日記帳(2013年2月11日)

 

 

きのうの日曜日は,「かぶせで絶対チヌが釣れる」というポイントがあると聞き,

しまなみ海道のある波止で初めて竿を出した。実際に1回だけチヌの当たりが

あってハリに掛かったが,巻き上げ途中でハリが外れてバラシ。そういわけで

釣り日記が出せないので(次回釣れたら出す),代わりに普通の日記を。

 

今回は全然毛色の違う話。

きのう「センター試験の国語の平均点が過去最低だった」というニュースを見た。

センター試験が始まったのは1990年なので,24回中の最低ということになる。

その理由の一つは,現代文の問題に小林秀雄の文章が出題されたことだという。

小林秀雄。懐かしいが思い出したくない。高校の現国の教科書に載っていた。

当時の印象は ・・・ なんでこんな難しいモン読まにゃいけんのん?

内容はもう覚えてないが,一般人にはどうでもいいことをわざと難しい言葉で

表現したような,英語で言えば pedantic なにおいのする文章だと思った。

(ぺダンチックとは,「衒学的な」「学問の世界に閉じこもった」という意味だよ)

 

ネットでそのニュースを見たわたくしは,早速「センター試験 国語 問題」を検索した。

そして今年のセンターの第1問のPDFファイルをダウンロードして,問題を解いてみた。

引用された小林秀雄の文章は,刀の「つば」に関する随筆だ。ざっくりまとめると,

つばコレクターの本人が,つばの製造技術の変化を日本人の精神性や歴史に

からめて語る,というものだ。普通の人には全然面白くない文章だろうが,それは

テストだからまあ許される。ただ,この問題を解きながらいろんな疑問を感じた。

 

第1は,「なんで随筆なの?」ということだ。たとえばこんな問いがある。

 

問3  傍線部B「どうも知識の遊戯に過ぎまいという不安を覚える」とあるが,そこには

筆者のどのような考えがあるか。もっとも適当なものを,次の@〜Dのうちから1つ選べ。

 

(正解)D戦国武士達の日用品と仏教との関係を現代人がとらえるには,それを

観念的に理解するのではなく,説教琵琶のような,当時の生活を反映した文化に

じかに触れることで,その頃の人々の心を実感することが必要だという考え。

 

思うに,随筆(エッセイ)というのは一種の文学作品であって,受け取り方は読み手に

よって違っていいんじゃないかと思う。「筆者はどう考えているか」なんて,筆者でもない

お前(出題者)にわかるのか?というツッコミは,国語の入試問題に対しては昔からある。

たまたまセンター試験に自分の作品が引用されたのを知った作家が問題を解いてみたら

正解が出せず,「オレこんなこと考えて書いたわけじゃないよ」と言ったという逸話がある。

ぼくがこの文章を読んだとき,「どうも知識の遊戯に過ぎまいという不安を覚える」という

言葉に筆者がこめた思いは,「自分より偉そうなことを語る連中への皮肉」だと感じた。

そして,「知識を遊戯してるのはアンタも一緒だろ」と思った。

 

第2に,「なんで小林秀雄なの?」だ。これは結局,出題者が「国語力」というものをどう

定義づけているかによるのだと思う。出題者の立場から言えば,「日本語で書かれた

あらゆる文章を読んで理解する力を養う」ことが国語の勉強だということになるのだろう。

しかし,現代人に求められる国語力とは,そんなもんじゃないと思う。まず必要なのは,

論理的な思考力だ。「これこれこうだからこうなる」という論理性のある文章が理解できない

ようでは,社会に出てから困るだろう。次は,一般常識だ。たとえば新聞記事を読んで

理解できる程度の国語力は社会人にとって必要だが,高校生に新聞を読ませると

「言葉の意味はわかるけれど内容がつかめない」ということがよく起こる(はずだ)。

それは結局背景知識が足りないからであって,たとえば「競馬の収入を一時所得として

申告せずに脱税したとして国税庁に告発された人が,外れ馬券も必要経費として認める

べきだと主張している」という記事を理解するためには,世の中のいろんなシステムを

知っておく必要がある。逆に言えば,国語のテストとは論理的思考力と一般常識を測る

ことを主要な目的とすべきであり,そのためには小説や随筆などの主観的な文章を出す

べきではないと思う。文学的鑑賞力は文学者や文学オタクには必要かもしれないが,

一般人が小説を読んで登場人物の気持ちをどう解釈しようが本人の勝手だ。逆に,

客観的な情報を伝えることを主眼とした文章が読み手によって違う解釈をされるのは

よろしくない。だから国語のテストには,たとえば機械の取り扱い説明書のような文章を

出題してもいいんじゃないかと思う。

 

第3に,「なんで選択肢がこんなに複雑なの?」だ。素材とされた小林秀雄の文章自体は,

(高校生の頃とは違って)筆者が何を語りたいかを感じ取ることはできる。その意味で,

本文を読んで理解するという点ではさほどの苦労はない。一方,5つの長々とした選択肢の

中から正解を探すのは楽じゃない。実際,この問題には(漢字の問いを除いて)6つの

問いがあったが,解いた結果は○が4つ,×が2つだった。自慢じゃないが,こちとらは

毎日文章を読んだり書いたりして生計を立てているわけで,国語力は自分の仕事の一部だ。

そういう大人が解けない問題って,どうよ?今回改めて思ったが,センターの国語の問題は,

下手をすると本文よりも選択肢を理解することの方が難しい。出題者は選択肢をきちんと

理解できるかどうかで受験者の国語力を測ろうとしているのか(だったら本文はなくても

いいじゃないか)と思うくらいだ。点を取ろうと思ったら,いわゆる受験技術が必要だろう。

 

上で挙げたことは,実は英語にも当てはまる。センター試験の英語の問題は6題構成だが,

数年前までは第6問に「物語文」が出題されていた。これがもう陳腐きわまるシロモノで,

今どき小学生向けのフィクションでももうちょっとましな内容だろうと言いたくなったものだ。

なぜそんな文章が出題されていたかは容易に想像できる。英語の学者の世界の多数派は

「英文学者」によって占められている。彼らの専門は文学だ。センター試験が英語力を問う

ものだとしたら,少なくとも日本では「文学」というファクターを外すわけにはいかない。

(しかし本場の文学では難しすぎるので,どこぞのネイティブに頼んで短いストーリーを

易しい単語で書いてもらったが,語数の制約があるために取ってつけたような話になった)

国語のセンター試験で小林秀雄や源氏物語が出題されるのも,たぶん同じ理由だろう。

橋下市長は「日本の英語教育は間違っていた」と言ったが,間違っていたのは英語教育

だけじゃないわけだ。誰のためにテストを作っているのかを,作り手はよく考えないとね。

 

 

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