日記帳(2013年5月26日)

 

 

先週アップした雑記帳の記事(橋下大阪市長の従軍慰安婦発言)を

上の娘(うちの会社の社員,実態はフリーター)に読ませてみたところ,

「事実の説明だけで,自分の意見が書いてない」と言われた。

そういう誤解を受けたかもしれないので,ここで改めて言っておく。

「橋下氏の発言についてどう思うか?」と問われるなら,どこにも問題が

あるとは思わない。つまり許容範囲内だ。また,「橋下発言に対する

世間の評価や批判をどう思うか?」と問われるなら,こう答えよう。

 

人間は生きているだけで価値があるが,植物人間になってまで生きたい

とは思わない。つまり自分にとって「命」とは,「物を考える力を保ち続ける

こと」だと言っていい。世間のいろんな人が橋下氏の発言を取り上げ,

自分なりにまじめに考えた感想を口々に発する。生きるとは物を考えると

いう営みの積み重ねであることを思うとき,人々が自分の思いをそれぞれに

語っているという事実そのものをリスペクトしたい

私の意見とあなたの意見が,同じであろうと違っていようとかまわない。

人は思考し,言葉を紡ぎ出す。それが人の生きる意味だ。

他人の心を傷つけない範囲で,みんな自分の思うことを語ればいいのだ。

 

というわけで,人が言ったり書いたりしたことに触れたとき,その背景に

「悪意」が感じられない限り,基本的に許していいんじゃないかと思うわけです。

悪意とは何かと言えば,「理由があって他者を非難するのではなく,

他者を非難することが自己目的化したような心理」というようなものです。

たとえば,2ちゃんねるでよく見られるコメントの背景にある思想ですね。

今回の橋下発言には,少なくとも本人の悪意は感じられません。

 

もちろん,悪意がなければ何を言ってもいいというわけではない。

たとえば事実と違うことを,あたかも真実であるかのように言ったらだめだ。

また結果的に特定の人の心を傷つけた場合も,一般に非難されるだろう。

その点で橋下発言を批判する人々の気持ちもよくわかる。

 

韓国の新聞に「原爆は神の懲罰だ」という趣旨の社説が載って,あれは執筆者の

個人的意見にすぎないと政府関係者が弁明したというニュースがあった。

これも「被爆者の心を傷つけた」と言う点では非難を受けて当然だが,本人に

悪意があったかどうかはニュースの文面だけではわからない。たとえば「神」と

いうものの捉え方が,無心論者である多くの日本人とキリスト教徒の欧米人とでは

全然違う。この記事を書いた韓国の記者が「神」をどうとらえているかによっても,

自分の中でのこの記事の「許容度」は違ってくる。

 

 

で,話はまたしても,中国新聞のスポーツ欄の「球炎」というコラムに飛ぶ。

このコラムは3人の執筆者が分担しているようだが,その中の1人・K氏が

毎回書いていることに,ぼくは「悪意」を感じてしまう。彼の頭の中では

監督の采配を批判することが目的となっており,記事がそのストーリーに

合うように,(おそらく本人は気づいていないだろうが)事実を捻じ曲げて

解釈する習性が身に付いているように思われる。検察が冤罪を生む構図

と同じだ。あるいは2ちゃんねるの住人が実名を出して新聞紙上で暴れて

いるようなものだ。一部に熱狂的なファンがいるのも当然だろう。

 

以下は,5月20日の「球炎」に載ったK氏の記事だ。

この試合で,カープは 0−7 でロッテに大敗している。

 

「捕手・会沢」 選択に過ち

 

