日記帳(2015年5月17日)

 

5月に入ってから,旬の食材をいろいろ食べた。

ハゲの煮付け,アイナメ・コブダイ・チヌの刺身。

鴨方のユノさんからもらったタケノコとエンドウを炊いたのも旨かった。

ユノさん,いつももらってばかりでありがとうございます。

ウマヅラハギの煮付け  / コブダイの刺身

娘らに手土産で持たせたコブダイの切り身(冷凍用)/ムコさんの誕生日が近いというので,うちで誕生祝い

 

鴨方のユノさんにいただいたタケノコとエンドウを煮た

 

それで思うことには,やっぱりQOL(生活の質)は大切だ。

去年の夏にガンの手術をして胃を5分の4取った父は,入院の間に10キロほど痩せて,

退院時の体重は45キロに満たなかった。その後徐々に回復して53キロくらいに戻った

ところで,庭で倒れて入院したのが3月末。入院期間は2週間ほどだったが,入院中は

ほとんど食べてないので,退院したときはまた体重が45キロほどになっていた。

予定では1週間ほどで退院できるはずだったが熱が引かず,病院では誤嚥(ごえん),

つまり飲食物が食道ではなく気管の方へ入るのが原因と診断された。

退院後も,病院の用語で言うところの「キザトロ」(食材を細かく刻んでとろみをつけた料理)を

食べるようにと指示を受けた。ヘルパーさんに毎日来てもらってそういう食事を作って

もらっていたが,見た目が離乳食のようでいかにも食欲がわかない。

本人が「誤嚥は病院のベッドの上で変な姿勢で食事をさせられたせいじゃないか」と言うので,

試しにとろみをつけない普通の料理(ただし噛む力が弱くなっているので煮物でも刺身でも

1cmくらいに小さく切る)を食べさせると,発熱が起こらない。今では家で作ったものは,

細かく切ればほぼ何でも食べられる。200mlくらいの小さい缶ビールも飲めるようになった。

退院する前に看護婦さんからは「介護施設に入ったらどうですか」と勧められたが,

施設の食事はたぶん離乳食もどきだろうから,医療的なフォローは期待できてもQOLは

下がるだろう。自宅で生活できれば,庭を眺めているだけでもリラックスできる。

90歳で障害持ちの父は(40代の頃に工場の事故で右腕を失った),今は毎日植木の

世話をして,時々具合が悪くなって病院で点滴を受けながら,どうにか一人で暮らしている。

もちろん家族の支援は必要だが(左手の力が弱ってペットボトルの栓も自力では開けられない),

認知症と無縁なこともあって負担は少ない。自宅で死ぬのは無理にしても,晩年を介護施設で

過ごす期間はなるべく短いに越したことはない。父は魚が好きなので,これからも釣った魚を

食べさせてやりたい。

 

話は変わって,昔は結婚式が終わったらそのまま新婚旅行に出るのが普通だったが,

近頃は二次会やらがあるので新婚旅行を後回しにするそうだ。娘らは夏ごろ行く予定だ

そうだが,もともとは今後一生行けそうにないところへ行きたいということで,第一候補は

イタリアだった。その後テロや飛行機事故のニュースが流れたせいで,まわりから

「ヨーロッパは危ないからハワイあたりにした方がいい」と忠告された。

今はハワイに行くつもりらしいが,この話を聞いて「それって,どうなん?」と思った。

忠告する側には,もちろん悪気はない。旅行に行く本人らの身の安全を思ってのことだ。

しかしその発想は,いわゆる風評被害と紙一重のところにある。

 

原発事故の後,福島産の野菜や魚は(安全宣言が出されても)市場価値が大幅に下がった。

日本へ来る外国人観光客も激減した。福島産の食材,あるいは日本への旅行が

「危ないんじゃないか」と思うとき,そこに理性的な思考はなく,あるのは「何となくこわい」と

いう漠然とした不安や嫌悪感にすぎない。このケースで「それは過剰反応じゃないの?」と

問われれば,多くの人は「その通りだ(けどやっぱり…)」と答えるだろう。

病気持ちのパイロットが1件の飛行機事故を起こしたという理由で「ヨーロッパの飛行機は

(全部)危ない」と考えることが妥当でないことは,たぶんみんな頭の中ではわかっている。

しかし「何となくこわい」という不安感は拭い去れない。

犬を散歩に連れて行くと,段差とかマンホールとか,ちょっとでも違和感のあるものの上を

歩こうとはしない。リスクをできるだけ避けようとするのは,動物も人間も同じだ。

しかし,だからといって「福島の野菜は(何となく)危ないから,買わない方がいいよ」と

人に忠告したり,自分でそういう行動を取ったりすることを正当化していいのか?

