日記帳(2013年8月11日)

 

 

9日(金)に300ページの原稿が1本アップしたので,この週末は久しぶりにゆっくりできる。

汗をだらだらかいて夜ビールを飲むべく,きのう2週間ぶりに大越港へ行った。午前10時ごろ

現地でカニを調達して落とし込み釣りをやってみたが,汗がポタポタ落ちて眼鏡が曇る。

辛抱できず1時間ちょっとでギブアップ。フグのエサ取りが多かった。チヌの姿は見えるのに。

自宅へ戻ってシャワーを浴び,午後は映画「少年H」を見て来た。だいたい予想したとおりの

内容だったが,まずまず面白かった。

 

先週は「終戦のエンペラー」を見た。

以下ネタバレを含むので,これから映画を見ようと思っている人はスルーしてください。

この映画はある程度史実に基づいていると思うので,映画に出て来たエピソードが事実だと

すると,ちょっと意外なことを知った。今まで知らんかったのが無知なのかもしれないが。

「右翼」と言うと「天皇陛下バンザイ」みたいなイメージが世間的にあるじゃないですか。

いい悪いは別にして,今でも右翼的な人は「天皇が一番偉い」と思ってる,みたいな。

ところがだ。映画「終戦のエンペラー」の中で昭和天皇の側近が語った内容によれば,

ポツダム宣言を受け入れるかどうかの御前会議の席で天皇は,自分の責任で敗戦を

受け入れる,みたいなことを言った。これに反対した陸軍は,玉音放送のテープを奪い,

さらには天皇の殺害まで企てて皇居に突入するというクーデターを起こしたのだそうだ。

どうにかテープは守られたそうだが,おまえら何やっとんじゃ!と言わざるを得ない。

この行動によって,少なくともクーデターを起こした軍人たちは,それまで天皇陛下の

ために戦ってきたのではなかったと自ら証明したことになる。では,何のために?

推測の域を出ないが,それはたぶん「敵に勝つため」だろう。敵に勝つことがどういう

意味を持つのかは彼らの頭にはなく,ただ勝つことが自己目的化していたのだと思う。

これと同じようなことは,現代の政治やビジネスでもよく見られる。当事者たちの思いは,

もしかしたら戦時中の軍人たちと大差ないのかもしれない。いずれにしても,現代の

「右翼の末裔」のような人たちは,自分の先輩に当たる陸軍の軍人たちが終戦時に

天皇の殺害まで考えていたという事実を知っていただろうか。この映画は見る者に

そういう情報を伝えているが,それがもし史実と違うというのなら,右翼主義者たちは

この映画の製作者に猛抗議すべきだろう。自分らの先輩を侮辱されたのだから。

「いや,あれは一部の狂信者がやったことであって,本当の右翼思想ではない」ともし

言うなら,「右翼思想の中にそういう狂信者を生む土壌があったんじゃないですか?」

という疑問に答えなければならないだろう。

 

それと関連して,近づく終戦記念日に当たり,これからの日本と戦争のことを少し。

「戦争はない方がいい」というマクロの価値観は,日本人に限らず世界中のほとんど

すべての人が共有している。しかし現実の戦争のリスクとどう折り合いをつけて

いくかについては,いろんな意見がある。たとえば護憲派も改憲派も,日本が積極的に

他国に戦争を仕掛けるべきではないという点では一致しているが,「他国から戦争を

仕掛けられたらどうすべきか」の判断に違いがある。言い換えれば,「日本の

自衛隊(あるいは国防軍)が,自衛の一環として外国での戦争に加わるべきか

という点が問題だろう。これに賛成する人の多くは,たぶん「国際的な責任を果たす

べきだ」あるいは「いつまでもアメリカの軍事力に頼っていてはいけない」と考える。

一方,反対する人は「結果的に日本が本格的な戦争に巻き込まれるリスクが増える」

あるいは「外国での戦争に加わることで日本人の中に犠牲者が出たら,私たちは

先の戦争と同じ過ちを犯すことになる」と考えるかもしれない。

そうしたいろんな人のいろんな思いに優劣をつけることはできない。

 

