日記帳(2013年2月3日)

 

 

今日の日曜日は,朝から仕事。ゲラのチェックはたいてい週末にやる。

今回出す本は「英単語ピーナッツ」(南雲堂)。南雲堂には一番古くから世話になって

いるのでちょっと宣伝を。「連語」で英単語を覚えましょう,というタイプの本で,たとえば

an effective method(効果的な方法)とかan electronic device(電子機器)のような

2語以上から成る連語を使って複数の単語をまとめて覚える方式を,1つの殻に

2つの実が入っているピーナッツになぞらえたものだ。このタイプの本としては

「DUO」というベストセラーがあるが,英単語ピーナッツの方が出版年は古い。

今回のはそのシリーズに新たに基礎編を加えたもので,安河内哲也さんと共著だ。

1,000語句のデータはこちらで作り,安河内さんは20本のコラムを書いておられる。

このコラムがなかなか力作かつ過激な内容なので,英語学習者にはぜひお勧めしたい。

たとえば○川遼のCMで有名な○ピード○ーニングを意識して酷評した記事とか。

(これは全く同感で,あんな商品で効率的に英語の力がつくと思っている業界人は

たぶん一人もいない。しかしよく売れてはいる。宣伝効果は恐ろしい)

本の表紙には安河内さんの顔写真が出ることになっていて,南雲堂の編集者から

「先生の顔写真も並べて入れますか?」と打診されたが,「売り上げが下がるので

やめときましょう」と答えておいた。当然の判断だね。

 

きのうと今日の新聞に,スポーツ界の体罰に関するコラムとインタビューが2件

載っていた。1つは元巨人の桑田真澄氏の意見で,だいたいこういう内容だった。

 

自分は体罰を見るのも受けるのも嫌だ。アメリカの野球の指導者は,怒鳴ったり

殴ったりはしない。そんなことをしなくても指導はできる。

 

桑田氏のこの意見は至極まっとうだと思うし,共感もできる。

 

もう1つは,スポーツライターの玉木正之氏が書いた,次のような内容の記事だ。

 

今日でも(自分の経験から)体罰を容認するような意見を持つ人が相当いることが

信じられない。そういう人には想像力が欠けている。

 

もう少し正確に引用すると,たとえば次のような文面がある。

 

今回の桜宮高校バスケットボール部の事件以外にも,過去に多くの体罰による

「心の傷」や「指導死」が存在する。にもかかわらず,適度の体罰は有効,愛情

ある体罰は許される,などという声がやまないのは,なんという貧困な想像力か!

 

この記事を読んだとき,「それは違うんじゃないかなあ」という強い違和感を覚えた。

この記事から連想したのは,核廃絶論者たちの主張だ。彼らもまた,「核兵器は

絶対になくすべきだ。核を許す世界の多くの人たちは,そんな当たり前のことが

なぜわからないのか」というような論調の意見をよく口にしたり書いたりしている。

その意見にぼくは,「想像力の欠如」を見る。玉木氏の論調にも同じ傾向があり,

「想像力が欠けているのはあなたの方じゃないですか?」と言いたくなってしまう。

 

自分とは違う考え方をする人を見たとき,人はいろんな感想を持つ。

「まあ,人の考え方はそれぞれだから」と距離を置いて考える人もいる。

一方,「彼らは何と愚かなのだろう」と(ぼくに言わせれば独善的に)考える人もいる。

ぼく自身はどういう感想を持つかと言えば,「あの人たちはなぜ,ああいう考え方を

するのだろう?」を想像してみる。つまり,自分とは違う考え方を持つ人たちの

立場に自分の身を置き換えてみるわけだ。すると,どうなるか?

たいていの場合,「あの人たちの立場なら,ああいう考え方をするのは無理もない」

つまり「自分とは考え方が違うけれど,彼らの理屈はわかる」という結論に至る。

ぼくの思想が基本的に性善説であるのは,このような物の見方に由来する。

 

以上の前置きをもとに,「体罰を容認する人々」の立場に立って物を考えてみよう。

玉木氏を含む多くの人たちには,1つの誤解があると思う。

体罰容認論者は,「体罰を受けたから自分は成長した」つまり「体罰にはプラスの

教育的効果がある」と言っているのではないと思う。彼らの気持ちを的確に言葉で

表現するなら,たぶんこういうことだろう。

 

自分はあの先生の指導(愛情)によって成長できたのであり,体罰を受けたか

どうかはどうでもいいことだ。

 

