日記帳(2015年12月26日)

 

今年もあとわずか。年賀状も出したし掃除もしたし,あとはおせちを作るだけだ。

今年を振り返って,感じたことをいくつか。毎度堅い話で申し訳ない。

日記には書いてないが,秋に家族で京都へ旅行した(正確に言うと,東京出張の

帰りに京都で家族と待ち合わせて,1泊して観光地を回った)。

清水寺へ行くと「今年の漢字」の投票箱が置いてあったので,「安」と書いて入れた。

同じことを考えた人が多いようで,今年の漢字として一番票を集めたのは「安」だった。

週刊誌のコラムニストの一人が,「安保法案のときはあれだけみんな反対したし,

労働者や消費者の環境も悪化する一方なのに,11月末の内閣支持率は48%に

まで回復している。この理由がまるでわからない」というようなことを書いていた。

気持ちはよくわかるが,この人もまた,いわば「自分の見たいものだけを見る病」に

かかっている面がある。安倍内閣の支持率が上がったことが「けしからん」という

曇った目で見れば,目の前にあるものでさえ見えなくなってしまう。

現に支持率は上がっているのだから,「その理由は何だろう?」という純粋な疑問に

立ち返って考えれば,見えてくるものもあるんじゃないだろうか。

事実の解釈は人によって違うから,「オレの意見が正しい」なんて言うつもりはない。

ただ,オジサンは次のように思うのだな。

 

たとえば,「生き方」に関係する本はいつの時代でもよく売れるし,雑誌や新聞には

たいてい「身の上相談」の欄がある。伊集院静氏はその分野の人気者の一人で,

今年出た「大人の流儀」シリーズの「追いかけるな」という本もよく売れているようだ。

実際にこの人が文春に連載しているコラムを読むと,(編集者が意図的に選んでいるの

だろうが)愚かと言うほかない質問に対して,一刀両断の(だいたいはまっとうな)回答が

書かれていることが多い。こういうのを読むと,質問者は「偉い人に叱られたい」という

マゾヒスティックな欲求の持ち主であり,多くの読者も潜在的にその欲求を共有している

ということが,この種の身の上相談コラムの人気の背景ではないかという気がする。

堅い言葉で言えば,彼らは依存症的な性格を持っているのだ。

そういう人は,自分を引っ張って行ってくれる人間や助言を常に求めたがる。

そしてここでもまた,彼らは自分が見たいものだけを見て,聞きたいことだけを聞く。

たとえば「いくら食べても簡単にやせられる」「楽をしてお金がかせげる」「たったこれだけで

英語がペラペラしゃべれる」− こんな宣伝文句にだまされて無駄金を使う人がどれだけ

多いことか。もっともその金は,彼らに一時の夢や自己満足を与えてくれるという意味では

全くの無駄金じゃないのかもしれないが。

 

そしてオジサンの社会経験から言えば,日本人にはこの種の他者依存型の性格の

持ち主がかなり多い(少なくとも西洋人よりはその比率が高そうだ)。

このことが,安倍内閣の支持率の上昇を説明する1つのヒントになると思う。

安倍内閣を「支持する」という回答の背後にあるのは,安倍総理個人やその政策への

積極的な評価ではなく,さらに(回答者自身が思っているような)「他の政党や人物に

比べればましだ」という消去法的結論でもなく,もっと漠然とした気持ち,つまり

「安倍さんに象徴される権威に頼りたい」という他者依存の精神性じゃないだろうか。

易しく言い換えれば,「偉い人が何とかしてくれるだろう(そう思いたい)」という気持ちだ。

 

でも,これは仕方のない面もあると思う。西洋諸国とは違って,日本の民主主義はアメリカから

与えられたものであって,自分たちが努力して勝ち取ったわけじゃない。つまり日本人の

価値観や社会構造は,戦前も戦後も一貫して「上から与えられたもの」でしかなかったので,

「自分たちの社会を自分たちの手で作る」という発想が生まれにくい。

いわば,日本人全体が甘やかされて育った坊ちゃん嬢ちゃんみたいなものだ。

「偉い人たちが何とかしてくれる」うちは,それでもいいのかもしれない。

高度成長期の日本は,そんな感じに近かったのだろう。

現代は「偉い人たちは何もしてくれない」という状況に限りなく近い。

しかし一般庶民の中の一定の割合の人々は,その現実を見ようとしない。

なぜなら彼らは,自分の見たいものしか見ないから。

ある者は「昔はよかった」と自分を慰め,昔から慣れ親しんだ社会環境が一番いいと信じ,

もはやどこにも存在しなくなったそれ(社会環境)を夢の中に追い求め続ける。

それでも本人が曲がりなりにも生きていけるのなら,それはそれでいいんじゃないのかな。

実際,日本だけが特別ではないことは,アメリカでもトランプとかいうイカれたオヤジが

大統領になりかねないという悪夢のような状況を見てもわかる。

 

