日記帳(2016年2月14日)

 

ほぼ毎日行くスーパー(ハローズ)の売り場に「明かりをつけましょ〜ぼんぼりに〜」の

メロディが流れる季節になった。あれを聞くたびに,1年が過ぎる早さを感じる。

そう言えば,今日はバレンタインデーだった。

例年1〜2月ごろに仕事の依頼が重なって,夏ごろまでの予定がびっしり埋まっている。

ちょうど寒い時期でもあるし,2月はだいたい週末も黙々と仕事をして過ごしている。

息抜きにちょっと日記を。

 

2か月近く日記をつけてなかったが,その間にも世間ではいろいろあった。

まず,自民党の育休議員(宮崎謙介・35歳)。

まあ,同情の余地はない。国会議員として復帰するのはもう無理だろう。

奥さんの出産直前に自宅で浮気とか,人としてダメだろう。− それはその通り。

でもなあ…オジサンの人生経験から言うと,浮気というのは結局生まれつきの気性に

よるのであって,一種の病気なんだな。そういう意味では気の毒だ。

知人の中にも,居酒屋で注文を取りに来たアルバイトの子にもちょっかいを出す人がいる。

その人たちにとっては,そういう行為が酒やタバコを楽しむのと同じような感覚なんだと思う。

浮気ぐせは病気だから,簡単には治らない。ただし,お金がなければ浮気はしにくい。

うちの娘らには,小学生の頃から繰り返して忠告していた。前にも書いたかな?

それは「金持ちとは結婚するな!」だ。男は金を持ったら浮気をする生き物だから。

宮崎議員の奥さんは気の毒だが,(たぶん)金持ちの男と結婚したらそういうこともある

というリスクを承知しておくべきだった,ということだな。

男とのトラブルといえばベッキーも被害者だけれども,彼女の場合は心配ない。

そのうちテレビにも復帰して,前と同じように活躍するだろう。

相手の男もゲスではあるけれども,芸能人だからたぶん許されるだろう。

まあ,いいんじゃないですかね。

 

それに対して,甘利大臣の辞任に対しては「釈然としない」という感想を持つ。

世論調査では「辞任が当然」という声が多く,政治とカネの問題もしつこく繰り返されている。

しかしオジサンは,甘利大臣は辞任すべき(あるいはさせるべき)ではなかったと思う。

この人はTPPを初め,安倍内閣のキーマンだったはずだ。

日本が直面している当面の政治問題に対処するための,余人をもって代え難い人材じゃないのか?

そんな人の首をホイホイすげ代えても後任に仕事が勤まるほど,政治っていうのは簡単な仕事なのか?

だったら国会議員に高い給料を出す必要はないんじゃないの?人工知能に代えりゃいいんじゃないの?

要は,損得勘定の問題だ。

甘利大臣が辞任することのプラスと,辞任しないことのプラスとを比べて,どちらが大きいのか?

日本の国益を考えれば,今までどおり知識と経験を生かして頑張ってもらう方がはるかに得策だと思う。

しかし世間は,甘利氏に「辞任しろ」と迫る。そこに潜む問題点を,どれだけの人が感じているだろうか。

その問題点とは,要するに「ゼロか100か」の発想だ。

100の善行を積んでも,1つの悪行ですべてが否定される。

「悪行」がそういう評価に値するほど罪深いものなら,仕方がないだろう。それが宮崎議員のケースだ。

でも,甘利大臣の場合はどうなの?

仮に彼が数十万円を賄賂と認識して胸ポケットに入れたとしても,それはそんなに悪いことなの?

ここの感覚は人によって違うから,オジサンの意見を他人に押し付けるつもりはない。

もちろん悪いことには違いないが,100の善行を打ち消すほどではないと個人的には思う。

何の見返りも期待せずに金を出すような奴はまずいないから,企業献金だって本質的には賄賂だろう。

犯罪としての立証が難しいという現実的な理由で,見逃されているだけだ。

つまり政治とカネの問題は日本の社会風土の反映であって,個人の責任に帰するのは酷だと思う。

時速40キロ制限の道を50キロで走ることを,多くの人は許容するだろう。それと同じだ。

「甘利大臣は辞任すべきだ」という圧力は,結果的に日本の国益を損ねるかもしれない。

それでもなお自分の「正義感」を優先すると言うのなら,それは単なる自己満足なんじゃないの?

