日記帳(2015年6月21日)

 

休日も平日と同じように仕事に明け暮れるのは侘しいので,このところ日曜は昼まで仕事して

午後はオフということにしている。おじいちゃんの昼食の準備をしたら後はフリーなので,本屋へ

行ったり映画を見たりして過ごす。釣りはこの時期は端境期なので,行ったとしても夕方1時間くらい。

 

同期で公務員になった連中はそろそろ定年が近いので,たまに会うと「退職後に空いた時間をどう

過ごすか」という話になる。自分にはそういう時が果たして来るのかさえ怪しいが,もし空き時間が

できたら,時期がよければ釣りに行くとして,そうでない時期はたぶんこうやってパソコンに向かって

何かを書いているだろう。書きたいことは山ほどある。それも,内容の濃いことが書きたい。

 

で今日の日曜日の午後は,こんなことを考えながら書いている。

さっき本屋へ行ってきたら,「エンジェルボール」という文庫本が平積みになっていた。

広島カープに入団したある投手を主人公とするフィクションだそうだが,悪いけど読む気がしない。

その内容がどれほどドラマチックであろうと,現実が持つ力にはかなわない。

夢物語の中でカープが優勝する場面を読むのと,現実にカープが最下位になるのを見るのとどっちがいいか?

と問われれば,比較にならないくらい後者の方を見たい。フィクションはしょせんフィクションだ。

一方,最近話題になっている別の本で,「絶歌」というのがある。著者は1997年に神戸で起きた

殺人事件の犯人・酒鬼薔薇聖斗(当時の偽名)で,被害者の遺族は出版に猛反対したらしいが,

初版十万部が既に出回っている。こちらの本は,逆の意味で読む気がしない。というか,読んではいけない

ような気がする。「読んだら面白いかもしれない」というのは,ある。しかし,被害者の遺族の心中を察すると,

この本を面白半分で読むのは不遜じゃないか,という気持ちの方が強い。

 

「週刊文春」で,あるノンフィクションライターが「殺人犯との対話」という記事を連載している。

これも基本的な性格は同じで,「殺人者はいかにして殺人を犯すに至ったか」を追求している。

こういう記事や本の大義名分として必ず言われるのは,

殺人者の心理を知ることが,今後同じような事件が起こることを防止するヒントになる」という理屈だ。

しかしそれは,大ウソだ。いや,執筆者や出版社,あるいは読者はそう信じているのかもしれない。

しかしその種の本を読もうとする動機は,たとえば「激辛カレーを食べてみたい」という気持ちと大差ない。

抽象的な言い方をするなら,それらは本人にとって「実害が及ばない範囲内での,ちょっとした冒険」だ。

読者の多くは「そんな凶悪事件を起こすようなやつは,不遇な子ども時代を送ってきたんだろうなあ」と

予想して本を手に取る。そして読後,「ああ,やっぱり」と納得する。その過程のどこに,今後の事件を

防止する手がかりがあるというのか。金がらみ以外のほとんどの犯罪者の動機は,既に誰でも知っている。

それは「不遇な生い立ち」だ。しかしそれを知ったからといって,そんな子どもを減らすことはできない。

犯罪の実録を読みたがる人々は,高みから他人の不幸を見物したいだけだ。

そういう人たちを,あるいはその人々の低俗な覗き見趣味に迎合してその種の本を出す出版社を,

責める気はない。今回の「絶歌」にしても,本を書くことは酒鬼薔薇クン自身のセラピーにはなるだろう。

誰かの不幸が他の誰かの幸福になるという構図は,世間のどこにでも転がっている。

被害者の遺族の胸の痛みを思うと,他人はともかく自分はそういう本を読む気にはなれない,というだけの話だ。

 

上の話で言いたかったのは,「みんな,きれいごとでなく,もっと現実を直視しようよ」ということだ。

それに関連してもう1つ。「理屈」は世の中を動かす1つのパーツだが,それがすべてではない,というお話。

きのうの中国新聞に,アメリカで原爆展が開かれているというニュースが載っていた。

そこを訪れた人々が「原爆は怖い。核兵器は廃絶すべきだ」という感想を持てば,反核運動家たちは

満足するだろう。日本でも,子どもの頃に原爆資料館で見た怖い遺品や写真がトラウマになって,

「原爆は恐ろしい。だから核兵器反対」と考えている人はたくさんいるはずだ。

しかし,それで本当にいいのだろうか?

