日記帳(2015年5月31日)

 

「自分で自分をほめてやりたい」と言ったマラソンランナーが昔いたが,

最近その言葉を思い出す。ホンマに自分をほめてやりたい。

自営業者が頼まれた仕事を「忙しすぎるから」という理由で断らざるを得ない苦しみは,

自営業者でなくても想像できるだろう。めったなことでは頼まれた仕事を断らない

わたくしが,5月は続けて2件断ってしまった。とにかく夏ごろまで全く休みが取れない

くらい仕事が忙しい(それでもチャンスがあれば日曜日に半日くらいは休もうと思うが)。

それに加えて介護もある。お金は,出歩かないのでほとんど使わない。公共料金・

電話代・ガソリン代など口座から引き落とされる以外は,食費と月に数千円程度の

遊興費(映画・雑誌・マンガなど)くらい。楽しみは飲み食いすることくらいしかない。

カープは負けることの方が多いので,最近はあまり見てない。まどマギの映画版を

見たいがために今月契約したWOWWOWで録画した映画を,ちびちび見ることの方が多い。

カープは今年が優勝の最大で最後のチャンスと言われていたが,今の調子では無理だろう。

しかし中国新聞のコラムは今年は愚痴っぽい記事が少ないので不快になることはないし,

監督の采配にも不満はない。緒方監督の一番いいところは,個々の選手を決して責めない

ことだと思う。新井の成績には一番びっくりした。選手としては応援するので頑張ってほしい。

 

この日記は仕事がちょっと一段落した日曜日の夕方に書いている。最近の話題から2つ。

その1。大阪都構想について。5月17日の投票速報はなかなかスリリングだった。

開票率が98%を超えてもまだ僅差で賛成票が多かったのに,突然NHKに「反対多数が

確定」という速報が出た。どうやって推測したか謎だが,結果は確かにその通りだった。

これについては各週刊誌がトップ記事で扱っていたが,「週刊新潮」の「さらば衆愚の王」と

いう見出しには驚いた。と同時に,おまえら(新潮編集部)何様だ?とも思った。

センセーショナルな見出しで読者の気を引く営業戦略だろうが,ちょっと品がなさすぎる。

(記事の中身を読むと,「衆愚」に関するコメントは全くなかった)