個人的な感想を言えば,前にも書いたが,日本は今までどおり国家の安全保障を

アメリカの軍事力に頼る関係を維持するのがベストだと思う。主な理由は2つある。

第1に,他の国々,とりわけアジア諸国に無用な刺激を与えなくて済む。

安陪さんはじいちゃん(岸信介)の夢を孫の自分が実現するために「アメリカに

頼らない自主的な防衛力」を獲得したいと思っているだろうが,日本がもしそういう

路線に舵を切ったら,中国や北朝鮮が黙っていない。東アジアの軍事的緊張は

飛躍的に高まり,今よりずっと戦争の危険が増すだろう。

第2に,庶民感覚的にはこっちの方が重要だが,今の体制下でアメリカは日本と

いう国を外敵の侵略から守ってくれているが,実はもう1つの役割を果たしている。

それは,日本国民を国内の「右翼」から守ってくれていることだ。

右翼思想を持つ人々は,おそらく日本が軍隊を持つことを最終的な目標にしている。

彼らの勢力が増して万一日本がアメリカの軍事力を頼らないという路線に走れば,

行き着く先は徴兵制の復活だ。そうなったら迷惑するのは一般庶民である。

しかしそんなことが起こる可能性は万に一つもない。アメリカがそれを許さないから。

アメリカは軍事的に日本の首根っこを押さえているからこそ,常に日本に対して

「上から目線」を保っていられる。だから日本が軍隊を持つことなど絶対に認めない。

日本のリーダーたちはそういう「主従関係」を破棄してアメリカと対等になりたいと

願っているだろうが,われわれ庶民は日本国が米国の友人であろうと奴隷であろうと

自分らの日々の暮らしが安定しさえすればいい。今さら徴兵なんかまっぴらごめんだ。

そう考えると日米安保体制は,日本を戦争から守ってくれているだけではなく,

日本人を徴兵制から守ってくれているという面もある。「安保体制+憲法9条の維持」

が国民にもたらすメリットを,護憲派はこのように世間にアピールしてはどうだろうか。

(もちろんジョークだよ。護憲派は安保体制も認めないユートピア主義者たちだからね)

 

話のついでにもう1つ。この時期は中国新聞の記事は毎年「原爆」一色になる。

8月7日の朝刊には,確か「核兵器は絶対悪」という大きな活字の見出しが載っていた。

この種の記事を見ていつも思うことを,前にも書いたけれどもう一度書いておきたい。

広島市長や中国新聞が「絶対悪」という言葉を使うことは許される。

彼らは「被爆の当事者」にほとんど等しい存在だと世間的に認知されているからだ。

当事者は何を言っても許される。たとえば中国新聞に「オバマ大統領は広島に来て,

自国が原爆を落としたことを謝罪すべきだ」という社説がもし載ったとしても,世間は

それを許すだろう(しかし同じ社説がアメリカの新聞に載ったらそうはいかない)。

逆に言うと,当事者でない人々は「絶対」という言葉を軽軽しく使ってはならない

これはいわば社会のルールであり,どんなに強調してもしすぎではない。

「核兵器は絶対悪」という言葉を一般的真実として認めてしまうと,必然的に

「核兵器を否定しない人々は絶対的な悪者だ」ということになってしまう。

その結論がもし妥当でないとしたら,「核兵器は絶対悪」という前提自体が誤りだと

いうことだ。

一方,こういう主張をする人もいるだろう。「核兵器が絶対悪であることは確かだ。

しかし世界の多くの人は被爆者の実情をよく知らないから,それを実感できないのだ」。

その人々は,自分の考え方の危険性,あるいは幼稚さを自覚できていない。

核兵器を他のものに置き換えて考えればすぐにわかることだ。

たとえば「原発は絶対悪だ」ならどうだろう。

こんな主張をする人は,まともな大人からは相手にされない。

「そうだそうだ」と深く考えずに賛成する大人も大勢いるかもしれないが,世の中が

そういう人々ばかりではないことは先日の参議院選挙の結果からも明らかだ。

要するに,世の中に「絶対」という言葉で形容できるものはほとんどない。

社会的・精神的に大人になるということは,物を深く考えることができるようになる

ことを意味する。物を深く考えれば考えるほど,「絶対」という言葉は使えなくなる。

自らを被爆の当事者の一部であると規定しているであろう中国新聞が「絶対悪」と

いう言葉を使うのはかまわないが,自分たちはそれによって一般市民を「洗脳」

しようとしている面があることを,記者たちは自覚しておいてもらいたい。

 