 

「ゼロか100か」の悪しき発想の例をもう1つ。

きのうの中国新聞に,モニター読者からの意見が載っていた。テーマは憲法(9条)改正

その中でこの人は,「憲法9条改正の判断の分岐点は,日本を『戦争をする国』にするか,

『戦争をしない国』にするかだと思う」という趣旨のことを書いていた。

笑止!

2ちゃんねるじゃないんだから。真面目に物を考えようとするなら,もっと頭を使わんと。

上の赤い文字のように問題点を設定した場合,思考はそこで停止してしまう。

自分の頭の中で既に結論が出ているからだ。

いわば「犯罪は悪いことだと思いますか?」と尋ねているに等しい。

「日本は『戦争をしない国』であるべきだと自分は思う。憲法9条を改正すると日本は

『戦争をする国』になる。だから自分は改正反対派であり,賛成派は間違っている」

― このような,意見の違う人々を排除する「ゼロか100か」の思想が見え見えだ。

この人は,憲法9条の改正に賛成する人々(この人の言葉で言えば「日本を『戦争を

する国』にすべきだと思っている人々)の意見に耳を傾ける意志を持っていない。

それは,ものを考えるという営みに対する不誠実な態度だ。

 

「憲法9条改正の分岐点」は,次の問いに集約できるとオジサンは考えている。

「自分の国(日本)は自分(日本人)の手で守るべきだ」という考えにあなたは賛成ですか?

この問いに対する答えは,大別すればイエスかノーかだが,それぞれにいくつかのバリエーションがある。

以下,それぞれの答えを出した人に順に尋ねたい。

@「イエス」と答えた人へ

この答えを出した人は,次の2つのグループに分けられる。

(A)日本は(アメリカに頼らず)日本の自前の軍事力で守るべきだ。

(B)日本は日本人の手で守るべきだが,その手段は軍事力ではない。

まず(A)の答えを出した人へ。日本を自前の軍事力で守のなら,現在の安保条約は不必要になる。

もちろん,自前の軍事力と安保条約の二段構えにすれば,安全保障はより強固になるだろう。

しかし沖縄基地の問題を考えると,迷惑な米軍基地はない方がいいだろう。つまり安保条約の破棄だ。

現実にそれが可能かどうかの議論はさておき,仮にそういう方向に事態が進んだ場合,必然的に

「徴兵制」の議論は避けられない。よその国も自国を自分の手で守るために徴兵制を敷いている。

つまり(A)の答えをした人は,「徴兵制に賛成」と言う限りにおいて考え方の筋が通っている。

「日本は自前の軍事力で国を守るべきだが,徴兵制には反対」と言うのなら,それはただの身勝手だ。

一方,(B)の答えをした人は,「軍事力を使わず,なおかつアメリカの助けを借りなくても,日本は

自国を守れる」と考えていることになる。じゃあ,具体的にはどうやって国を守るのか?

その案を出さない限り,あなたの考え方はただのユートピア思想だ。

A「ノー」と答えた人へ

「自分の国は自分の手で守るべきだと思いますか?」という問いに「ノー」と答えた人は,

じゃあ誰が日本の国を守るのか?」という問いにも当然答える義務がある。

これに対しては,頭を柔らかくして考えれば,次の3つの答えが想定できる。

(C)日本は(今までどおり)アメリカの軍事力で守ってもらえばよい。

(D)そんなことを考える必要はない。なぜなら(アメリカとの同盟があろうとあるまいと)

