日記帳(2016年6月5日)

 

先週痛めた腰は9割方回復した。きのうの土曜日は東京から来た仕事関係の人を連れて

大島へ行き,イワシ・アジ・キスなどを釣った。

今日は朝から雨。今月は仕事が忙しいので仕事場にこもっている。

 

最近のニュースから,まず消費税の引き上げが延期された話について。

もともと安倍総理は「延期は絶対しない」と言っていたから,理屈で考えれば明らかに筋が通らない。

しかし,これを争点にした今度の参院選の結果は,傍観者的にはたいへん興味深い。

多くの有権者がどういう判断を下すか,結果が楽しみだ。

「筋が通ろうが通るまいが,消費税が8%で据え置かれるのは自分にとってはありがたい」と

いう理由で,安倍政権や自民党を支持する人もいるだろうし,それが悪いとは思わない。

うちの家族には女が3人いるが,コイツらに選挙権を持たせてホンマにええんかな?と時々

思わないではない。でも,「バカにも選挙権がある」ということが民主主義の真価だと思う。

(なぜなら,私たちは全員,自分で思っているほど賢くはないからだ。要するにみんなバカだ)

しかし,もし今度の参院選で自民党が勝てば(「勝つ」という言葉の定義にもよるが),彼らは

「選挙必勝法」を手に入れることになる。「次回こそ絶対に消費税を上げます」と約束しておいて,

次回の選挙直前に「やっぱり上げるのはやめます」と言えば,その甘い言葉に食いついてくる

有権者がたくさんいることが立証されるからだ。この「増税撤回詐欺」を使いさえすれば選挙に

必ず勝てるということになれば,与党は毎回それに頼るだろう。事前予想が自分らに不利なら,

選挙直前に「消費税を5%に下げます」と言えば,さらに多くの有権者の支持が集まるだろう。

その結果日本の財政は当然悪化するだろうが,それは有権者自身が選択したことだ。

自民党サイドから考えると,「背に腹は代えられない」という理由で今回の増税延期の判断を

支持する人が増えてくれた方がありがたい。ということは,貧富の差が広がって貧乏人の比率が

増えれば増えるほど,増税撤回詐欺を使うことで自民党の支持率は上がることになる。

つまり,所得格差の拡大が自民党の支持率を伸ばすというパラドックスが起こるわけだ。

ぼく自身は1票の権利を粛々と行使するだけであり,選挙結果がどうなろうとかまわない。

みんなで決めたことなんだから,その結果に合わせて自分の生活や姿勢を考えるだけの話だ。

しかし第三者的に見ると,有権者(特に若い層)がどんな判断を下すのかは非常に興味深い。

 