話が飛躍するかもしれないが,ある人が何かの行動をしたとき,その動機,つまり「心」と,

その行動の結果には次の4つのパターンがあるだろう。

(A)心は good,結果も good

(B)心は good,結果は bad

(C)心は bad,結果は good

(D)心は bad,結果も bad

この4つのうち,(A)は賞賛されるべきだし,(D)は非難されるべきだ。

では,(B)と(C)はどうだろうか。もっとも,(C)はレアケースだろう。

よこしまな動機で行動して,好ましい結果が出ることはあまりない。

たとえばXがYに「宝くじの当選番号を教えます」という詐欺を仕掛けて100万円を騙し取ったが,

Yが教えられた番号はたまたま1億円の当たりだった,とかね。

こういうケースでは,YはXに感謝こそすれ,文句は言わないだろう。

問題は(B)のケース,つまり「動機はいいが,結果が悪い」という場合だ。

こういうケースは世の中に山ほどあるが,それをどう評価するかは人によって違うだろう。

オジサンは,こういうケースでは,その行動をした人を責めないというポリシーを持っている。

いくつか具体例を挙げてみよう。

 

@ 世間はかつての民主党政権をボロクソに言うが,オジサンはそうは思わない。

彼らの「心」は good だったと思う。何より彼らには「政治を変えよう」という志があったし,

彼らなりに頑張った(たとえばマニフェストや事業仕分け)。結果が出せなかったのは,

官僚とのコネが弱かったのが最大の理由だろう。(逆に言えば,安倍政権が出している

好結果(のように見えるもの)は,安倍氏および自民党が官僚との太いコネを持っている,

すなわち利権の配分に長けているからにすぎない)

「志や動機がいくら立派でも,結果が出ない行動に意味はない」と言う人もいるだろうが,

オジサンはそうは思わない。約束した結果を出せないのは社会的には(つまりマクロの目で

見れば)責められるべきだろうが,オジサンは基本的に1人1人の人間をミクロの目で見る。

鳩山さんも,管さんも,そしてもちろん安倍さんも,個人的欲望を満たすとかいうような邪心で

行動したわけじゃない。だから,出てきた結果がどうであれ,オジサンは彼らを責めない。

 

A NHKの「映像の世紀」のデジタルリマスター版(昔放送した番組の再放送)を見ていると,

太平洋戦争時の日本の神風特攻隊の映像が出てきた。そういう編集をしているのかも

しれないが,目的を果たして敵艦まで届いた飛行機は1つもなく,すべて撃墜されていた。

そこに,生き残った戦闘隊員のナレーションがかぶさる。彼は「自分も最初はお国のために

命を捧げるつもりだったが,途中から『このやり方ではだめだ(無駄死にだ)』と思うようになった」

という趣旨のことを語っていた。

さて,そのようにして目的を果たさず撃墜された飛行機乗りたちを,あなたは批判するだろうか。

「(お国のためという)動機がいくら立派でも,結果を出さなければ意味がない」と責めるだろうか。

そんな人は,まあ100人に1人もいないだろう。それはなぜか?言うまでもない。

多くの人は,彼らが結果を出さなかったという事実よりも,彼らの動機の「美しさ」を重視するからだ。

では,その「美しさ」の内実とは何か?それは一言で言えばストイシズム,すなわち禁欲的な姿勢だ。

この場合で言えば,(禁欲的に)自分個人の利益を犠牲にして公共に尽くそうという気持ち。

それが,多くの人をして「美しい」と思わせるのだ。ここまではまず誰も異論はないだろう。

 

B では,フランスで自爆テロを起こしたイスラム国の兵士たちはどうだろうか?