日本に攻めてくるような国はたぶんないから。

(E)そもそも「国を守る」必要はない。なぜなら日本が攻撃されても自分はかまわないから。

(D)と(E)は非常識に思えるかもしれないが,「(A)〜(E)のどれか1つを必ず選んでください」と

言われれば,消去法で(D)か(E)を選ばざるを得ない人も少なからずいるような気がする。

(D)は(B)に輪をかけて能天気だが,(E)はそれなりに筋が通っている。

日本が危険になってもオレは外国に逃げるからいいもんね,という発想を非難すべきではない。

そういう人を自分勝手だと責めるなら,じゃあ沖縄の基地を放置するのは自分勝手じゃないのか,

というツッコミが返ってくるだろう。

(C)は現状の安保体制を維持する立場だが,ここでもやはり「沖縄の米軍基地はどうするのか?」

という問題に突き当たる。安保体制のもとでは,米軍基地を日本のどこかに置くことは避けられない。

沖縄だけに負担を押し付けていいのか?もし日本のどこかに基地を移転することができるなら,

あなたの住む場所の近くに基地ができてもいいのか?

この問いに対して「イエス」と答えるなら,あなたの考えには筋が通っている。

「ノー」と答えるなら,あなたはもっと真剣に物を考えるべきだ。

 

ちなみにオジサンが選ぶとしたら,(C)だ。(B)と(D)は,いい大人が選ぶような選択肢じゃない。

徴兵制はいやだから(A)もパス。身寄りがなければ(E)を選ぶが,さすがに家族を捨てて一人で

外国へ逃げるわけにもいかんのでね。(C)を選ぶ以上,米軍基地が福山へ来ても仕方がない。

米軍基地は,10年サイクルくらいで日本中を転々と移動すればいいんじゃないの?移転先の

経済活性化にもなるし,基地にまつわるリアルな問題を全国民が共有するという観点からもね。

 

話は変わって。2月11日の中国新聞の社説欄に,オレオレ詐欺をテーマにした論説が載った。

その冒頭の一節を引用すると,次のように書かれている。

「オレオレ詐欺」とも呼ばれる振り込め詐欺について折々漏れ聞く中で,ずっと,

ふに落ちなかったことがある。不始末をしでかした子や孫になりすまし,窮地を

しのぐための金策をせがむ―。そうした手口は目に余るほどあるのに,どうして

その逆は一向に現れないのだろうかという疑問である。

つまり,金に困った親や祖父母を装って,子や孫に泣きつく―。

「ワシワシ詐欺」とでもいうようなパターン。

とりあえず以下は省くが,どう突っこめばいいのやら。

「ワシワシ詐欺」が起こらない理由?そんなもん,決まっとるやないか。

子や孫は金を持ってないし,ボケでもないからだよ。

まあこの部分は,つかみに失敗してすべったと好意的に解釈したとしても,

このあとに書いてあることもナンセンスだった。

要約するとこんな感じだ。

@オレオレ詐欺に騙される人は悪くない。子や孫を心配する気持ちは誰にでもある。

Aそれを筆者は「親心スイッチ」と呼び,対策としてそのスイッチを切る訓練が必要だと説く。

B具体的には,子や孫から高齢の親や祖父母に電話をかけてもらい,受けた側は

10秒以内にその子や孫の携帯電話に折り返し電話する訓練をすればよいと言う。

(警視庁がこの訓練を指導しているという)

以下,突っこんでみたい。

まず,この記事のタイトルは「親心スイッチをあえて切る」だったが,Bのような訓練を

「親心スイッチを切る」と称するのは不適切だと思うが,どうか?

また理由は詳述しないが,Bのような訓練が実際に有効かどうかはかなり怪しい。

現実にこの訓練を実行しようとすれば,問題点がいくらでも思い浮かぶ。

さらにこの記事の最後は,次のような文面で結ばれている。

子や孫から,たとえ泣きつかれても「いい年なんだから,自分の責任で何とか

始末をつけなさい。いつまでも頼ろうとしなさんな」と,突き放せる間柄の家庭も

あることだろう。今どきの犯罪は,子離れや親離れが思うに任せないといった,

家族関係の泣きどころもあぶり出している。

記事全体が「親心スイッチ」を肯定して書かれているのに,この結び方はおかしい。

全体の論調と矛盾している。「論説委員」の肩書きが泣こうというものだ。

 

では,オレオレ詐欺に対するオジサンの感想と対策を述べよう。

年寄りが金をだまし取られたって?取られた本人は,大して困らないんじゃないの?