野球には「点取りゲーム」と「アウト取りゲーム」の側面がある。
今夜の広島が志向したのは前者。「勝つために点を取りたい」

との思いが空回りし,自滅した。もったいない負け方である。
 いつもながら,手の込んだ先発オーダーだった。ニックは

3番DH。右腕が相手とあって,中東,岩本,ルイス,安部の

左打者ももれなく起用した。「点を取る」という目的のみに

おいては,ベストな布陣だったのだろう。しかし,一つ重大な

過ちを犯してしまっていた。「8番キャッチャー会沢」である。
 攻撃的にいくことを間違いとはいわない。だが,「アウト取り

ゲーム」の側面を完全に無視するのは明らかなミスである。

先発中村恭は過去4試合,倉とのコンビで試合をつくってきた。

経験の少ない左腕だ。倉が支えていた部分は少なくないだろう。

今季初の先発マスクの会沢に倉の代役が果たせたのか。

投手と捕手の関係性を軽く考えているとしか言いようがない。
 ロッテは投手の右左に関係なく固定メンバー。それは、守り

から野球を考えているからにほかならない。広島も学ぶべき

点がありはしないか。中日の落合前監督はこう言っていた。

「負けない努力が勝ちにつながる」

カープが好きな人の中には「どこもおかしくないじゃない?」と思う

人もいるかもしれないが,ぼくはそうは思わない。

先発の中村投手は2軍経験が長く,1軍での実績はほとんどない

(今年先発で初勝利を挙げた)。会沢捕手も2軍暮らしの方が長く,

2軍では正捕手だ。つまり彼らは,2軍ではしょっちゅうバッテリーを

組んでいる。コンビの経験の回数と長さでは,おそらく「中村−倉」

よりも「中村−会沢」の方が何倍も多いだろう。だから,野村監督が

「投手と捕手の関係性を軽く考えている」というK氏の解釈は誤りだ。

 

ただ,ここで言いたいのはそういう事実認識の問題ではない。

このK氏の記事を読むたびに思うことだが,この人は野球という

スポーツを,人間がやるものではなくコンピュータの野球ゲームの

ような目で見ているような気がする。そこには,実際に野球をしている

選手や監督,コーチらの気持ちに寄り添うという姿勢が全く感じられない。

上の記事の見出しをもう一度出しておく。

 

「捕手・会沢」 選択に過ち

 

この見出しからは,野村監督と会沢捕手に対する非難の響きが感じられる。

一方で上の記事は,実際に打たれた中村投手のことは悪く言っていない。

むしろ「捕手がちゃんとしていれば好投できたはずだ」とでも言いたげだ。

 

では,これを読んでいる皆さんに尋ねよう。

 

野村監督・会沢捕手・中村投手の3人が上の記事を読んだとき,精神的に

最も大きなダメージを受けるのは誰だろうか?

 

 

答えは,中村投手だ。もちろん仮定の話にすぎないが,蓋然性は高い。

野村監督や会沢捕手は,「自分はプロなのだから,結果が出なければ非難

されるのは仕方がない」と考えるだろう。では,非難の対象になっていない

中村投手はどう感じるだろうか?

 

実はこの試合,彼の出来は最悪だった。コントロールも悪く球速も出ない。

同日の別のスポーツ新聞の解説者のコラムでは,「あの投球内容では,

会沢のリードがどうのこうのというレベルの話ではない」と書いていた。

おそらくこちらの説明の方が事実に合っているだろう。

 

中村投手がもし上の記事を読んだら,こう思ったはずだ。

 

「野村監督も会沢さんも悪くない。悪いのは打たれた自分のはずなのに,

自分の実力不足のせいで2人が悪者扱いされることには耐えられない」

 

普通の人間は,自分が責められることよりも,自分のせいでまわりの人に

迷惑をかけることの方がつらく感じる。K氏はいつものように気軽に監督を

批判したつもりかもしれないが,結果として中村投手の心に不当な傷を

負わせた可能性がある。

 

「考えすぎじゃないの?」と人は言うかもしれないね。

でも私はK氏のコラムを読むたびに,「他人の心の痛みに対する感受性が

鈍い人だなあ」という感想を持ってしまうのですよ。

 

 

ついでに,変なこだわりの話をもう1つ。

 

これも中国新聞の「天風録」に,過日こんな内容のエッセイが載った。

(ちなみに天風録には悪い印象はない。書き手たちの博識には敬服する)

 

97歳まで生きたある詩人の記念館を訪れた記者が,詩人の「五訓」を見つける。

内容は

クヨクヨするな

フラフラするな

グラグラするな

ボヤボヤするな

ペコペコするな

記者は「変わらぬ至言だろう。刷り込んだ絵はがきを迷わず買い求めた」と書いている。

 

そうか?これ,至言か?

 

ぼくはこれを一読して,「なんかプライドの高そうな人だなあ」と思った。

「クヨクヨするな」は問題ない。しかしあとの4つは,自分が言われたら「大きなお世話だ」

と反論したくなってしまう。人間はフラフラしたりボヤボヤしたりペコペコしたりする方が

普通だと思う。詩人なのに,この人も他人の心に寄り添う気持ちが薄いなあ…と思った。

ちなみにこのコラムの後半には,タレントのコロッケの自伝で出てくるこんな言葉も

紹介されている。熊本の貧しい家庭で育った彼が母親から聞いた言葉だ。

 

あせるな,おこるな,いばるな,くさるな,まけるな

 

これは,すんなり受け入れることができる。母親の方が男より偉い。

 

で,自分だったら子どもにこう教える,という五訓を作ってみた。

 

自分で考えなさい

自分を愛しなさい

他人を許しなさい

責任感を持ちなさい

自由でありなさい

 

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