日記帳(2014年6月1日)

 

 

この週末は仕事があるので,きのうの土曜日にちょっとだけ釣りに行った。

横島・坊地へ5時過ぎに行き,晩のおかずの小イワシとコノシロを調達。

イワシはあんまり釣れなかったが,夕飯は久しぶりに揚げ物を作る予定。

 

 

昼間は仕事をして,夕方6時ごろから仕事が休みの上の娘に手伝わせて調理開始。

揚げ物は1人で作ると手間が大変なので,手伝いがいるときしか作らない。

2人がかりで2時間かけて,あれこれ揚げた。

 

 

軽く皿に盛った揚げ物。小イワシの天ぷら・コノシロのフライ・エビフライ・豚モモカツ・

鳥唐揚げ・レンコン・サツマイモ。右上は切り干し大根とニンジンとキュウリの酢の物。

このところ真夏並みの暑さだったので,ビールが美味かった。

 

ちなみに,下の写真は先週釣ったコノシロの甘酢漬け。

 

 

コノシロを素焼きにして,酒・しょうゆ・砂糖・酢を煮立てた汁に漬ける。

1日くらいたってからが美味しい(真ん中の骨以外は全部食べられる)。

 

今日の日曜日は朝の6時過ぎから仕事をして,今は午後2時ごろ。ようやく一段落した。

6月は蒲刈へも釣りに行きたいが,半日の時間も取れるかどうか…

 

 

最近のニュースで,関西電力の原発の再稼動に対して地裁がノーの判決を下した,と

いうのがあった。この記事を読んで,「筋が違うんじゃないか?」と思った。

 

この判決は要するに,「危険性が多少でもあれば原発を動かしたらいけん」と言っている。

ところで,今回の裁判では原告が100人以上いたが,理屈で言えば1人でも裁判は起こせる。

仮に1人の原告が「原発の運転を止めたい」という思いで裁判を起こし,裁判所が原告の

主張を認め,結果的に原発が動かないことになったら,それは意志決定のプロセスとして

どうなんだろう?という大きな疑問が残る。

 

そもそも原発を誘致したい自治体や住民は,「多少のリスクは覚悟の上で,経済効果が

ほしい」と考えている。極端な話,100人中99人が原発誘致賛成の村で,1人の反対意見が

裁判で通ったとしたら,それはやっぱり筋が違うと思う。

この問題は,鞆の埋め立て架橋の話とは同一視できない。鞆のケースでは最終判断を

下したのは知事であり,知事は選挙で選ばれるのだから,基本的に住民の意志の代弁者

だと言える。しかし裁判官はそうではない。つまり今回の裁判は,「裁判所の判断は

地元住民の総意よりも上に置かれるべきか?」という問題を投げかけている。

素人だからよく知らないが,こういうケースは今までにあんまりなかったんじゃないかと思う。

たとえば鞆の問題の場合,地元住民は自分らの総意を無視したという理由で知事を訴える

ことはできるだろう。その場合,裁判所が判断するのは「知事に地元住民の総意を無視する

権限があるかどうか」であり,判断そのものが正しいかどうかではない。

そういう意味で,原発を動かすのが是か非かはさておき,今回の裁判所の判断はある意味で

「越権行為」のような気がしてならない。

 

 

話は変わって。これはちょっと前の週刊誌のニュース。

ある中学校の女性教師が,自分が担任を受け持つ新入生たちが入ってくる入学式の日に休みを

取って,自分の子が通う別の中学の入学式に出席したという。その教師の行動をどう思いますか?

というアンケートの結果,「けしからん」と「いいんじゃないの?」という意見がほぼ半々だったそうだ。

皆さんはどう思いますかね?私はもちろん,「いいんじゃないの?」派です。

理由は簡単で,この教師が自分の中学の入学式に欠席しても,実害はほとんどないからだ。

「けしからん」と言う人たちの多くは,本人の「職業倫理の低さ」を問題にする。

しかしよく考えてみると,これは(いつも言っていることだが)本人の頭の中にある規範意識の

ハードルの高さの違い,つまり程度の問題にすぎない。規範意識や職業意識がゼロの人はまず

いないし,職業意識が100だったら(仕事のためにすべてを犠牲にして)身内が不幸になってしまう。

これと似たような話はあちこちにある。巨人の原監督が,父親の病気のために職場放棄した,とか。

 

自分の規範意識を他人に押し付けるのは,規範を守らないとかなりの実害が生じる場合だけに

とどめておく方がいいと思う。もう1つ別の例を挙げよう。広島市である小学校の教師が,しつけの

悪い1年生の生徒何人かを床に座らせて授業を受けさせていたという理由で懲戒処分を受けた。

この教師に対しては「けしからん」と思うし,懲戒も当然だと思う。おそらく実害が生じているからだ。

それは何かと言えば,子どもの心に傷をつけたということだ。悪い事をしたら叱るのは当たり前だが,

叱り方を間違えてはいけない。この教師,自分が子どもの頃のことを覚えてないのかなあ。

子どものほとんどは,大人から見れば自意識過剰だ。それが成長する過程で当然のことだろうが,

自分が世界の中心だと思っているから,まわりが自分をどう見ているかを必要以上に意識する。

要するに,多くの子どもは自尊心が強い(つまりプライドが高い)。床に座らされるというのは,

肉体的な苦痛は大したことはないだろう(だから「これは体罰だから悪い」と考えるのは短絡的だ)。

しかし,その罰を受けた子どもの自尊心が受ける傷は,たぶん相当に深い。前に体罰の話を

雑記帳に書いたとき,「悪い罰」の条件の中に「大勢の前で恥をかかせること」をあえて入れた。

この教師のケースはまさにそれに当たる。事後の展開を考えても,おそらくこの教師は子ども本人に

詫びを入れただろう。しかし,小学校1年生の子どもに「先生が自分に謝った」という経験をさせると,

それ以後の指導が難しくなることは容易に想像できる。まして,罰を与えねばならないような

ヤンチャな子どもの場合は。教師も人間だから失敗することはあるし,失敗を糧にして成長すれば

いいんだけれど,この人の犯した失敗は自分にとっても子どもにとっても小さくはなかっただろう。

 

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