このように彼らにとって,「体罰」は大きな意味を持っていない。大切なのは指導者と

自分との信頼関係であって,指導の方法が少しくらい過激でもそんなことは気にしない,

というのが,彼ら(を含む多くのスポーツマン)の「指導者観」だろう。

 

そこから導かれる結論は,「本人がどうでもいいと思う程度の体罰を問題視する必要は

ない」ということになる(ここで言う「体罰」とは,「指導者が自分の体または道具を使って,

指導される側に何らかの肉体的苦痛を与える罰」と考えておく)。

では「どうでもいいと思う程度」とそうでない程度との境界線はどこにあるのかと言えば,

それは指導する側とされる側との間にどの程度の信頼関係があるかによって違う。

現実問題として,「指導者から同じ肉体的苦痛を伴う罰を受けても,A君は平気だが

B君は耐えられない」ということはあるだろう。

 

ここで言いたいのは,「体罰を容認する人々はみんな愚かだ」という物の考え方が

本当に正しいのだろうか?ということだ。世の中には多くの指導者や選手がいる。

その中には「少しくらいの体罰はあってもいいじゃないか」と考える人も少なくない。

その現実を見たときぼくは,「彼らには彼らなりの思いがあるのだろうな」と考える。

それが,他人に対する想像力,あるいは「寛容」の心というものじゃないだろうか。

自分と意見が違う人をみな愚かだと断じるなら,行き着く先は「世の中で正しいのは

俺様一人だけだ」ということになってしまうだろう。

 

そういう考え方をベースにして,現状をどう変えればよくなるのかを考えてみたい。

実現の可能性を度外視して言うなら,根本的な解決策は,選手と指導者との関係を

「予備校方式」にすることだと思う。

 

予備校の主役は生徒であり,講師は生徒の学力を伸ばす手助けをするにすぎない。

だから講師の仕事は基本的に「生徒を励ます」ことであり,叱ることではない。

どんなに出来が悪い生徒に対しても,「お前はダメだ」と言う講師は一人もいない。

「お前はやればできるはずだ。頑張れ」と,予備校講師なら誰もが言う。

いわば「生徒は客,講師は店員」だから,力関係としては生徒の方が上になる。

日本のスポーツ界の指導者と選手との間の関係はそれと逆であり,「上から教える」

という関係になっているので,怒鳴ったり罰を与えたりすることになるわけだ。

逆に言えば,現状では選手の側に「主体性」あるいは「権利意識」がなさすぎる,と

考えることもできる。学校のクラブ活動に参加する動機は人それぞれであり,

スポーツ推薦を狙う子もいれば学校生活をエンジョイしたいだけの子もいる。

そんな連中を1つの指導の枠にはめること自体が無理なのであって,体罰が

あろうとなかろうと,自分が所属するクラブ活動の活動方針が肌に合わずに

やめていく子が山ほどいるはずだ。彼らに対する配慮も必要じゃないだろうか。

 

では,スポーツ界を「予備校方式」にするためには,具体的にどうすればいいのか?

絶対に必要なのは,「選手が指導者を自由に変えられるシステム」を作ることだ。

予備校はそういうシステムを採用しており,生徒それぞれが自分に合う先生を探す。

A先生の授業が気に入らなければB先生のクラスに変わる,という方式が当たり前だ。

したがって講師は,いかにして自分の生徒を増やせるかに工夫を凝らす。

その競争が,予備校の授業全体の質を高めることにつながっている。

スポーツの指導者も,そういう「競争」に身をさらせばいいと思う。

予備校では講師アンケート(もちろん匿名)を実施し,生徒の評判が悪い講師は

首を切られる。ダメな指導者は,そういうシステムによってある程度淘汰されるだろう。

中学や高校では,おいそれと代わりの指導者は見つからない?そんなことはない。

近年では公立の中学や高校でも,経費節減のために非常勤講師が激増している。

クラブの指導も,正規の体育教員がやる必要はない。民間人のパートでいいのなら,

やりたい人はいくらでもいるだろう。当然競争は激しくなるので指導者の質も上がる。

 

そういう「自由選択制」が実現されれば,「体罰教師」がいても全然かまわない。

その教師の指導が嫌な選手は,別の指導者の元に行けばいいのだから。

そしてそういうシステムのもとで「体罰教師」が生き残るとしたら,それは指導者と

選手との間に(体罰の有無などどうでもいいような)強い信頼関係がある証拠だ。

本人たちの自由意志でお互いが体罰を許すんだったら,それでいいんじゃないの?

