日記帳(2013年8月25日)

 

 

きのうの金曜日(23日)に仕事が1本片付いたので,この週末は釣りに行けるくらいの

時間はあった。しかし土曜も日曜もあいにく朝から大雨。うまいこといかん。

 

夏もそろそろ終わりかけていると思うが,今年の夏も結局仕事に明け暮れた。

途中,2日ほど熱を出して寝込んだ。1日中クーラーの中で仕事をしているので,

時々体温調節がうまくいかなくなる。確か去年の夏も熱が出た。

新陳代謝の機能が衰えないようにたまには汗をだらだら流すくらいのことをする

方がいいとは思うが,なかなかチャンスがない。

 

うちのじいちゃんは,今年の夏は災難だった。熱中症のほかに,車の事故にもあった。

ハローズ松永店の駐車場に車を止めて,買い物をして出て来てみたら,車の左前部が

ぐしゃっと潰れていたという。状況から考えて,隣に駐車しようとした人(たぶん運転の

下手なオバサンだろう)がバックでの車庫入れに失敗してぶつけてしまい,そのまま

逃げたのだろう。結局,バンパーごと取り替えて6万円かかった。こういう事故にあうと

車両保険に入っときゃえかった…と思うが,実際はそこまで普通は考えない。

逃げた奴が悪いのは確かだが,まあ不運と思って諦めるしかない。

 

最近のニュースから1つ。

松江市の市教委が小中学校の図書館での「はだしのゲン」の閲覧を禁止する通達を

出したという話。連日新聞の報道を読んでいたが,複数の要素が錯綜しているような

感じで,当事者同士で「こだわる部分」が違うのが混乱の原因だろうとは思っていた。

24日(土)の中国新聞の記事を読んで,ようやくこの件の全容をつかむことができた。

この記事は中国新聞社が当時の松江市教委の事務局責任者だった福島律子・前

教育長(67)に対して行ったインタビューで,ここに書かれていることが真実だろう。

内容はだいたい次のようにまとめることができる。

 

@昨年の4〜5月ごろ,市内の男性が,作中の日本兵の残虐行為の描写を「事実

ではない」と主張して,学校図書館からの撤去を市教委にくり返し求めてきた。

(そのやりとりを録画され,インターネットで公開された)

A担当課は「撤去は指示しない」と突っぱねたが,同年8月に同じ男性が市議会に

撤去を求める陳情を提出した。市議会は陳情を不採択とした。

B市教委では市議会が取り上げたことを受けて「ゲン」を入手して読んでみたところ,

後半に兵士が女性をレイプする場面が出てきた。それに関して子どもへの配慮が

必要だと思い,教育長の権限の範囲内と考え(教育委員会議に諮らず)現場に

「お願い」した。強制の意図はなかったが,実質的に強制と受け止められた。

C結果的に,歴史認識を問題にした陳情者の考えに賛同したと受け止められた

かもしれない。

 

以上の内容が事実だという前提で,改めて今回の「混乱」を考えてみたい。

 

(1)今回の問題のキーワードは「歴史認識」「原爆」「レイプシーン」という3つである。

問題の発端は「歴史認識にこだわるクレーマー」であり,市教委はそれとは別に

「レイプシーン」を問題視した。そして批判者の多くは「原爆」にこだわった。

 

(2)「ゲン」は昔部分的に読んだだけで「原爆の話」というくらいしか覚えていないので

正確には言えないが,歴史認識を問題視する人は「南京大虐殺は架空の話だ」と

いう主張の延長でこのマンガの後半(日本兵の残虐行為)をとらえたのだろう。

一般論として言えば,個人がそういう意見を市教委や議会に申し立てることは

合法的な権利の1つと考えていいだろう。ただし,交渉相手に無断で交渉の

やりとりをネットで公開した行為は,プライバシーの侵害に当たる可能性が大きく,

市教委の担当者が裁判に持ち込んだら勝てるだろう(もちろん実際にはそんな

ことはしないだろう。クレーマーからの報復が怖いので)。

 

(3)教育長が現場に「お願い」をしたのは,一般論としてはありうる。教育委員会は

教育を考える機関だから,学校への指導が必要だと教委が考えるケースは当然

あるだろう。ただし今回の教育長の情報の発信方法には,大いに問題がある。

教育委員会に諮らなかったという手続き上の問題もあるが,一番いけなかったのは

「ゲンのどの箇所に問題があるのか」をはっきりさせなかったことだ。だから「ゲンと

いう作品が閲覧禁止になった」という事実だけが一人歩きして,被爆者団体などから

批判を受ける羽目になった。教育長は次のように現場に「お願い」すべきだったのだ。

 