次は,北海道で行方不明になり発見された少年の話。

このニュースが流れたとき真っ先に思ったのは,「とにかく無事に発見されてほしい。

さもないと,非常に多くの人々が苦しむことになるだろう」ということだ。

結果的に助かったのは本当によかった。それを確認した上で少し冷静に考えてみよう。

もしこの少年がどこかで死亡しているのが発見されたら,どんなことが起きていただろう。

まず,両親が大変なことになる。父親はあらゆる方向からバッシングを受け,おそらく仕事も

失っただろう。非難は親族にまで及ぶかもしれない。そして少年の捜索を担当した人々も,

「なぜ生きているうちに発見できなかったのか」と非難されただろう。少年は自衛隊の施設内で

発見されたから,「自衛隊は何をしていたんだ」という批判も当然出ただろう。

それと同時に,「このニュースを聞いて,ほかの人はどう思っただろう」という興味がわいた。

繰り返すが,ぼくは「とにかく無事に発見されてほしい」と思った。

同時にこの少年の親に対して真っ先に浮かんだのは「気の毒だ」という感想だ

「けしからん」とは全く思わなかった。

もちろん虐待や犯罪の可能性もあるが,最初からそういうレアケースを頭に浮かべることはない。

少年が生きて発見されなかったら最悪だし,無事に戻ってきても親は当然非難されるだろう。

しかし親には,おそらく悪気はなかっただろう。子どもに対する「しつけ」として,自分では

許容範囲内だと思った行動を取ったに過ぎない。その結果子どもが死んだとしたら,それは

ある意味で「運が悪かった」ということだと思う。だから親が気の毒だと思ったわけだ。

事件直後から,「自分も親から同じようなことをされたことがある」という感想がネットに多く

出回ったそうだ。親として,また子として似たような経験をした人は少なくないだろう。

一方で,少年が行方不明になったことを報じた新聞記事や翌週の週刊誌の記事では,

親に対して「けしからん」という趣旨のコメントをする識者(教育評論家など)が多かった。

こういう意見については,こんな感想を持った。

「親はけしからん」と言う人たちの考え方には,次の2種類があるような気がする。

(A)どんな理由があろうと,子どもを山に置き去りにすること自体がけしからん。

(B)子どもが行方不明になったのだから,山に置き去りにしたことはけしからん。

つまり(B)は,「子どもを山に置き去りにしたことは許せるが,その子が行方不明に

なったという事実を招いたことがけしからん」と言っているわけだ。

そんなことを言う人はいないだろ?と思うかもしれないが,そんなことはない。

本人が意識していようといまいと,(B)のように結果から逆算して「けしからん」と

主張するような人は少なくない(ように見える)。

そしてぼくは,(B)は言うまでもなく(A)の意見にも賛同しない。

(A)のように考える人,つまり「どんな理由があろうと,山に置き去りにすること自体が

けしからん」と主張する人に聞いてみたいのだが,場所が山ではなくて家(自宅)なら

セーフなんだろうか?

つまり,自宅に外から鍵をかけて子どもを一人で閉じ込めておくという罰の与え方だ。

これに対しては「家なら安全だからセーフだ」という人も,また「ガスの栓など危険な

ものがあるので家でもアウトだ」という人もいるかもしれない。

しかし,主婦が小さな子どもを家に残して買い物に行くのはごく普通のことだ。

その場合でも「30分くらいならセーフだろう」「1時間だとちょっと心配だ」のような

ケースバイケースの判断が介在する。

だから,「(たとえ目を離した時間がわずか5分であっても)子どもを山に

置き去りにしたのはけしからん」というのは,そう主張する人の安全性の

さじ加減に基づくものでしかなく,普遍的な真理では決してない

あなたはそう判断するが,今回の少年の親は「この程度の時間ならセーフだろう」と

判断したのだ。両者のさじ加減は対等であり,どちらがいい悪いという問題ではない。

だからあなたが「私の安全性の感覚から言えば,山に子どもを置き去りにするのは

どんな場合でもアウトだ」と主張することには何の問題もない。

しかし,あたかもそれが絶対的真実であるかのごとく,「私の言うことの方が正しく,

この親の行動は間違いだ」とあなたが主張するのなら,それには賛同しない。

もう一度考えてみてほしい。あなたは,子どもが行方不明になったという結果を,

「どんな理由があっても山に置き去りにしてはいけない」という自分の主張の

根拠にしてはいないだろうか?つまりあなたは,自分の主張が(A)だと思っている

かもしれないが,実質的には(B)の主張をしているのではないだろうか?

もしそうでないと言うなら,あなたは子どもを自宅に残して1時間家を空ける主婦の

行動を危険だと思うだろうか?その時間が15分だったり3時間だったりする場合は

どうだろうか?そしてあなたが行ったその「アウトかセーフか」の判断は,1時間

(あるいは15分あるいは3時間)主婦が留守をしている間に子どもの身に何かが

起きた場合でも揺るがないだろうか?

 

「問答無用だ(どんな事情があろうと〜だ)」というゼロか100かを選択するような

主張の背景には,ケースバイケースの判断を無視する横着な姿勢が潜んでいる。

少なくとも知識人と呼ばれる人たちには,そういうことはしてほしくない。

「自分はバカじゃない」と思っているのなら。

 

この日記帳や雑記帳の記事には

「私はこう思う。ほかの人がどう思うかはその人の勝手だ」

という基本姿勢がある。それを前提にして改めて言う。

(虐待などの悪意に基づくものでない限り)自分の子どもを山に置き去りにした

父親の行為を責めようとは思わない。だから子どもが無事に助かったことは,

この親子にとって(不当な批判を免れるという意味でも)本当によかったと思う。

 

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