日記帳(2013年3月20日)

 

 

今日は祝日だが,車がないのでどこへも行けず。

10年くらい前にオヤジからもらったコロナを車検に出したら,中の部品がかなり

傷んでいて結局廃車にすることに(製造年はたぶん20年くらい前)。代わりに

88歳のオヤジが7年前から乗っている軽自動車を譲ってもらうことになった。

オヤジの方は新しいのを買うという。ずいぶんな年だが頭はボケてないので

車の運転も当分大丈夫だろう。その新車の納品が4月末頃になる予定で,

オヤジは毎日今の車を運転しているため,それをもらうのは来月末になる。

コロナの方はもう車検切れで乗れない。あと1か月くらいは代車を借りて乗る

ことになる(なのでオフ会も代車で行くことになる)が,代車の任意保険に入る

手続きがまだ済んでいないので,しばらくは足がない。仕方がないので今日も

仕事をしている。

 

今日のスポーツ新聞には,2日前にアメリカで負けたWBC日本代表の帰国の

ニュースが一面に載っている。敗戦の直後から,テレビやネットで山本監督の

采配への批判が続出していた。きのうのスポーツ新聞には「勝てた試合を

落としたのは監督の責任だ」とまで書いてあった。これについての感想を少々。

(野球に興味のない人にはゴメン)

 

場面は準決勝のプエルトリコ戦の8回,日本の攻撃。

1−3の2点ビハインドで,一死一,二塁となった。走者は井端・内川。

打者は四番の阿部。ベンチのサインは「ダブルスチール。行けたら行け」だった。

二塁走者の井端はいったんスタートしたが無理と判断して二塁へ戻った。

その動きにつられた一塁走者の内川が二塁へ走ってしまい,手前でタッチアウト。

この作戦が「采配ミス」と言えるかどうか。

 

この場面で,ベンチの選択肢は5つあった。

 

@何もサインを出さない。

A「走るな」というサインを出す。(阿部の打撃に賭ける)

B何球目かで「走れ」というサインを出す。

C「走れたら走れ」と指示する。

D俊足の選手を代走に送り,盗塁のサインを出す。

 

山本監督はCの作戦をとったが,他の4つだとどうなっていたかを考えてみる。

まず@は,実質的にCと変わらない。相手投手のモーションが大きいことは

試合前のミーティングで確認しており,サインがあろうとなかろうと選手は

「走れたら走る」という考えで臨んでいた。

Aは,この日の阿部がチャンスでことごとく凡退していたのを見れば,Cの方が

ベターだろう。Bは相手バッテリーの配球を読んだ上で(たとえば変化球が来る

可能性が高いなどの)走りやすい状況のときにサインを出す作戦だが,初めて

対戦するデータの少ない相手に対してそれを求めるのは酷だろう。Dについては

今回の代表には代走要員は選ばれておらず(そこがミスと言えばミスだが)

この場面で二人に代えて出せる適当な選手はいなかった。仮に二人に代走を

送って一死二・三塁になり,結果的にここで2点入ってもまだ同点だ。

井端・内川は今大会で一番打撃好調であり,次の打席を考えると外せない。

いろんな条件を考え合わせると,山本監督が「作戦に悔いはない」と言ったのは

理解できる。

 

 

しかし世間の一部の人々は,そういうふうにはとらえない。

彼らは「戦犯は誰か」を問おうとする。そして彼らの批判の矛先は,しばしば

選手以外の方に向く。前にも書いたが,「選手の実力が足りないから負けた」

では当たり前すぎて面白くないからだ。だから監督の采配とか,選手の選択とか,

人事管理とか,スポーツの本質とあまり関係のないことを論じたがる。

世の中のすべての出来事の背後にはある種の力(たとえばフリーメーソン)が

働いているという,いわゆる陰謀史観と根っこは同じだ。個人がそういうことを

言うのは勝手だが,マスコミがそれと同じレベルで物を考えるのはどうだろうか。

 

野球に限ったことではない。安倍政権は原発の復活に舵を切ったが,その背後に

「日本を陰で操り私腹を肥やしている人々がいる」という見方をする人がいる。

それとは違うが,たとえばわが家で講読している中国新聞の社説などは,

「原発は廃止すべきだというのが国民の総意であり,政府はそれに逆行しては

いけない」という論調になっている。しかしその「民意」のとらえ方は本当に正しいのか?

アンケート調査の結果を見れば確かに「原発はない方がいい」と考える人が多い。

自分も問われればそう答えるが,それは「原発がなくても当面自分は困らない」と

いう極めて浅はかな理由がベースになっている。沖縄の基地もしかり。ある人は

「基地なんてなくていい」と言い,また別の人の「基地は沖縄から移転すべきだ

(でも自分の住む場所以外にね)」と言う。それらの意見の大半は,物を深く考えた

末に出て来たものではたぶんない。新聞にそういう「大衆の空気」のようなものを

代弁する機能があることは否定しないが,一歩間違えれば単なるポピュリズムに

陥り,思考を停止した無知な市民を再生産するのに加担することになりかねない。

 

最近巷では「人がばたばた死んでいく」タイプの小説や映画や漫画が流行している。

たとえば「悪の教典」や,去年の漫画アンケートで1位になった「テラフォーマーズ」など。

ああいう話は好きになれない。人が死ぬ場面を見せるというのは究極の刺激であり,

その刺激を果てしなく与え続けることでしか作品の魅力を維持できないというのは,

製作者の創造力の貧困さを物語るものでしかないと思う。要するに「楽をして読者や

観客の支持を得たい」という怠け者の発想だ。

 

新聞記事も同じだ。読者が喜びそうなことを書けばいいというのなら,誰か一人を

スケープゴートにして叩くのが一番手っ取り早い。WBCなら山本監督だ。それは,

ただのイジメでしかない。マスコミは,自分たちが無意識のうちに「誰かを

いじめると気持ちがよくなる」という歪んだメンタリティを国民に植え付けて

いる面があることを自覚してもらいたい

 

WBCの結果に関する新聞記事を読んだ感想,おしまい。

 

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