「衆愚」という言葉を使う人は,自分をその「衆」の中にカウントしていない。

つまり「橋本大阪市長は(いわば)衆愚の王だ」という言葉には,「愚かな大阪市民が

彼を王様扱いした」という含意がある。大阪市民はこの表現に対して怒るべきだし,

もし橋本氏が東京都知事だったら,週刊新潮が「衆愚」という言葉を使ったかどうか疑わしい

(要するに東京の新潮編集部は大阪を蔑視しているということだ)。

それはさておき,大阪都構想はなぜ(僅差とは言え)住民投票で否決されたのか。

この答えは,「なぜ日本から原発(あるいは沖縄の基地)がなくならないのか」という問いの

答えに通じるものがあると思う。

第三者的な目で見れば,たぶん橋本市長の言い分を支持する人の方が多いだろう。

予算の無駄遣いは現にあるだろうし,そもそも大阪都が実現しても橋本氏個人には何の

メリットもない。にもかかわらず都構想にあれだけこだわるからには,(小泉元総理の

郵政民営化と同様に)自分の考えは必ず公益に沿うはずだという自信があっただろうと

容易に想像できる(逆に反対派には,個人や党派の利権を守るという邪な動機が

少なからずあったであろうことも,同じくらい容易に想像できる)。

しかし大阪市民の多くは,橋本氏に賛同しなかった。その最もありそうな理由の1つは,

「どんな正論を吐こうが,自分が橋本氏が嫌いだ(たとえば従軍慰安婦発言によって)」と

いう感情論だろう。もう1つの理由として,「現状のままでも自分は困らないから,わざわざ

変える必要はない」と思った人が多かったと推測できる。実際には税金が無駄遣いされれば

個々の市民にも不利益は及ぶのだが,それを一人ひとりが実感するのは難しい。


これと表裏一体とも言えるのが,鞆の浦の架橋問題だ。おそらく第三者の多くは(湯崎知事を

含めて)鞆の景観を守ることの方がメリットが大きいと考えた。しかし地元住民の大半は

「景観より自分(たち)の生活の方が大切だ」と考えた。大阪都構想と鞆の浦の問題の両方が

示唆するのは,次のようなことだ。

(1)当事者は,自分の利益を最優先に考える。

(2)部外者は,「自分に害が及ばなければどちらでもいい」と考える。

こんなことは,わざわざ言わなくても自明のことだ。大阪都構想が否決されたのは,当事者で

ある大阪市民が「少しでも自分にとって不利益になる可能性があることは避けたい」と考えた

結果であり,鞆の大半の住民が架橋に賛成なのも(1)の理由による。そして,日本から

原発や沖縄基地がなくならないのは,要するに「当事者の比率が低すぎる」からだ。

沖縄に基地があろうがなかろうが,本土の人々にとっては直接の利益も害もない。

だから(2)の理由によって「どっちでもいい」となる。原発については,「僻地の原発で万一

事故が起きても自分には害は及ばない(はずだ)。しかし原発がなくなれば(もしかしたら)

電気代が上がって(あるいは大企業の経営が圧迫され,それが景気を押し下げ)自分の生活に

悪影響を与える可能性がある」という理由で,「なくさなくてもいいんじゃないの?」と考える

人が多いから,脱原発論が一定以上に盛り上がらないのだろう。

そしてここからが重要だが,そういうふうに「自分が損をすることには反対。自分とは直接の

関係がない(ように見える)ことはどうでもいい」という,(いわゆる)おまかせ民主主義に

浸っている人々は,果たして「衆愚」なのだろうか。

それは違うと思う。人間とはそういうものだろう。日本人は世界でも珍しいほどモラルの高い国民だ。

だからタクシーの運転手にぼったくられたという話は聞かないし,猿にシャーロットという名前を

つけるのはけしからん,という暴論(?)を吐く人さえ現れる。しかし,釣り場に散乱するゴミを

見てもわかるとおり,多くの人は「自分は困らない」と思えばしばしばモラルの低い行動をする

それと同時に,「自分が困る」と思えばモラルは二の次になる。原発や沖縄の基地問題について

「難しいことはよくわかりません」と逃げるのは前者の例であり,消費税の値上げや大阪都構想に

反対するのは後者の例だ。そうやってインモラルな行動に走った人々を批判するのはたやすいが,

「もしその人たちの立場だったら,自分なら違う行動を取る」と,自信を持って言える人は少ないだろう。

その状況を一言でまとめるなら,「批判する側もされる側も,みんなモラルが低い」ということになる。

人間って,そういうもんだろう。だから誰も悪くないのだ。

 

その2。和歌山県太地町のイルカの追い込み漁が国際的に批判されて,水族館がイルカショーに

使うイルカの入手に困っているという。世間の人は,このニュースを聞いてどう思ったんだろうか。

オジサンはこう思いました。「イルカのショーを,やめりゃええじゃないか

多くの水族館の認識では,イルカのショーは水族館の目玉であり,これを廃止すると来場者が

かなり減るおそれがあるという。それは,実際そうかもしれない。でも,これはある意味で,今までの

発想を転換するチャンスじゃないだろうか。水族館は好きだが,「魚がかわいそう」という心情が

どうしても拭えない(動物園の場合はそれがもっと強い。だから動物園へ行くのは好きじゃない)。

もうちょっと,サファリパーク的な施設に作り変えることはできないのだろうか。理想を言えば,

海とダイレクトにつながっている方がいい。さらに欲を言えば,同じ魚を一生水槽に閉じ込めて

おくのをやめて,随時入れ換えてやってはどうか。それには批判もあるだろう。魚を自然とは違う

生活環境の中に押し込むこと自体が魚の虐待であり,魚を入れ換えれば犠牲者(魚)を増やす

だけだ,と主張する人もいるかもしれない。しかしそこまで言い出すと,じゃあペットの犬を鎖に

つないでいるのは虐待ではないのか?という話にもなりかねず,結局は程度の問題だろう。

いずれにしても,水族館も動物園も,魚や動物を「見世物」にするビジネスという発想を捨てて,

もう少し「共存共栄」の方向に舵を切ってもらいたいと思う。それは施設側の問題というよりも,

水族館や動物園を訪れる客であるわれわれの意識の問題でもあるだろう。

 

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