「この作品は全体としては原爆と平和をテーマにした良書だが,○巻には女性の

レイプシーンが含まれている。これをそのまま子どもに見せるのは刺激が強すぎる

ので,この巻だけは閲覧させないようにさせてほしい(必要に応じて,そのページ

だけを切り取ってもよい)」

 

上の指示の最後の部分はある意味で作品に対する冒涜だが,「教育的配慮」という

理由でそういうことをすることに対しては,一定の理解は得られるだろうと思う。

 

(4)松江市教委の通達の翌日に,中国新聞の多くのマスコミが,この問題を「被爆の

現実から目をそらすもの」という論調で批判的な記事を載せたことは反省すべきだ。

特に「識者談話」のような形でいろんな人が新聞に意見を述べていたが,その時点で

彼らには「ゲン」の前編を読み直すだけの時間的余裕はなかったはずだ。つまり

彼らは,自分で読んでもいない(あるいは過去に読んだことはあったが内容を漠然と

しか覚えていない)作品について,市教委の判断の是非を語っていたことになる。

もちろん新聞社は,翌日の朝刊に間に合わせるために,そのことを了解していた。

結果的にこの事件が起きた当初に巻き起こった「原爆の悲惨さから目をそむける」

的な批判は,すべて的外れだったことが今では判明した。松江市の教育長が問題視

したのは原爆ではなくレイプシーンであり,原爆の実態を伝える資料としての「ゲン」の

価値は少しも否定されてはいない。それだけに,教育長が「ゲン」の全巻を閲覧制限

させようとしたことは大きな失敗だった。

 

(5)「レイプシーンを含むマンガが学校の図書館に置いてあること」をどう思うか?

という点についての私見を述べる。ぼくは実利主義者だから,こういう情報は子どもに

積極的に与えるべきだと思う。性的に成熟していない子どもでもかまわない。

原爆の悲惨さを子どもに見せることと何の変わりもない。中国新聞は,「原爆は怖い

ものだという実感をより多くの人々に持ってもらいたい」という主張を繰り返している。

それと同じで,「レイプは怖いものだ」という事実を,女子にも男子にも子どもの頃から

知らせておくことは大切だと思う。特に男子の場合,レイプに限らず「セクハラ教育」を

子どもの頃からしておいてやらないと,大人になってから大きな失敗をしかねない。

なにしろマンガやゲームはセクハラし放題の世界だから,そういうものにどっぷり

浸かって育つと,女性を誘拐して自宅に軟禁するような奴も出てくるだろう。

 

(6)「このマンガには事実とは違うことが描かれている」という批判は,不当である。

世間一般の意識として,フィクションと実話との違いは明確に存在している。

「これは実話だ」という注釈がついていない限り,人々はその作品をフィクションとみなす。

そして,フィクションの中には当然「うそ」も混じっていることを承知でその作品を楽しむ。

そういう共通理解を否定し,たとえば「実在の人名や地名などが出てくる作品では,

事実に反することが含まれていたら全部アウトだ」と判断するなら,ほとんどすべての

フィクションは成立しなくなる。たとえば映画「終戦のエンペラー」の主人公・フェローズ

准将は実在の人物だが,映画の軸になっている彼の「日本人の恋人」は実在しなかった

という。フィクションとはそういうものだ。

 

(7)「ゲンの閲覧制限」と聞いて「原爆の悲惨さの軽視」と短絡的に結びつける発想は

どうなんだろう?と思う。中国新聞はそういう傾向が強いが,非常に危うい感じがする。

今回の松江市教委の判断は,原爆とは直接の関係がなかった。それを「ゲン=原爆」

→「ゲンの閲覧禁止=反核運動に対する裏切り」と短絡的にとらえてしまった中国

新聞社は,自らの報道姿勢を反省してもらいたい。

被爆者の悲惨な実態を見せて「戦争は怖い」という意識を人々に植え付けようとする

活動の意義は否定しない。反戦思想の根っこの部分で「戦争はいやだ」という生理的な

嫌悪感を持つのは悪いことではない。しかし,だ。大人なら,そこで思考を止めては

いけない。それでも戦争や内乱は世界中で起きている。それはなぜなのか。その理由を

理解した上でどうすれば戦争をなくすことができるのか?と考えを巡らすためには,

感情ではなく理性,あるいは知性が必要だ。「戦争は怖い。だから戦争には反対しよう」

という形での洗脳は,人々を思考停止に陥らせやすい。原爆に関して言うなら,子どもは

「原爆は怖い。だから核兵器には反対だ」と考えておけばいい。しかし大人は,それでは

ダメだ。その発想は,原爆投下を正当化する世界中の(われわれと同じように心ある)