たとえば,大学生たちを集めて「原発をどう思いますか?」と尋ねたとしよう。

もし彼らが「福島であんな事故があったのだから,私は何が何でも原発反対です」と答えたら,

「君たち,それはただの思考停止だよ」と,オジサンなら叱るけどね。

 

別の視点から言うと,子どもならともかく,大人が「原爆展を見に行こう」と思うとしたら,その動機は

本当に「反核」「反戦」だけだろうか。もしかしたら彼らもまた,「絶歌」を読みたがる大人と同じように,

ただ「怖いもの見たさ」の感情に動かされただけかもしれない。たとえ本人がそう自覚していなくても。

 

反核や反戦の運動の根底には,基本的に「理屈」はない。一方で,「好戦」の側にも理屈はない。

このところ安保関連法案がらみで,安倍総理や自民党閣僚の発言がいろいろ批判されている。

ここでは詳しく書かないが,理屈から言えば明らかに批判する側の方が正しい。

しかし法案は着々と成立に向かっている。この状況を短くまとめて言うなら,現在の日本の政治は,

合理的思考ではなく安倍という1人の人物の「情念」(あるいは祖父からの洗脳)によって動いている

それは悪いことなのか?と問われれば,その答えは「いいも悪いもない。それが現実なのだから」と

いうことになるだろう。「現実を直視しよう」とは,そういうことだ。

 

実際にわれわれは,「筋が通るか通らないか」を唯一の判断基準にしているわけではない。

別の例を挙げてみよう。このたび,選挙権の年齢が18歳に引き下げられたことに関して,新聞には

しばしば識者と呼ばれる人々が「これからは主権者教育が大切になる」という意見を載せている。

要するに「若者にもっと政治のことを勉強してもらおう」ということだ。

しかしこの意見は,理屈から言えば明らかに筋が通らない

選挙権年齢が18歳に引き下げられた,あるいは引き下げることが認められた理由とは何か?

そこには(少なくとも建前上は)「18歳の人間には成人と同程度の(政治的)判断能力があるはずだ」

という思想がある。つまり「18歳は大人だから,選挙権を与えてもいい」ということだ。

そうやって(政治的に)大人と認められた人々に対して「教育が必要だ」とは何たる言い草か。

たとえば50歳の人々が「あなたたちには主権者教育が必要だ」と言われたら,誰もが「お前は何様だ」と

反発するだろう。だから,18歳と50歳は法的に対等だと認めた以上,18歳の人々を「教育」の対象に

するのは筋違いだ(大学教育は自分で選んで受けるのだからこれとは話が違う)。

 

しかし,だ。「若者には主権者教育が必要だ」という意見を見聞きしたとき,多くの人は「そうだね」と

感じるだろう。何と言っても彼らは,法的には成人であってもまだまだ未熟だから。― と,ここでは

法的な建前よりも現実の方が重視されており,その結果「筋の通らない意見」が正当化されている。

このように私たちは,「理屈」というものを都合よく使い分けており,時には理屈に,時には情念に

基づいて判断し行動する。そして,そういうことができるのが大人だ,と一般に考えられている。

 

結論。「筋が通らない」と批判する人々に問おう。あなたは常に「筋を通して」いると言えるのか?

もしそうでないなら,ある問題に対して「筋が通らない」と主張するのは勝手だが,その前提として

自分はこの問題を,筋が通るか通らないかで考えている。しかし他の人がそれとは違う判断基準で

この問題を考えるというのなら,その立場は認める。自分も他の問題ではそちらの判断基準を選ぶ

かもしれないからだ」という,自己を相対化する柔軟な姿勢を持っていなければならないんじゃないか,

と私は思うわけです。

 

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