日記帳(2013年1月27日)

 

 

今日の日曜日(27日)は釣りに行きたかったが…

週の後半に風邪をひいてしまい,熱が出て全く物が食べられなくなった。

きのう1週間ぶりに体重計に乗ったら,約2キロ減っていた。

先週東京に出張したときウイルスをもらってきたのに間違いない。

ふだん一人で無菌室のような環境で仕事をしているので,大勢の人の中に

しばらくいるとすぐ風邪をひく。どんな虚弱体質なんだ。

ということで,体調が回復してないのと風邪で休んだ遅れを取り戻すため,

今日の日曜日も朝から仕事。昼前に終わったので,午後は映画にでも行く。

 

今日の仕事はもう終わったので,日記に先週の続きを。

 

やっぱりね,相手の立場に立って物を考えることが,いつも大切だと思うわけです。

そこで橋下市長の立場に立ってみると,やろうとしたことの「目的」は悪くないわけだ。

目的とはたぶん,「体罰の恐ろしさを強く世間に訴えたい」ということだと思う。

現にきのうも,駅伝では名の知られた愛知県の豊川工業で陸上部の監督が部員に

暴力を振るっていたというニュースが流れた。橋下さんが投じた一石で,これから先も

こうした実態が次から次へ明るみに出るかもしれない。その意味で,橋下発言は

結果として世の中に1つの貢献をしたことになるとは言えるだろう。

 

そのことは,田中真紀子文部科学大臣の大学認可の差し止めの事件にも言える。

隠されていた問題を明るみに出したという点では,田中・橋下両氏とも○だ。

両氏の「目的」は,本人たちの目論見通りにある程度達成された。

ただし両氏とも,目的を達成するための「手段」に問題があった,とは言える。

 

理屈っぽい(またあまり意味のない)議論をするなら,そもそも田中氏や橋下氏は

一般には「政治家」と考えられているが,本来は「行政府の長」である。文部科学省や

大阪市役所は行政機関であって,立法機関ではない。彼らの本来の仕事はルールを

具体的に執行することであって,ルールを作ったり変えたりすることではない。それは

立法府(国で言えば国会,大阪市で言えば大阪市議会)の仕事だ。だから,彼らが

現存する法律や条令その他のルールを批判するのは,野球のアンパイアが「この

野球規則は間違っている」と言うのと同じくらい,本来は筋違いだ。

 

しかし,そんなことはどうでもいい。実際に彼らは政治家とみなされており,そういう

働きを世間からも期待されている。では,世間的に言う「政治家」の仕事とは何か?

いろんな考え方があるだろうが,ぼくはこう理解している。

政治家の仕事は,「理念」を語ることにある。

(その理念を具体的に実行するのが行政[=役所]の仕事だ)

政治家は「体罰をなくそう」とか「いじめは許さない」というメッセージを世間に向けて

発信し,その理念を支えるための法律や条令を作るところまでが自分の仕事になる。

これを受けた行政(国で言えば官僚)側は,その法律や条令を運用するための細則

を定めて,現場を指導する。橋下市長のような行政の長が理念まで語ると,一人に

権力が集中しすぎるリスクもあるし,強い指導力を背景としたプラスの結果を生む

こともあるだろう。いい悪いは一概には言えない。

 

今回の桜宮高校のバスケ部顧問の体罰の問題をオーソドックスに解決する筋道は,

たぶん次のようなものだっただろう。

 

@橋下市長が「体罰は許されない」という強いメッセージを世間に向けて発する。

A橋下氏は,大阪市教育委員会(市長から独立した権限を持つ機関)に対して,

   桜宮高校に対する指導を求める。(また,必要に応じて大阪市議会に市教育

   条例の改訂などを求める)

B市教育委員会(5人の教育専門家や民間人から成る合議体)が決定を下す。

C市教育委員会事務局(市役所内の一部署)がその決定を現場に伝え指導する。

 

橋下氏がとった「手段」の問題点はAにある。「体育系学科の入試を中止すべきだ」

「教員を総入れ替えすべきだ」というのは,市長であれ一般人であれ一つの意見と

して言うのは何ら問題ではない。しかし「予算を執行しない」という脅しとセットになれば

教育委員会の独立性が失われ,市長が教育に介入するになる。それは一般には

「よくないこと」と考えられている(その理由はここで説明するまでもない)。

 

ここで,橋下氏の側に身を置いて考えてみよう。

もしも自分が「予算を執行しない」という恫喝抜きで,単なる要望を教育委員会に

伝えただけだと,どんな結果が起こるか?たぶん彼らは「生徒の混乱を防ぐ」という

名目で,現状に何も手をつけないでおくだろう。それは世間が(あるいは橋下個人が)

許さない。だから(筋違いであることは承知で)あえて強硬手段を取ったのだ。 

−− これは勝手な想像だが,たぶん大筋では間違っていないだろう。

 

ここから,個人的感想を書く。前回の日記帳で「心情的な嫌悪感が強い」と書いたが,

こればかりは自分ではコントロールできない。ぼくは橋下氏のような物の考え方をする

人が自分の性に合わない。具体的に言うと「基本的に他人を信じない」タイプの人だ。

橋下氏はたぶん「大阪市の公務員は全員信じられない」に近いことを思っているだろう。

彼らの多くは職責上は自分の部下であるにもかかわらずだ。「部下を信じない上司に

部下がついて行くはずがない」とかいう組織管理論はさておき,自分自身が基本的に

性善説を信じているので,性悪説の人とは根っこの部分が違うという感想しか持てない。

どっちがいいか悪いかということではない。生き方の違いの問題だ。

もちろん橋下氏にとっても,「信じられる人」はたくさんいるだろう。誰でも自分の中で

「信じられる人間」と「信じられない人間」とを区別しているが,問題はその割合だ。

 