結論を先に言うと,オジサンは彼らを責めようとも思わない

日本の神風特攻隊員(=A)とイスラム国の戦士(=B)との間にある差を,オジサンはこう考える。

まず「犯罪性」の度合いが違う。戦争のプロ同士の戦いであったことを考慮すると,Aの犯罪性は

ゼロだとも言える。一方,Bは民間人を攻撃したという点で大きな犯罪性がある。

しかしオジサンは,「犯罪者は悪い」「だから彼らに刑罰を与えるべきだ」という類の(マクロ的な)

議論にはあまり興味がない。そういうことは,法律や裁判の専門家がやってくれればいい。

犯罪とは個人の行為と社会の関係の中で論じられるものであり,同じ行為でも状況によって

犯罪として扱われたりそうでなかったりするものだ。殺人もしかり。そこは本質的な問題ではない。

オジサンにとってより大きな意味があるのは,行動の背後にある個人の動機だ。

そのアンテナに引っかかる事件には,敏感に反応してしまう。

そして動機の点では,ある意味でA<Bだとオジサンは思っている。

つまり,神風特攻隊員よりもイスラム国の戦士の方が,動機の「美しさ」は上かもしれないと思う。

どちらも,ある程度の宗教的洗脳を受けている点では同じだ。

しかし特攻隊員たちは,国が始めた戦争のシステムの中に組み込まれており,選択の自由がなかった。

だから,上に書いたように「このやり方じゃだめだ」と兵士が思っても,自分ではどうしようもない。

一方イスラム国の兵士たちは基本的に志願兵であり,誰かに強制されて兵隊になったわけじゃない。

だから,逃げようと思えば逃げることもできる。しかし彼らは,死を覚悟してパリでテロを起こした。

そこにあったのは「大義に殉じる心」であったに違いない。

ジャンプのマンガで言うと,ヒーロー殺しだね。(知らない人にはスマン)

その大義が正しいか間違っているかは,ミクロ的な視点から見れば大きな問題じゃない。

たとえどんな大義があろうと,自分が死んでまでそれを貫くような真似はオジサンには決してできない。

あくまでミクロ的には,1人1人のテロリストの「心」は,基本的に good だったんじゃないかと思うのだ。

道徳的な善悪の話じゃない。「禁欲」という1つの尺度に照らして判断するとそうなるということだ。

先に言ったように,「心は good,結果は bad」というケースでは,オジサンはその行為をした人を責めない。

「動機がいくら good でも,結果がそれをはるかに上回るほど bad だったら,当然その行為はアウトだろう」

と多くの人は思うかもしれないが,両者は定量的に比べられるようなものではないのだよ。

共感できない人には,無理にわかってもらわなくていい。ただの独り言だ。

 

C「下町ロケット」の中で,主人公の佃社長と一部の社員が口論になる場面がある。社員たちは言う。

「社長は夢を持つことが大事だと言うが,夢を追いかけて会社が潰れたらどうするのか?」

この場合,社員たちの主張の方が正論だ。

社長には社員の生活を守る責任がある。自分の夢のために社員に迷惑をかけてはいけない。

ドラマの主人公は夢と実益の両方を勝ち取るが,現実はそう甘くない。

このドラマの中で主人公の言う「夢」とは,要するに個人的欲望に過ぎない。

もちろん本人は「社会の役に立ちたい」というような大義を口にする。

しかしそれはいわば口実であって,彼の本質は,家族に目を向けずに仕事や山登りや釣りや

パチンコに没頭する「仕事(あるいは遊び)中毒者」に近い。そういう人は世の中にいくらでもいる。

ワタミの社長だって,自分では社会に貢献したい,あるいは現に貢献していると思っているかもしれない。

しかし彼のような人物が世間の共感を得られないのは,多くの人が彼(を含めた新興企業の社長)の

行動に「個人的な欲望(野心)のために周りの人々を踏み台にしている」というマイナスイメージを

重ね合わせるからだろう。そしてその見方は,たぶん間違っていない。佃社長もそれと紙一重だ。

「下町ロケット」は感動的なドラマだが,現実にあの佃社長のような人物がいて,自分の夢を

追いかけた果てに会社が倒産したら,オジサンはマクロ的にもミクロ的にも彼を非難するだろう。

 

D 君は「おっぱい募金」を知っているか?

http://adult.skyperfectv.co.jp/24h_2015/charity01.php

オジサンはこれを,週刊朝日に書いている北原みのりという人のコラムで知った。

STOP AIDS チャリティー  エロは地球を救う」というイベントの一環で行われているものだ。

このネーミングから想像できるとおり,「募金をする代わりにお姉さんのおっぱいに触れる」という

イベントなわけだ。北原氏はこれが「セクハラだ」と批判しているが,君はどう思うだろうか?

