日記帳(2014年2月16日)

 

 

仕事が多忙で休みもなかなか取れない中,ホームページも休眠だとせっかく

見に来てもらっが人たちに申し訳ないので,軽く日記でも。

 

ソチ五輪は今がたけなわだが,ネットでこんな記事を見かけた。

 

結果不振選手批判はブラック企業の論理 [ 2014年2月12日]

 毎回起こることだけれど、選手が結果を出せなかったとき、批判が出る。

その批判の中には「選手の強化費は国費から出ているものだから、

当然選手は結果を出すべきだ」というものがあるが、いったい、どの程度

選手には強化費が使われているのだろうか。

 強化費に関して計算の仕方にさまざまな考え方があるので、どの程度、

正確なのか分からない。12年ロンドン五輪では、ドイツが270億円強、

米国165億円、韓国150億に対し、日本は27億円という試算がある。

ある程度のばらつきがあるとみても、日本の強化費はかなり少なく、

その中でメダル数はよくやっていると言える。
 メダル数に最も影響する要素としては、人口、GDP(国内総生産)が

50%程度、あとは科学技術やサポート態勢など、10程度の要素で残りの

50%となっている。GDPと人口は簡単には変化しないから、スポーツ界が

努力できる領域は50%の部分にかかってくる。
 メダル獲得に関して、日本はかなり不利な状況にいる。人口はそこそこ

ながら先進国中で少子高齢化はトップを走っていて、GDPも減少しつつある。

また強化費は発表している国の中では最も低い中、選手たちは努力していると

言えるのではないか。夏の五輪はそれでも注目が集まり、ある程度サポート

態勢が整っているが、冬季五輪は器具を使うためにかなりお金がかかるのに、

サポート態勢がそれほど充実していない。
 もちろんメダル数などに関係なく、ただスポーツを楽しめばいいという

考え方も素晴らしいと思う。実際にそう割り切っている国もある。

その場合は強化費を減らせばいいのだが、ただしメダルは望めない。

「お金はないがメダルは取れ」は少々、選手に酷な状況となってしまう。
 私は日本的精神論とは、(1)足りないリソース(資源)を気持ちで補わせる

(2)全体的問題を個人の努力に押し付ける、だと考えている。

結果が出せないことに批判が集まるたび、ここ数年続くブラック企業を想像

してしまう。全体として足りないリソースを残業などの個人の努力で補う。

「できる、できない」は気持ちの問題。それと似た空気を五輪の期間中も感じている。
 マラソンの円谷幸吉さんが重圧に押しつぶされ、自殺をしたのは1968年

(昭43)だった。日本はあれから、どの程度変わったのだろうか。(為末大)

 

為末氏にはいろいろと毀誉褒貶があるようだが,この記事は評価したい。

まず,自分の主張に説得力を持たせるための方向性の選択が好ましい。

冒頭の

「選手の強化費は国費から出ているものだから、当然選手は結果を出すべきだ」

という声に対しては,元選手の立場からこんな反論もできたはずだ。

「選手は必死に努力して,結果が出なかったことに今は大きなショックを受けている

だろう。その選手たちをむち打つような批判をするのは気の毒すぎる」

しかし為末氏は,スポーツ強化予算という数字を挙げて「選手はそれなりによく

やっている」と反論している。スポーツジャーナリストならその発想は当たり前

だろうと言う人もいるだろうが,実際にはたとえば選手上がりの野球評論家で

こんな理屈を言える人はほとんどいない。現役を退いた今,自分がスポーツに

貢献できる道は何かと懸命に考え,勉強した結果がこの記事につながっていると

思う。ブラック企業のたとえも的確だ。こういうふうに一見無関係なことがらの間に

共通点を見つけることを,一般化(generalization)という。人間が動物と違うのは

抽象的な思考ができるからであり,一般化はその思考プロセスの柱の1つだ。

もう1つ,上の記事では「日本的精神論」を2つの要素に分けて説明している。

この分析的発想も,合理的な思考回路を働かせる際の重要なファクターになる。

それらも含めて,上の記事は全体的に知的な文章だと言える。内容に関しては

賛否もあろうが,ライター目線で言えば「なかなかやるじゃん」という感じだ。

 

話は変わって,佐村河内氏という作曲家が起こした事件については,今週号の

週刊文春に雑誌ジャーナリズムの真髄とも言うべき暴露記事が載っているが,

この事件は「聴覚障害者の問題」と「音楽の問題」という2つの側面を持っている。

本人がしたことに弁解の余地がないのは言うまでもないが,実質的な被害という

面から言えば,聴覚障害者に迷惑をかけたことの方がはるかに大きい。

たとえば耳の不自由な子どもの中には「おまえも本当は聞こえるんだろう」という

イジメを受けた者もいるかもしれない。障害者団体も「この事件が聴覚障害に

対する偏見を生むのを恐れる」という趣旨のコメントを出していた。

一方,音楽的な面では実質的な被害者はいないと思う。業界は彼のおかげで

売り上げを伸ばしたわけだし,音楽愛好家は「いい曲だ」と思ってCDを買った

はずだから。もし「騙された。CDを返品したいから金を返せ」と言う人がいたと

したら,その人は「実は私は音楽そのものでなく作曲者のイメージを買って

いたのです」と,自分がダメ音楽ファンであることを自ら告白したに等しい。

だから,そういう苦情はまず出ないだろう。「現代のベートーベン」という

あおり文句につられてCDを買ったとしても,それを満足して聞いていたのなら

金を払った意味は十分にあったはずだ。本の場合も同じことが言える。

幸福・金儲け・ダイエット・英語学習・・・本を作る側から見れば,読者の中には

「気持ちよくだまされたい」と思っている人がものすごく多いように見える。

そういう人の望みをかなえてあげているのだから,「いくら食べてもやせられる」

とか「5時間で英語が話せるようになる」とかいう怪しさ満点のタイトルの本を

売っても「インチキだ」と怒る人は少ないようだ。だから出版業は,金儲けに

徹すれば楽な商売かもしれない。もちろん私はそんなことは望んでませんよ。

本のタイトルや宣伝文句を決めるのは基本的に編集者ですから。念のため。

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