墓の中まで金を持って行けるわけじゃないんだから。

困るのはむしろ,本人の子や孫だろう。自分らの受け取る遺産が減るんだから。

そう考えると,オレオレ詐欺を防ぐ責任の主体は,子や孫の方にあると言えるだろう。

親が詐欺にあって遺産が減るおそれがあると思ったら,人はどんな行動をとるか?

電話をかけ直す訓練みたいな面倒なことは,普通の人ならやらないんじゃないですかね。

もっとダイレクトに,親のお金を自分(たち)が管理しようとするかもしれない。

あるいは親の銀行口座を解約して,実家に金庫を買って現金を入れておき,親には

鍵を持たせない(大金が必要なら子が立ち会って金庫を開ける)とかね。

そういう本気の対策を怠って親が詐欺に引っかかっても,それは自業自得でしょ。

損するのは,遺産を相続する自分なんだから。

 

それと関係あるようなないような話。

これも2月11日の新聞に,川崎市の殺人事件の判決の記事が載っていた。

19歳の被告は,中学1年の男の子を殺した罪で,懲役9年以上13年以下の刑を受けた。

これに対して被害者の父親が「刑が軽すぎる」とコメントした。記事には次のようにある。

(被告の)責任を減少させる事情として「暴力容認の価値観に根ざした年齢不相応な

未熟さは,成育環境が相当に大きな影響を与えている」と(裁判長は)説明した。

こういう記事を読むたびに,日頃から疑問に思っていることがある。

上の説明をわかりやすく言えば,たとえばこういうことだ。

「被告の罪は,本来は懲役20年くらいの悪質さだ。でも親の育て方が悪かったと

いう気の毒な面もあるから,その分を割り引いて,懲役13年にしたんだよ。」

これ,おかしくね?

「この罪は懲役20年相当です。しかし被告の罪の責任は親の育て方にもあります。」

と言うんだったら,「本人は懲役13年+親は懲役7年」と判断するのが筋じゃないの?

つまり,親の育て方が悪かったというのなら,親も有罪にすればよいのだ。

そうすれば被害者の親族も納得するだろう。

ましてこのケースでは被告は19歳の未成年なんだから,親の責任を問うてもいいはずだ。

そもそも刑罰の目的は,「報復」ではない。

罪を犯した人を(罪の重さに応じて一定期間)刑務所に入れて「教育」を施し,二度と罪を

犯さないようにして出してあげる,というのが一般的な刑罰の背景にある思想だろう。

だとしたら,たとえばこんなケースはどうか。

ある親には,A(18歳)・B(15歳)の2人の息子がいる。親は子どもに暴力をふるって育てた。

兄Aは殺人を犯して裁判にかけられ,懲役20年を宣告された。

本来は無期懲役もありえたが,親の育て方にも問題があるとして減刑された。

この場合,親にも有罪の判決を下すことには合理性があると思う。

なぜなら,弟Bも同じ親に育てられているのだから,兄Aと同様に罪を犯すリスクがあるからだ。

ここで親に有罪判決を出せば(執行猶予付きでもよい),親は反省して子育ての方法を直し,

結果的にBの犯罪は未然に防げるかもしれない。つまり,親も強制的に教育するわけだ。

もちろん,このような方法にはデメリットもある。一番考えられそうなのは,虐待を受けて育った

子供が,親への復讐の有効な手段としてあえて罪を犯すことだ(自分の犯罪が親の育て方の

せいだと認定されれば親も有罪になるから)。だから頭の中で考えるほど簡単なことじゃないが,

何らかの形で「育てた親の責任を問う」という視点を裁判に持ち込んだ方が,トータル的には

犯罪の抑止につながるんじゃないだろうか,とオジサンは思うわけだ。

 

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