うちの子らには子どもの頃から,こう言い聞かせてきた。

 

誰にでも「嫌いな人」はいる。「(知り合いの)10人のうちに1人,嫌いな人がいる」と

いうのは何も問題ない。しかし,「10人のうちの9人が嫌いだ」と思うようなら,それは

自分の方に問題がある。

 

橋下氏を見ていると,「俺は10人のうちの9人が嫌いだ」と腹で思っているように

感じられてしまうわけだ。「嫌悪感」の1つの理由はそこにある。

 

橋下氏に対して感じる嫌悪感のもう1つの理由は,政治家タイプの人に特有の「鈍感さ

にある。ただしこれは諸刃の剣であり,「鈍感だからできること」もたくさんある。政治家は

理念や夢を語るのが仕事だから,常人が「そんなの無理に決まっている」と否定するような

ことでも,(多くの場合は細かい問題点が見えないために)「いや,できるはずだ」と主張し,

結果それが実現するようなこともある。小泉政権時代に北朝鮮拉致問題の解決が進んだ

のもその例だろう。

 

橋下氏の何が「鈍感」なのかと言えば,そもそも桜宮高校の不祥事を「全体の責任」と

とらえている点だ。ぼくは全くそうは思わない。責任の大きさは個人ごとに違うはずだ。

たとえば教師の中には,こんなことを言う人もいるかもしれない。

 

バスケ部顧問の体罰のことは知っていたし,自分のクラスの生徒がけがをしたことも

あったので顧問本人に「もう少し手加減してほしい」と言ったこともある。また上司である

校長にも「今のまま体罰を続けると,そのうち大きな問題が起こるかもしれない」と進言

もした。現場の一教師である自分にできることはそれが限界だ。あとは校長の裁量の

問題なのだから,最大の責任は校長にある。

 

この教師を批判できる人がいたら,お目にかかりたいものだ。「校長が動かないなら,

もっと上の教育委員会などに進言できたはずだ」とか言う人がいたら,そういう人には

橋下市長以上の嫌悪感を覚える。口で言うのは簡単さ。実際にあんたが桜宮高校の

教師だったら,そんなことができるのかい?

 

このことは,「いじめを見て見ぬふりをしていた者も,いじめた者と同罪だ」という

見方にも当てはまる。そんなことは決してない。彼らの中には,いじめの事実を

先生に報告した子もいたはずだ。結果的に先生がいじめを黙認したのなら,

責任のすべては先生にある。「いじめを先生に報告した子」の,いじめに対する

責任はゼロである。この意見に賛同しない人には,他人に共感する力が著しく

欠けている(要するに自己中あるいは無責任な評論家)と思わざるを得ない。

 

そういう個々の人間の細やかな思いや行動に身を寄せて物を考える努力を放棄して,

すぐに「みんなが悪い」というおおざっぱな結論を出す思考回路が,ぼくは嫌いだ。

端的に言えば,そういう物の考え方が許されるのは政治家と社長だけであって,

行政マンや部長以下の社員がそんな人間ばかりだと社会や会社は成り立たない。

自分は政治家や社長(のタイプ)ではないから,橋下氏のように一刀両断で物事を

語る人を見ると,「あんな風に何でも割り切って考えられたら楽だろうな」と思うと

同時に,「自分はああいうタイプの人間でなくてよかった」とも思うわけだ。

 

ついでに,教育委員会が今週の月曜日に「入試を中止する」という決定を下した件

にも触れておきたい。これは心情的に支持できる。世間は「橋下市長の圧力に屈した

(ために悪しき前例を残した)」と言うかもしれないが,彼らはたぶんこう考えたと思う。

 

個人的には入試を行うべきだと思う。しかしここで(橋下氏の主張に逆らって)入試を

実施するという結論を下した場合,橋下氏がさらに攻撃を加えてくる可能性が高い。

その結果土壇場で入試が中止されたり,入学後の生徒たちに不利益が及んだり

することのリスクを考えると,今ここで入試中止の決定をした方が,多くの関係者

全体にとってのデメリットがより少ないと予想される。

 

教育委員会は本来は「教育」の見地からの判断を行う機関だが,この時点に及んでは

そんなことも言っていられない。より重要なのは(主に子どもにとっての)「危機管理」だ。

桜宮高校でクラブ活動をしたいという一部の生徒にとっては不利益になるかもしれない

けれど,いわば「橋下台風」の被害を最小限に食い止めるための手段として,入試の

中止を決めたというのが真相だろう。その判断を,ぼくは妥当だと思う。

 

今日書いたことの結論をまとめると,次のようになる。

 

@橋下氏も教育委員会も悪くない。

A桜宮高校の教師・生徒・保護者の全員に等しい責任があるとは思わない。

B橋下氏のような物の考え方をする人が自分は好きではない。

 

@とBをまとめると,次の2つの言い方ができる。

 

(A)橋下氏は悪くない。でも橋下氏が嫌いだ。

(B)橋下氏が嫌いだ。でも橋下氏は悪くない。

 

内容は同じだが,言葉というのはこういうちょっとした違いでも響きに大きな差が出る

ところが恐ろしい。もちろん自分の気持ちに近いのは(B)だ。なにしろ性善説だからね。

 

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