という疑問は残る。

 

問題は「過剰反応の度合い」が人によって違うことにある。

その度合いがゼロだという人はまずいないだろうが,仮にいたとしてもそこには

大きな問題は起こらない。「福島の野菜が危ない?そんなことないだろう。

オレは平気だよ」と言うなら,何かまずいことが起きたとしてもそれは自己責任の

範囲内だ。他人に迷惑をかけるわけじゃない。逆に,過剰反応の度合いが高い人

ばかりだと,社会環境は悪化するだろう。そういう集団は少しのリスクでも避けようと

する方向に流れ,結果的に風評被害や同調圧力が増し,「猿にシャーロット(先日

生まれたイギリスの王女)という名前をつけるのはけしからん」なんていう,本人は

正論のつもりの暴論を吐くクレーマーも増えるだろう。

 

そこで話を進めて,たとえば原発。たとえば憲法改正。たとえばマイナンバー制。

たとえばホワイトカラー・エグゼンプション。こういうものに反対する人の言動や行動が,

過剰反応ではない(つまりそれらに対する拒否反応は正当だ)という証拠はどこにもない。

「福島で事故があったのだから,原発事故は今後も起きるかもしれない」

「憲法を改正したら,日本が戦争に巻き込まれるかもしれない」

「マイナンバー制を導入したら,個人情報が漏れるかもしれない」

−「だからそういうリスクを避けるべきだ」。

この種の理屈は決して自明のものではなく,「福島で[ドイツで]事故があったのだから,

日本への[ヨーロッパへの]旅行は避けるべきだ」と言っているのと本質的な違いはない。

違うのは,繰り返すけれど,それが「過剰反応なのかどうか」という判断の問題だけだ。

原発や改憲に反対することは,もしかしたら過剰反応なのかもしれないし,そうではない

(正当な拒否反応)かもしれない。その答えは誰にもわからないが,少なくともこれらの議論の

根底にはそういう「過剰反応の度合いの判断」が横たわっていることを忘れてはならない。

こういうことを書くのは,多くの新聞やテレビのニュースが自分らの一方的な意見しか示さない

ことにも1つの理由がある。たとえば安全保障関連法について「自衛隊が紛争国の後方支援を

したら,報復として日本がテロリストに狙われる危険が高まる」という意見がある。その点から

言えば,確かに従来どおりの方が日本は安全かもしれない。しかしこの法案に賛成する側には

「じゃあ,他の国々がテロと戦っているとき,日本だけが平和ならそれでいいのか?」という

道義的な問題意識がたぶんある。結局,一概にどちらが正しいとも言えない。そういう両方の

立場を理解した上で自分の意見を持つならいいと思うが,多くのマスコミが流すどちらか一方の

意見だけに洗脳されて理屈抜きで「戦争反対」「原発反対」で終わる人は,ある意味で怠け者だ。

 

ちなみにオジサンは,「ドイツの飛行機が事故を起こしたから,ヨーロッパへの旅行は危ない」

とは思わない。だから娘夫婦がヨーロッパへの旅行を計画しても「やめとけ」とは言わない。

それと同じ理由で,「原発は何となく危険そうだから廃止すべきだ」という意見には与しない。

しかし,小泉元総理が言うように,核廃棄物処理の問題にほっかむりをして原発に依存し続ける

ことには反対だ。一口に「反原発」と言っても,きちんと理屈で考えた理由と,「何となく」という

感情的な理由とが世間には混在している。人間は感情で動くものだから,「原発は」「戦争は」

「マイナンバーは」何となくこわい,という理由で反対する人の方が多いんだろうなあ。

しかし,そういう人が風評被害を引き起こす張本人にもなりやすい,ということも忘れては

いかんと思う。

 

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