日記帳(2015年8月9日)

 

今年も原爆の日が過ぎ,終戦記念日が近づいてきた。

例年この時期になると,新聞を読むのが憂鬱になる。

自宅で購読している中国新聞の記事や社説の論調が嫌いだからだ。

じゃあ別の新聞を取ればいいじゃないかと言われそうだが,この時期以外は中国新聞に

特に不満はないし,たとえば読売新聞を取ったら取ったでまた別の不満が出るだろう。

 

最初に書いておくが,地位に関係なく,個人が何を思い何を言おうと自由だと思う。

ただし「特定の他人や団体を中傷するような内容でない限り」という条件付きだが。

そういう意味で,「沖縄の2つの新聞はつぶすべきだ」と言った百田尚樹氏の発言は

よろしくない。しかし,「若者が戦争に行きたくないというのは自己中心的な考えだ」と

いう若手自民党議員の発言は,全然オーケーだと思う。とりわけ国会議員は,積極的に

自分の意見を言うべきだ。それが有権者の判断基準になるのだから。この議員の場合,

自分の信念を語った結果として次の選挙で当選しても落選しても本望だろう。

もちろんそういう個々の意見に対して「それは間違いだと思う」と言うのも各人の自由だ。

 

しかしマスコミ(新聞・テレビ・雑誌など)の場合は,個人の発言よりも慎重さが求められると思う。

よかれあしかれマスコミは,それに触れる人々を「洗脳」しやすい。だから,自分たちの情報の

発信のしかたが,大衆を一定の(ある意味で偏った)方向に誘導しやすいという自覚だけは

持っておいてほしい。つまり,「自分たちにとっては当然のことでも,万人にとって当然な

わけではない」ことを自覚してほしい。この命題は,あらゆるテーマに当てはまる。

 

前置きが長くなったけれども,誰でも「生理的にいやだ」「体質的に受け付けない」みたいな

ケースがあるじゃないですか。たとえば「いい人なんだけど,ハゲはいや」とかね。

私にとってそれと同じような嫌悪感を覚える対象の1つが,この時期になると中国新聞に

よく出て来る「核兵器は絶対悪」という言葉なんですね。ついでに言うと,今年の平和記念

式典で松井広島市長が使った「広島をまどうて(元に戻して)くれ」という言葉も好きじゃない。

 

もう何度も同じことを書いているんだが,実際の被害者は何を言っても許される。

もう少し極端な例を出すなら,福島の原発事故に会った人が「東京電力の幹部を殺して

やりたい」と言ったとしても,世間の多くの人はそれを許すだろう。しかし,古館キャスターが

同じセリフを吐くのは許されない。「当事者が熱くなるのはわかるが,第三者は冷静な判断を

すべきだ」という暗黙の前提があるからだ。

中国新聞が被爆者の気持ちに寄り添おうとしていることは理解できる。

それでもやっぱり,新聞にはもうちょっと冷静な視点を求めたいと思うわけだよ,オジサンは。

(A) 戦争は絶対悪である。

(B) 核兵器は絶対悪である。

この2つは,全く違う。たとえば世界中の人々にアンケートを取ったとしたら,(A)については

一般市民の100%,政治家の90%くらい(?)は「イエス」と答えるだろう。しかし(B)については

一般市民でも政治家でも,イエスの回答が50%を越えるかどうかさえ疑わしい(つまり,戦争には

反対でも核兵器の存在は認める人も少なからずいるということだ)。

そういうふうに見解の分かれる問題だからこそ,自分たちは「核兵器反対運動」の最先端でその

思想を先導したい,と中国新聞は考えているだろう。それも理解できる。

が,「生理的に受け入れられない」という気分はどうしようもないんだな,これが。

 

もしも核兵器が「絶対悪」なんだとしたら,核兵器の正しさ(存在意義)を信じている人たちは,

「絶対的な悪人」なんだろうか?それとも彼らは「核兵器の本当の怖さを知らない無知な人々」

なんだろうか?中国新聞の論調の背後には,どうしてもそういう高飛車な意識が見えてしまう。

中国新聞は,日本が米国の「核の傘」に守られていることを問題視する。

それは核兵器廃絶という目標から考えて当然のことだ。

では「もし日本が米国の核の傘を飛び出したら,どうやって国を守るのか?」という問いかけに,

彼ら(中国新聞)は外交的努力,たとえば中国や北朝鮮などとの関係を「対話」によって改善

することで戦争を回避することができる(のじゃないか)と主張するわけだ。

わかった。理想主義的すぎるとは思うが,あなたたちの主張は認めよう。

あなたたちは「物事は対話によって解決できる」と考えているわけだ。

じゃあ,聞こう。あなたたちは,「核兵器は必要だ」と考えている人々と対話をして,

彼らとの間に合意点や妥協点を見出せると思っているのか?

そもそもあなたたちは,核兵器容認論者たちと話し合う気があるのか?

あなたたちの使う「核兵器は絶対悪」という言葉からは,そういう姿勢が感じられないのだよ。

最初から議論を拒んでいるというか。「自分たちの言うことが正義であって,それに反対する

者は悪だ」みたいな。そういう思想がにじみ出ているように見えて仕方ないんだな。

つまりあなたたちは,日本の安全保障に関して「隣国との話し合いが重要だ」と一方では

言っておきながら,核兵器に関しては意見の違う人々と話し合う気が毛頭なく,彼らの存在を

否定したり,無知な人間だと蔑んだりすることしか考えてないんじゃないの?

