日記帳(2013年10月20日)

 

 

いや〜,カープ,負けちゃいましたね。

まあ,完全な力負けというか。しゃあないね。来年頑張ってほしい。

FAで大竹が流出したら厳しいが,今までの経緯から考えて残るような気がする。

けがのリハビリとかで,球団のいろんなスタッフに世話になっていると思うし。

逆に黒田は,カープが3位になったせいで帰りづらくなっただろう。

ここで「カープに戻ります」と言ったら,「チームが必要としている時には帰って来ずに

強くなったら帰るのか」という,新井が阪神へ行ったときと同じような反感をもたれる

かもしれない,と本人も思っているだろう。まあ黒田さんには最後の1年だけでも

カープで投げてもらえばよかろう。そのときマエケンがまだ残っているといいが。

しかし,野村監督は栗原と東出の処遇をどうするんだろうね。

 

先日の中国新聞に,「広島県民にアンケートを取りました」という記事があった。

1つは鞆の埋め立て問題。「知事が埋め立て架橋を撤回した判断をどう思うか」という

問いに対して,5割近い人が「どちらとも言えない」と答え,残りの約3分の2が「賛成」,

3分の1が「反対(埋め立てをするべきだ)」という回答だった。

「どちらとも言えない」という意見が最も多かったのは,健全な結果だと思う。

「よくわからない」という消極的な理由からそう答えた人もいるだろうし,「自分は実際に

鞆に住んでいるわけではないから,住民の切実さの本当のところはわからない」と

考えた人もいるだろう。どちらにしても,多くの人が「意見の分かれる問題に関しては

軽軽しく賛成とか反対とか断定できない」と考えているのはいいことだ。その人たちは

少なくとも思考停止には陥っていない。

 

では,あなたはどう思いますか?と自分に問われるなら,「賛成」ときっぱり答えよう。

前にも書いたが,湯崎知事がこの問題を処理した手法は賞賛に値する。鞆の住民の

不便さとか,鞆の文化的価値とかを,数字で表すことはできない。だから知事が「私の

一存でこう決めました」と言えば,反発を招くことは明らかだ。そこで湯崎知事は,

住民協議会を通じて賛成派と反対派から「ここまでは共通認識として合意する」という

結論を少しずつ引き出し,その合意に基づいて客観的に判断するという形をとった。

今回のアンケートで問われたのは「知事の判断をどう思うか」であって,「鞆の埋め立てを

中止することをどう思うか」ではない(と思う)。そこのところのとらえ方の違いが,おそらく

アンケートの集計結果に大きな影響を与えているだろう。

 

 

同じことは,「広島市民球場跡地にサッカー場を作ることをどう思うか」という質問にも言える。

これについても「どちらとも言えない」が最も多く,残りは「賛成」「反対」が拮抗していた。

反対する人の理由(選択式)で多かったのは,次の2つだ。

 

@広島には既にサッカー場はあるので(ビッグアーチ),2つもいらない。

Aサッカー場よりもっと重要な基盤整備がある。

 

ここにも,質問をどうとらえるか?という意識の違いが反映している。

@の理由で反対した人は,「サッカー場=サッカーをする場所」と考えている。

しかし,「市内中心部にサッカー場を作ることに賛成」と考えている人たちは,そうではない。

たぶんその人たちは,「サッカー場=集客(にぎわい)の中心地」ととらえているだろう。

要するに,サッカー場でなくても,人が大勢集まるような施設なら何でもいいわけだ。

人が集まれば周囲に店ができ,周辺地区の経済が活性化する。

市民球場跡地の活用法の議論では,この「経済的なメリット」と「この地区の文化的な価値」

のどちらを優先するかという対立が最初からあった。後者を重視する人は,原爆関連施設や

市民の憩いの場としての公園などを作る案を評価した。

Aの理由で反対する人は,要するに「税金の使い道」を問題視しているわけで,「自衛隊の

戦闘機を1機買う金があれば」うんぬんの批判と同じだ。これを言い出したら収拾がつかない。

 

思うに,この問題でも,湯崎知事が鞆の架橋問題に結論を出したプロセスと同じ手法が

使えそうな気がする。関係者が一同に会して協議する場を改めて設け,「球場跡地に建設する

施設が最低限備えていなければならない条件」に関する合意を形成する。その合意がたとえば

「多くの人を引き寄せる魅力がある施設」なら,サッカー場を作る案にとっては一歩前進になる。

 

これも少し前の中国新聞に,社会学者・上野千鶴子氏の「ますます高齢化するこれからの

社会では,『死ぬときは一人だ』(身内に見取ってもらえない)ということを前提として条件整備を

すべきだ」という趣旨の主張が載っていた。それに対して投書欄に「そういう寂しい考え方には

反対だ」という意見が載った。これなどは典型的な「すれ違い」だ。上野氏は社会的な制度設計を

論じたのに,読み手はその記事を個人の生き方や思想の問題として受け取ってしまった。

この種の「すれ違い」の規模が大きくなったものが,たとえば「夫婦別姓」の議論だろう。

これに賛成する人たちは,結婚で姓が変わると仕事上で不都合が生じるなどの実利面を

問題視するが,反対派は「夫婦を別姓にすると心の結びつきが弱くなる」という感情論で応じる。

これらの例が示しているのは,人と人とが合理的に物事を論じ合うことがいかに難しいかという

事実だ。自分の経験から言って,そういうことができる人よりもできない人の方が世の中には

ずっと多い。現に鞆の問題では,いわばアンパイアである知事の判断に従おうとしない「選手」

たちがたくさんいる。世の中はそれくらい,「頭のいい人」にとっては思うようにならないものだ。

そのことを,維新の会の橋本さんは今ごろ痛感しているだろう。

 

 

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