多くの人々を敵視する,あるいは愚かだとみなす姿勢を生みかねないからだ。

 

 

別の話題も1つ。

今年の夏の甲子園では,ある高校のC君という1人の選手の打撃方法に注目が集まった。

彼の「カット打法」はチームに大きな貢献をしてそのチームは勝ち進んだが,途中で審判から

「あの打ち方はバントとみなして,次からはアウトにする」と言われた。結果,彼はその打法を

捨てざるを得ず,次の試合でチームは敗れた。

この事件に関しては,次の2つの感想を持った。

 

@ 誰も悪くない。誰かに責任を取らせようとする批判はやめてほしい。

A 審判団は,C君の「心の傷」に対するフォローをきちんとしてほしい。

 

@については,要するに「程度の問題」だ。地方予選や甲子園の1・2回戦の審判たちは,

「このくらいならセーフ」と思ったのだろう。しかし彼の打法が注目を集めるにつれて,

「この打ち方はアウト」とみなす審判が出てきた。その判断はルール上それぞれの審判の

主観に委ねられているので,セーフとみなした審判もアウトと見なした審判にも非はない。

「明確な基準を決めておかなかったのが悪い」という批判も妥当ではないと思う。

プロ野球でも,難しい球をわざとファウルにして逃げるという技術は多くの選手が使う。

彼らのその打撃が問題視されないのは,彼らの目的がヒットを打つことだ(相手投手を

疲れさせる目的で最初からファウルを狙う選手はいない)という前提を,選手も審判も

観客も共有しているからだ。高校野球の場合,作戦の1つとして「意図的にファウルを

打つ」というケースがあるかもしれない。審判がそう感じたら,今回のように選手は注意を

受けるだろう。それも結局は程度の問題であり,2球や3球ではそんな判断は下らない。

これに限ったことではなく,世間には「暗黙の了解」がものすごくたくさん存在している。

たとえば野球で言えば,「大差がついた試合では盗塁しない」というのもその1つだ。

それはルールではなくマナーの問題であって,「大差とは何点以上のことを指すのか」

などと数字を明確にしても意味はないし,またそうする必要もない。

C君の打法に関しては,少なくとも本人には悪意はなかっただろうし,指導した監督や

コーチも「ズル」をしろという指導をしたとは思っていないだろう。(C君には二塁ベース上

でのサイン盗みの疑惑の話もあったが,それは別の問題だ。それが事実なら,当然

指導者に責任がある)

 

C君にとって不幸だったのは,一部の審判(そしてたぶん,実際にプレイした相手方の

選手や試合を観戦したお客の一部)に,「そこまでやったらダメだろう」という気持ちを

持った人がいたということだ。その人たちは「ルールよりマナーの問題だ」と思ったかも

しれない。そこの線引きは非常に難しい。今回の件をきっかけに「どこまでがバントで

どこからが通常の打撃か」についての客観的な基準を設けようとしても,それはたぶん

技術的に不可能だろう。最後は審判の主観に頼るしかない。

結果的には,たとえ途中からでも審判がC君の打法を問題視したことによって,今後は

同種の打撃に対して一定の歯止めがかかることにはなるだろう。「物議を醸すリスクが

減る」という面では,今回の審判の判断はプラスだったかもしれない。

 

ただし,最初に書いたが,審判団はC君が受けた「心の傷」に対して,しっかりとフォロー

してやってほしい。今のままだと,C君には「今までの自分の努力を全否定された」という

挫折感しか残らない。本人に悪意があったとは考えられないので,1人の高校生に

そのような思いを抱かせることは教育的観点から見て大いに問題がある。

だから審判団には,たとえばこんなコメントを出してほしい。

 

「今回のC君の打撃方法については,アウトかセーフかの判断をする権限は個々の

審判員が持っている。だからA審判はセーフと考え,B審判はアウトと考えたとしても,

それも野球というスポーツの一部である。判定にそのような一種の主観が混じる以上,

C君は自分のしてきた努力が公に否定されたと考える必要はない。ただし,その

打撃方法はアウトと判定されるリスクもあることは,C君以外の選手や指導者にも

知っておいてもらいたい。」

 

最後に,「C君の打撃がセーフだった時点の1・2回線で負けたチームは『不公平だ』と

思うのではないか?」という点について。高校野球では審判の判定は絶対であり,

それに従うことが一種の「教育の一環」になっている。カープの野村も,甲子園の決勝で

「不公平」(とよく言われる)判定に泣いたが,「あのおかげで成長できた」と語っている。

高校野球は勝ち負けだけではない。どの指導者も言っていることだ。

負けた選手たちもそういうふうに割り切ってほしい。それが君たちの将来に役立つだろう。

 

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