日記帳(2015年1月25日)

 

この週末は天気いいですね。盛港からの釣果の報告は届くかな。

 

今は25日(日曜日)の午前7時半ごろ。今日もこれから仕事だが,けさ未明のネットニュースに

イスラム国の人質事件についての新しい情報が流れていたので,これについて一言。

イスラム国の設定した期限が過ぎた直後の時点では動きはなかったが,それは予想されたこと。

人質を取った理由として最も考えられるのが身代金である以上,簡単には殺さないだろう。

しかしけさ,人質の1人の湯川氏という人物が既に殺害されていたというニュースが出た。

ぶっちゃけた感想を言うと,これはこれでよかったような気もする。

 

人質にされた2人の人物像は,マスコミの報道から判断する限り対照的なものだ。

後藤氏の情報はあふれかえっているが,湯川氏の情報はまるでそれがタブーであるかのように

ほとんど見られない。おそらく来週の週刊誌は後藤氏の「隠された過去」を暴く記事を載せようと

しただろうが,本人が亡くなったことで文面の変更を余儀なくされている(あるいは修正が

時間的に間に合わないので困っている)ところだろう。

 

死者に鞭打つつもりはないが,湯川氏については自己責任の部分が大きく,殺されても仕方がない。

何しろ「自称・民間軍事会社CEO」という肩書きからして,胡散臭いことこの上ない。

しかし後から人質になった後藤氏というジャーナリストは,何とか生きて帰ってもらいたい。

そもそもイスラム国へ行った主な動機も,人質になった湯川氏を探すためだというではないか。

行く前に「自分の身に何が起きても責任は自分にある」という映像を残している点も立派だ。

本人は半分以上死ぬ覚悟で行っただろうが,死なすには惜しい人物であり事情だ。

 

ここでは,人の命に軽重があると言いたいわけではない。

人の生き死ににかかわる問題では,たとえば身代金の金額や今後への影響というような

マクロ(社会的な視点)の話にはあまり関心が持てない(もちろんそういう話も必要だが)。

関心があるのはミクロ(個人的な視点)の問題だ。前に雑記帳に「死刑制度は存続すべきだ」という

内容の記事を書いた。これは積極的に死刑を肯定しているわけではなく,死刑宣告をされた人の

「死ぬ権利」を尊重すべきだと思うからだ。「自分は生きていてもこの先の人生に希望が持てない。

だから早く死刑にしてほしい」と願う死刑囚に対して終身刑を課すのは,そっちの方がよほど残酷

なんじゃなかろうか。

この話を今回の事件に置き換えて言うと,仮に身代金が支払われて無事に釈放された場合,

後藤氏に対しては強い批判は起こらなさそうだ(多少でもマスコミの報道を知っている人からは)。

しかし湯川氏は,釈放されてももう日本には戻って来られないんじゃないか,と思っていた。

雪山登山で遭難した人に対してさえ「危険を承知で山へ登ったのだから,税金を使ってまで

救助隊を出す必要はない」と言う人も少なくないくらいだ。

 

後藤氏は,もし釈放されて生き延びた場合,これから先も今と同じような活動を続けるだろう。

ただ,責任は今までよりもはるかに重くなる。なにしろ自分のせいで国民の税金が身代金として

使われるわけだから。人質にされるおそれのあるような地域での活動は,もうできなくなるだろう。

しかし彼の場合,生きて社会に戻ることができたことに対する恩返しを,自分の仕事を通じて

行うことができる。それは少なくとも彼自身の心の中では,金勘定の問題とは関係ない。

つまり彼には,今回の事件を経てもなお,自分の人生を全うできるチャンスが大いに残っている。

逆に湯川氏は,仮にこの事件を生き延びたとしても,その後の人生をどう生きるのだろうか?

という感想を持っていた。「民間軍事会社」の活動が今後も続けられるということはありえない

(また人質になったらどうするんだ,と止められそうだ)。かといって,日本に帰って何か別の

仕事をするというのもまず不可能だろう。彼が自分の人生に何か意味を持たせたいなら,

ここでイスラム国に殺害された方が「日本政府は尊い犠牲を払ったが,テロに屈しないという

姿勢を世界に示した」という意味で社会貢献できるんじゃないか。同時に,彼の身内に対して

おそらく巻き起こるであろう周囲からのバッシングも許容範囲内に収まるだろう。― そういう

思いを持っていたので,今回のニュースに対して「ある意味これでよかった」と思ったわけだ。

 

全然違う角度の話を1つ加えておくと,報道開始の直後から1つの疑問を持っていた。

それは「身代金はどうやって受け渡しをするんだろう?」ということだ。

まず,銀行振り込みはありえない。仮にどこかの国に「プライバシーは絶対守ります(たとえ

犯罪者でも)」という銀行があったとしたら,日本の誘拐犯にまで利用されちゃうからね。

郵送や宅配というのも考えにくいので,残るのは現金や小切手の「手渡し」だ。

じゃあ,その手渡しはどこで行うのか?イスラム国の本拠地に誰かが届けに行ったら,その人も

人質にされかねない。そう考えると「仲介者に手渡しする」ということになるのだろうが,その

仲介者は日本にもイスラム国にも顔がきく人物でなければならない。しかしそんな人がいるの

なら,最初からその人を通じて交渉すればいいはずだ。なのに今でも報道では「交渉ルートが

確立できていない」と言っている。そんな状況だと,たとえ日本政府が何がしかの身代金を

支払うことを決めても,その金を誰が向こうに届けるのだろうか。

 

最後に。今回の事件の結末がどうなっても,たぶん何かの理由で政府の対応を批判する

人たちが大勢出てくるだろう。そういう人たちは,すべてのことに批判の眼を向けないと

気が済まない病気にかかっているのだ。大目に見てやりたい。個人をバッシングするのは

よくないが,政府を責めるんだったら個人的には誰も傷つかないし(社会全体に攻撃的

気分を撒き散らすという害はあるにせよ)。先に言っておくが,今のところ,そしておそらく

事件が終わるまで,日本政府の対応が特に間違っているとはぼくは思わない。

今後の対策をどうするかについては,たぶん「どうしようもない」というのが正解だろう。

同じような事件がまた起きたら,ケースバイケースで対応するしかない。

(ただ,対イスラム国に関しては今回の事件で何らかの交渉ルートが見つかるだろう)

「危険区域に自ら入った人は助けなくていい」という認識を社会が共有することはおそらく

ないだろうし,危険区域外で拉致されることも当然ありうる。ルールで縛るのは非現実的だ。

突発的な事件が起きたとき,現場で汗を流してその解決に当たる人たちは常に存在する。

その人たちの苦労に対する想像力を持っている人なら,当事者に対して軽々しい批判は

できないはずだ。「批判病」の人たちが何を言おうと,当事者はそれを無視すればいいのだ。

 

 

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