堅い話ばかりだと何なので,カープの話題でも。

中国新聞のコラム「球炎」の小西という記者のことは今まで何度も書いたが,

最近は「今日はどんな茶番が書いてあるか」と楽しみにしている面もある。

ホラー映画みたいなもんだ。新聞社の狙いもそこにあるのかもしれないが。

きのう(10日)はこんな内容だった。前日の試合でカープは4−1から7・8回に

4点を取られて逆転され,巨人に4−5で負けている。

 

とんだ茶番である。相手投手の自滅により4点も頂戴しながら,追い上げられ
始めると,途端にバタバタ。八回の逆転劇など,怒りを通り越し,笑ってしまう

ほどのひどさ。詳しくはサイド記事を読んでいただきたい。
  中でも,最高の茶番は八回の野村監督の選手交代であったろう。遊撃小窪に

代えて木村。一塁キラに代えて岩本。首位巨人を相手に、これで守備囲めを完了

してしまったところが脇の甘さだ。失策数が両リーグ最多の三塁堂林はなぜか

そのまま。結局、この判断から野村の7勝目は吹っ飛んだわけである。
   罪深いのは,これは確信犯だからである。堂林は三回にも失策を犯している。
逆に小窪は一回,長野の打球をタイピングキャッチし,巨人の先制点を防いだ。
1点差で逃げ切るために、誰が三塁に入るべきか。指揮官が分からないはずは

なかろう。冷静なリスク判断を阻んだのは,「堂林を育てる」という信念か。だが,

その信念がチームの勝利よりも優先されていいわけはない。堂林に経験を

積ませることと,クライマックスシリーズに進出すること。今季も,この二兎を

追って失敗するのか。同じ過ちを許すわけにはいかない。

知らない人が読んだら「まともなことが書いてあるじゃん」と思うかもなあ。

しかし野村監督や守備コーチがこの記事を読んだら,「この人,何言うとんの?」

と苦笑いするだろう。カープファンの君ならわかるよな?

 

堂林を小窪に代えたら守備固めになる?アホか。

小窪の守備が下手なことくらい,カープファンなら誰でも知っている。

それは数字も証明している。

今季の小窪の三塁手としての守備率(ウエスタンリーグ)は,15試合で .933。

1軍では6試合しか守っていないが1失策を犯し,.833だ。

一方の堂林は1軍で96試合守って .932。つまり小窪とほとんど同じである。

堂林を木村に代えるならわかるが,小窪に代えても守備固めにはならない。

一方小窪は1軍でショートとして2試合に出場し,少し前の試合でエラーをして

守備率は .833。守備固めの木村を小窪の代わりに使ったのは正しい判断だ。

 

罪深いのは(笑),上のコラム記事が「確信犯」だからである。

この小西という人は(この人に限ったことじゃないが)カープの負けの原因を

すべて「監督の判断ミス」に帰着させようとする。最初からそういうストーリー

しか頭に描いていないから,事実をねじ曲げて解釈する思考回路が身に

ついてしまっている。コラムニストの「芸」だと割り切って楽しめばいいんだ

ろうが,前から思っていることをここに書いておきたい。

 

日本のスポーツ指導者は,精神力の重要性を必要以上に強調しがちだ。

それはたぶん,もともとスポーツ(武道)の指導が軍隊の教練をベースに

しており,指導者の間に軍隊式の鍛え方が連綿と受け継がれているから

だろう。その事実が,スポーツの世界で体罰が今でも容認されていることの

大きな理由になっている。言い換えれば,あらゆることを『心』の問題に帰着

させようとする発想は,体罰の温床となる。つまり上のコラムニストの記事は,

日本のスポーツ界に蔓延する「体罰肯定主義」を映し出す鏡のようなものだ。

監督を批判することでストレスを発散できるならそれでいいじゃないか,と

笑って済ませていられる問題ではないのだ。

 

 

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