たとえば核兵器容認論者は,こう主張するかもしれない。

日本が戦後70年間平和だったのは,憲法9条のおかげではない。米国の核の傘に守られて

いたおかげだ。だから核兵器は必要(少なくとも必要悪)だ

こう主張する人々を話し合って説得するすべを,あなたたちは持っているのかい?

上の主張には,それなりの説得力はあるんだな。

たとえば日本で死刑制度が存続している1つの理由は,多くの人が「死刑が犯罪の抑止力になる」

と信じているからだ。だから「核兵器が戦争の抑止力になる」と考える人がいても全く不思議じゃない。

ここで「死刑と核兵器を同列に扱うことはできない。死刑は本人が犯した罪の代償だが,核兵器の

被害者は無実だ」なんてバカなことを言う人が時々いる。そういう人が議論を不毛なものにする。

今問題にしているのは核兵器や死刑の「抑止力」であって,受ける側の罪は関係ない。

まともな思考訓練ができていない人同士が議論すると,えてしてこんな袋小路に迷いこんでしまう。

 

折りしも先日,同じ中国新聞に,共同通信社が全国の被爆者に対して実施したアンケートの

結果が載っていた。「憲法9条の改正をどう思うか」というテーマで,うろ覚えだが,無回答や

「どちらとも言えない」が2割くらい,「反対」が65%くらい,「賛成」が15%くらいだった。

この「15%が賛成」という数字は,決して小さくはない。その人々は基本的に「自分は

原爆の被害を受けた。しかし憲法9条は改正して日本も国際貢献すべきだ」と考えているわけだ。

中国新聞には原爆関係の記事が年中載っているが,そこには「核兵器廃絶運動=反戦運動」

という図式が明らかにある。また福島の事故以降は「核兵器廃絶運動=原発廃止運動」という

図式も新たに加わった。しかしこれらの「=」の記号は,決して自明ではない。

「核兵器には反対だが,原発には賛成」という人たちだって,世間には少なくないはずだ。

中国新聞の「核」関連記事は,いわばそういう「少数者」の声を無視して,自分たちにとって

都合のいいニュースだけを選んで情報操作をしようとしているように見えることがよくある

(マスコミは全部同じだが)。そこがどうしても,生理的に引っかかるんだな。

中国新聞社の志を否定しているわけではないよ。気持ちの問題だね。

 

最後に。「広島をまどうてくれ」という言葉が好きじゃないのは,発想が非建設的だからだ。

「元にもどす」とはどういう意味なのか?原爆で死んだ人を生き返らせてほしいということか?

被爆者の失われた健康を回復してほしいということなのか?そんなことは不可能だ。

不可能なことを主張しても,問題の解決にはならない。厳しく言えば,ただの八つ当たりだ。

そういう言葉が「限度を越えた苦しみや怒り」を表現するためのレトリックであることはわかる。

しかし「広島をまどうてくれ」という言葉には,どうしても「原爆を落としたアメリカ」に対する

強い非難の響きがつきまとっている。アメリカ市民がそれを聞いたら,多くの人は「もともと

戦争を仕掛けてきたのは日本だろう。自業自得だ」と思うだろう。

彼らは原爆投下を正義だと思っているのだから。

 

もちろん,広島や長崎に落とされた原爆に「正義」はない。多くの一般市民が死んだからだ。

戦争で兵士が死ぬのは当たり前だが,一般人を殺すのはルール違反だろう。

すべての兵器は非人道的だが,あえて核兵器だけを「非人道的」だと言うとしたら,

その理由は「一般市民を巻き添えにする」という点にしかない(地雷も同じだ)。

核兵器廃絶運動は,その点に絞って世界にアピールしてはどうだろうか。

たとえば,「抑止力として核兵器を持つことまでは否定しない。しかしその核兵器を,

多くの一般市民を殺傷するために使うことは許されない」という理屈だ。

(逆に言えば,小規模の核兵器を敵軍の駐屯地に向けて使うのは許される。

ただし核兵器をそういう目的に限定して使うなら「戦争の抑止力」にはならないから,

実際には小規模攻撃には安上がりの通常兵器が使われるだろう)

 

上の理屈だったら,原爆投下を正義だと信じているアメリカ市民も納得してくれると思う。

実際のアメリカの原爆展示などがどういう形で行われているのかは知らないが,

核兵器を「国と国との戦争」の1つの手段としてとらえるのではなくて,一般市民が

受けた一種の「天災」のようなものとして(つまり善悪の判断とは切り離して)提示する

方が,抵抗が少ないんじゃないかと思う。少なくとも「原爆を落としたアメリカが悪い」と

いうような印象を与えかねないような展示方法や新聞記事の書き方はやめてほしい。

それはお互いの中にくすぶっている反発の火種に油を注ぐ結果にしかなりそうにない。

 

つまり何が言いたいかと言うと,理想論を主張して満足しているだけでは何も解決

しないということだ。名指しはしないが,日本にはそういう政党もあるよね。

現実の問題を解決するためには,全然意見の違う相手を前にして,多くの妥協を重ね

ながら少しずつ前へ進むしかない。「絶対悪」とかいう言葉の使い方は,その努力を

放棄して現実から逃避したがる怠け者のセリフだろう,という気がするわけですよ。

 

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