オジサンはこう思う。目に見える結果としては,これをセクハラだと感じる人もいるかもしれない。

しかし,自分のおっぱいを触らせているお姉さんたちの心はどうだろうか?

もちろん高額の(?)報酬につられた人もいるだろうが,自分が女だと仮定しても,

不特定多数の人に次から次へ体を触られるのは楽しい気分ではないだろうと想像できる。

触られ役としてこのイベントに参加した彼女らの心にも,やはり「こんな自分でも世の中の役に

立てるなら」という思いが,程度の差はあれあったはずだ。プチ神風特攻隊と言ってもいい。

だからオジサンは,彼女らの行為は立派だと思う

このイベントに参加して募金する人の動機も,単なるスケベ心だけではないはずだ。

大半の人は「一石二鳥」という気持ちじゃないだろうか(詳しくは説明するまでもない)。

だから,おっぱいを触られる側と触る側との間には共通の志がある。よくできたイベントだ。

ただし,じゃあおまえも近くに住んでいれば触りに行くか?と問われると,絶対行かない。

恥ずかしく情けない話だが,若い頃はお金を払って女性とお話その他をするお店へも普通に

行っていたのだ。しかし,若者に接する仕事をしていたせいもあって,だんだん誰にでも感情移入

する癖がついてしまい,「この人たちも生活のために苦労してるんだろうなあ」という背景を想像

すると,そういうお店で無邪気に遊ぶのが心情的に辛くなってしまったんだね。

 

初めのテーマに戻ろう。

安倍政権の支持率はなぜ回復したのか?

その背景には,日本人全体の他者依存的な精神性があると思う。

つまり,心が弱い。そういう人々はたいてい,集団帰属意識が強い。つまり,群れたがる。

だから多数派の側につこうとする。売れている本はますますよく売れる。くやしい。

強い魚は群れを作らないが,弱い魚は群れで泳ぐ。

弱いことが悪いわけじゃない。だから,群れることもそれ自体は悪くない。

ただ,群れの中に入っていると,その群れがどこへ向かっているかが見えなくなりやすい。

群れの中にいるという安心感が先に立って,危険を察知する能力が鈍るからだ。

気がついたらみんなで断崖の上にいた,というレミング状態になりかねない。

しかしそれも,言ってしまえば自業自得だ。

そういう状況に追い込まれるのが嫌なら,最初から群れに入らなければいい。

 

民主主義とは,個人主義だ。

個人の意志の力が弱い土壌の上には,民主主義は開花しない。

早くも週刊誌上では,来年の選挙で自民党が大勝するという予想も出ている。

そうなっても,それはそれでいいんじゃないかと思う。

護憲派と呼ばれる人々がいる。彼らは,自分らの主張が正しいと思うのなら,

憲法改正の国民投票をやろう!と積極的に世間に訴えるべきだ。

それで反対者が多ければ憲法9条は守れるのだから,何の問題もない。

しかし彼らは,憲法改正の国民投票の実施自体を恐れているように見える。

それはなぜか?答えは簡単だ。もし国民投票で多数決によって憲法改正が決まったら,

自分(たち)は社会の中では少数派でしかなかった」という事実を突きつけられることになる。

彼らはその現実に直面するのが怖いのだ。

つまり彼らは,仲間内だけで盛り上がって「オレたちの群れの方が大きいよね」という

幻想(かどうかはわからないが)にいつまでも浸っていたいのだ(つまり極めて保守的だ)。

弱い者ほど群れたがる。彼らの発想は典型的な弱者のそれであり,同時に彼らは

「自分が見たいものだけを見る病」の重症患者だ。

もう一度言う。民主主義とは個人主義だ。

一人一人がそんな弱い心しか持っていない君たちに,民主主義を守ることができるのだろうか。

オジサンは,分類するなら護憲派だ。しかし今の護憲派の論調に賛成するわけではない。

自分の頭で考えた結果,9条は今のままでいいと思っている。

そして,国民投票を早く実施してほしい。

オジサンは,憲法9条の改正には反対の票を入れるだろう。

結果的に賛成者の方が多くて,9条が改正されたって全然かまわない。

それが多数の国民の意志だというのなら,当然その決定には従う。

それが民主主義というものではないのかい。

 

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