 

 

おまけ。

「恋愛禁止」というルールを破って研究生に格下げされ,頭を丸めたAKB48の

メンバーについての感想。このニュースを最初に聞いたときは,ルール違反を

犯した自分への戒めとして突発的にとった行動だろうと思った。結果的に周囲に

迷惑をかける可能性があることを考慮できなかったのは,若いんだから仕方ない。

心情的には理解できるし,一方で研究生への降格も当然だろう・・・

ところが,上の娘は「みぃちゃんは悪くない。髪を丸坊主にするような酷いことを

させる雰囲気を作っている環境が悪い」と言う。就活で帰省していた下の娘も

同じようなことを言う。

いやいや,ちょっと待てお前ら。最初から「恋愛禁止」というルールを知った上で

AKBに入っとるんじゃけ,ルールを破った奴が一番悪いに決まっとろうが。

・・・と,ここまで考えて,問題はそう簡単でもないことに気づいた。

 

その後の報道では,本人が頭を丸めた動機は「どうしてもAKBに残りたい」

ということのようだ。そうなると話は違ってくる。仮に自分が責任者なら,

ルールを破ったみぃちゃんの処分には頭を悩ますだろう。

「ルール違反者には厳正な罰を下すのが当然だ」とは必ずしも言えない。

恋愛禁止というルールは,いわばマーケティングの手段であって目的ではない。

ルールどおりにみぃちゃんを処分して,結果的にAKB48という商品の価値が

下がったら本末転倒だ。責任者が考えるべきことは,今回の事件がAKBに

与えるダメージを最小にする(あるいは逆にプラスにする)方法だろう。

その結果としてみぃちゃんが研究生への降格処分を受けたのは,本人の

実力不足が理由だ。ルール違反を犯してもAKBに残すしかないという判断が

回避されたのは,「こいつが一人抜けても問題ない」と上が考えたからだ。

 

ジャンプの読者なら,富樫(呼び捨て)のことを知っているだろう。

こいつは自分の好きなときに時々連載しては,長期にわたる休みを取るという

サイクルをずっとくり返している。巷の噂では,新しいゲームが発売されると

それにのめり込むので長期間休むのだそうだ。ふざけんな,お前!

ヨメがセーラームーンだからっていい気になってんじゃねえぞ!とファンたちが

いくら怒っても,決して連載打ち切りにはならない。こんな特権を与えられている

のは,たぶん現在の日本の漫画業界の中では彼一人だ。その理由は言うまでも

ない。連載作「ハンターハンター」の人気が絶大であり,好き勝手に休みをとる

ようなルール違反を集英社が黙認せざるを得ないからだ。みぃちゃんも,富樫

くらい実力があったら,坊主になるまでもなくAKBに残れていただろう。

 

あるいは本人にしてみれば,結果がどうであれ世間にインパクトを与えることに

成功すれば,その後の仕事にも有利になるという計算があったのかもしれない。

もっと言えば,「私は追い詰められると何をするかわからない人間だ」という

メッセージを暗に伝えることによって,「厳しい処分を下したらこいつは自殺でも

しかねない」と上がビビって処分を避けることを期待した,といううがった見方も

できなくはない。芸能界で生きていくにはそれくらいの根性も必要だろう。

 

ところで,うちの娘らは「みぃちゃんがかわいそうだ」と言っていたが,その点は

男と女の感性の違いか年の違いのせいなのか,全然共感できない。

少なくともみぃちゃんは,ルールを破った責任を取るために自分の意志で髪を

切ったのだから,周囲から同情されたらむしろ不本意だろう。ある意味で潔い

行動だったとも言えるが,「AKBに残りたい」と言ったのはマイナスだった。

「頭を丸めて研究生になって一から出直します」または「責任をとって頭を丸め,

AKBを脱退します」と言えば,それが一番カッコいい身の処し方だっただろう。

 

「そもそも恋愛禁止というルールが馬鹿げている」という人もいるだろうが,

そんなことはない。よくは知らんが,AKBって握手会とかあるんでしょ?

彼氏のいる女と握手して喜ぶ奴は,よほどのお人良しだべさ。それに,

「好きな人ができたのでAKBを脱退します」ということなら,本人としても納得

できるっしょ。仕事より彼氏を取ったということで。結婚退職と一緒ですよ。

 

まあね,みぃちゃん。君もまだ若いし。どっちの道に進んでも,それに応じた

別の人生が開けるだけのことだよ。AKBなんか,長い一生のうちのほんの

短い間の居場所にすぎないんだから。

 

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