日記帳(2013年11月17日)

 

 

「トンデモ本」と呼ばれるタイプの出版物がある。たとえば「あの世は実在する」とか

「これさえ飲めば万病が治る」とか,書いている方もたぶん確信犯だろう,みたいな。

しかし,本人はまじめに書いているつもりでも傍から見たらトンデモな内容の意見も

時に見かける。下の記事は1週間ほど前の中国新聞の「識者評論」というコーナーに

載った記事の一部で,内容は教育再生実行会議が提言した大学入試改革への批判だ。

筆者は教育社会学者だそうで,現状の入試改革の方向性に対するコメントに続いて

最後に次のような結論が書かれている。

 

テストの制度をいじり回しながら,手間暇かけた選抜制度が望ましいという発想では

問題は解決しない。選抜のために教育(育成)がゆがむという転倒した状態を見直す

ことこそが必要なのではないか。判別力の弱い大学入試を社会全体で許容することを

提案したい。いいかげんな入試でよい,と考えるわけだ。

優秀な受験生がA大学に行こうがB大学に行こうが,社会全体から見るとどちらでも

よいではないか。入学者がその大学でどう学ぶか(どう教えるか)こそが重要だ。

「膨大な手間暇をかけてでも,1点を争わせてでも,できるだけ優れた志願者を入学

させたい」という大学の姑息な姿勢を,世間が批判するようになればよい。

むしろ,一定以上の学力層からくじで選ぶのを推奨すればよい。選抜の簡素化である。

そうなれば「入試や選抜のために教育をする」という,ゆがんだ高校教育の在り方も

自然に変わってゆくだろう。

 

では,皆さんにクイズです。上の記事(入試改革案)の最大の問題点は何でしょうか?

問題点はいっぱいあるけれど,とりあえず「ここが一番問題だ」と思う点を答えてください。

あなたが普通の社会人なら,正解が出せるはずです。

 

その前に,皆さんは上の記事を読んでどう思われますか?トンデモな内容だとは

思いませんか?というか,この意見に何も疑問も感じずに「賛成だ」と思うような人が

一人でもいるだろうか。筆者の人格を攻撃するつもりはないが,教育社会学の

専門家からこんな低レベルの発想しか出てこないのなら,教育社会学という学問は

この世に必要ないんじゃないか?と思えるほどだ。(しかもこの人,元東大教授だよ)

 

 

 

では,上のクイズの正解を発表します。

 

答えは,この案が大学進学希望者の金銭的負担を考慮していないという点にある。

 

文脈から考えて,「一定以上の学力層からくじで選ぶ」とは,A大学の合格者をくじで

選ぶのではなく,A大学とB大学との振り分けをくじで選ぶという意味だと解釈できる。

仮に「A大学・B大学のどちらに合格させるかをくじで決める」ような制度を作ろうとした

場合,次の2点が前提となる。

(1)A大学もB大学も国公立大学である。

(2)A大学もB大学も,受験者が自宅から通える範囲内にある。

(1)については,私立大学の合格者をくじで振り分けることはできない。たとえば3つの

私立大学を併願してそのすべてに合格する受験生はいくらでもいる。本人は自分が

合格した大学のうちからどれか1つを選んで進学する。つまり私大入試では,進学先は

選ぶ側が決めるのではなく受験者の側が決める。したがって「くじで大学を振り分ける」

という,選ぶ側を基準にしたシステム自体が成立しない。

そこで「くじによる振り分け」を国公立大に限定した場合,今度は(2)の条件が満たせない。

今日では国公立大志望者は基本的に地元志向であり,その大きな理由の1つは,親に

子どもを一人暮らしさせるだけの経済的余裕がないことにある。たとえば「東広島市に

住む高校3年生X君は,広島大学しか受験しない[できない]」というケースはよくある。

X君の家は生活が苦しく,親はX君を他県の大学や広島市内の私立大学に行かせてやる

余裕がない。だからX君は「広島大に合格できなければ高卒で就職する」と腹をくくっている。

−こんな生徒は,広島の予備校に勤めていた頃に大勢見てきた。上で社会教育学者氏が

提案している制度だと,広島大学はどこか別の国公立大学と組み合わせることになる。

それが山口大であれ岡山大であれ,あるいは広島県立大の庄原キャンパスであれ,

もしX君が地元(東広島市)の広島大以外に振り分けられたら,彼は経済的事情から

大学進学を断念しなければならなくなってしまう。自分の力が足りなくて不合格になるの

なら納得できるが,くじで遠くの大学に回されたために進学できないという理不尽が

許されるはずがない,とX君は思うだろう。

 

上の(青字の)改革案には,もちろんそれ以外の問題点もたくさんある。たとえば

「大学(教育)を侮辱している」とか「受験生を侮辱している」という見方もできるだろう。

しかし真っ当な社会人なら,まず「お金」の問題が頭に浮かぶべきだ。

ずっと学者の世界で生きてきた人の世間が狭いのは仕方がないかもしれないが,

「教育社会学」と言うのなら社会の現実への目配せがもっとあってもいいんじゃないの?

 

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