,人によって考え方も行動のしかたも違う。当然,A先生と

B先生の言うことが食い違っている,ということもよく起こる。そのとき個々の生徒は,

「自分はこの先生の言うことを信じよう」という判断を下す。それは教師と生徒との相性の

問題であり,「X君はA先生が好きだが,YさんはB先生が好きだ」というような感じになる。

逆に言えば「A氏はXくんにとってはいい先生だが,Yさんにとってはそうではない」ということだ。

この場合,学校の管理者は,XくんからA氏を奪ってはいけないし,YさんにはA氏以外の

先生の指導を受けるチャンスを与えるべきだ(クラブ活動の場合には難しいかもしれないが)。

要するに教育は,指導技術の問題というよりも,「教師と生徒との付き合い」という面が強い。

大阪市の教育委員会が言いたいのもそこだろう。新聞によれば,桜宮高校の野球部のOBは,

「高校時代の顧問の指導に感謝している」と言い,保護者も異動を取りやめてもらうよう

橋下氏に対して嘆願書を出していると言う。橋下氏は「桜宮高校では教師も生徒も親も

クラブ活動で成果を挙げることに熱中して大事なことを忘れている」という趣旨の発言を

しているが,そういう一般論と今回のような「暴行事件」との間には直接の関係はない。

前にも書いたが,お互いの信頼関係がなければ体罰を与えようが与えまいが教育の効果は

薄くなり,逆に生徒が教師を信頼していれば多少の肉体的苦痛は本人にとって問題とならない。

 

結論を言おう。もしも橋下氏が「体罰は全面的にいけない」と主張するなら,

 

「ぼくはA先生から体罰[=多少の肉体的苦痛を伴う罰]を受けてもかまわない。

なぜならA先生はぼくのためを思ってその罰を与えている,とぼくは信じているから」

 

と言う生徒X君を,橋下氏はどのように諭すのだろうか。

「君は洗脳されているのだ。実はA先生は悪い教師なのだよ」という説諭が,果たして

A君の心に届くだろうか? そしてその説諭は,教育的に見て妥当なのだろうか?

ここにこそ,体罰論争の本質があるのだよ。

 

 

日記帳の目次へ戻る