日記帳(2016年8月7日)

 

暑さは今がピークで,夜に釣りに行くのも面倒なので,日曜日に何をするか悩む。

今日は夕方ごろ映画館へ行くことにして,それまでの時間つぶしに日記を書く。

最近もいろんなニュースがあったが,まず神奈川県の19人殺人事件について。

これに限らず,世の中の出来事にどういうリアクションをするかを見ると,

その人が今までどういうふうに生きてきたかがおよそわかる気がする。

この事件については,誰でも最初は「ひどい」とか「かわいそう」とか思うだろう。

その先が問題だ。

こういう事件が起きるたびに「原因や背景を徹底的に解明すべきだ」という意見が出る。

「その分析が今後の同種の犯罪の防止のヒントになるかもしれない」というつもりだろう。

しかし,偏見と言われるのを承知で書くが,そういう意見を吐く人の本音は,

他人の不幸を高いところから見下ろして楽しみたい,ということじゃないだろうか。

起きてしまった事件を説明するのは難しくない。

この事件の全容と背景は,新聞や雑誌を読めばだいたいわかる。

人格障害ぎみの26歳の男が殺人衝動にかられて,一番殺しやすい相手を選んで犯行に及んだ。

それだけのことだ。ヘイトクライムとか薬物中毒とか,細かく言えばいろいろあるだろうが。

結局のところ,犯罪の詳細や犯人の生い立ちを好んで知りたがる人は,極論すれば

実際の犯罪を推理小説に見立てて楽しんでいるんじゃないだろうか。

 

では,この事件に対するオジサンの感想を。

まず,「この種の事件を未然に防止することは可能か?」という問いに対しては,

防止策を考えることはできるが,それを実行に移すのは難しそうだ」と答えよう。

防止策には,基本的に次の2つの方向性があると思う。

(A)施設のセキュリティを強化する。

(B)犯罪を起こしそうな人物への監視を強化する。

しかし,どちらの策も実行するのはかなり難しいと言わざるを得ない。

まず(A)は,今回はたまたま障害者施設が狙われたが,「誰でもいいから殺したい」と考える犯罪者が

どこをターゲットにするかを事前に予測するのは難しい。たとえばこの夏にフランスの保養地・ニースで

トラックが花火見物の観客に突っ込んで多数の死者を出したテロ事件があった。

こんな犯罪をセキュリティ強化によって防ぐことは事実上不可能だろう。お金の問題もあるし。

また(B)は,アメリカには性犯罪者にタグをつけて常時監視するシステムがあるらしいが,

今回の神奈川の事件の犯人には前科がなかったから,そういう監視は無理だ。

また,(今回の犯人のように)精神病歴のある者を犯罪者予備軍として監視するというシステムを

作ることは,人権的な見地から考えて不適切であり不可能だろう。

つまり,この種の「通り魔的犯罪」を完全に防ぐ方法はないということだ。

以上のように,マクロ(社会的)なレベルで考えていたのでは答えは見つからない。

そこでミクロ(個人的)なレベルで「自分はこの種の事件にどう向き合うか」を考えると,

結局次の2つの結論に行き着く。

@ できるだけ「通り魔的犯罪」の被害を受けないよう行動する。(家に引きこもるのがベスト)

A 万一「通り魔的犯罪」に遭遇したときのために,心の準備をしておく。

もしも@が現実的に難しいとしたら,残るのはAだ。

仮に自分が通り魔事件の被害者になって大けがをしたり,身内が殺されたりしたとき,

その「不運」にどう向き合うべきだろうか?

その答えは人によって違うだろう。オジサンの答えはこうだ。

たとえば通り魔に身内を殺された場合,最終的には自然災害と同じだと考えるしかない。

犯人を殺してやりたい,とは思うだろう。

しかしたとえ犯人が死刑になっても,死んだ身内が生き返るわけじゃない。

犯人に対する恨みの感情を生涯持ち続けて生きる覚悟は,自分にはない。

また,状況にもよるが,「なぜあんな犯人を野放しにしておいたのか」とか

「もっとセキュリティがしっかりしていれば犯罪を防げたはずだ」のように

社会システムを批判したり施設の管理者に対して訴訟を起こしたりはしないだろう。

それらは結局,「不幸とどう向き合うか」という自分自身の問題から目をそむけて,

社会や他人を責めることで苦しみから逃れようとする現実逃避でしかない。

政治や社会に対する姿勢も同じだ。

人間は飯を食ったり釣りをしたりするために生きているわけではない。

いわんや,政治を語ることが人生の目的だという人はまずいない。

では私たちの人生の目的は何かと言えば,多くの人にとっては「幸せ探し」だろう。

私たちの多くは,幸福感や喜びを感じるために生きている。

大金持ちが幸福だとは限らないし,障害者やその親が不幸だとも限らない。

要は本人の気の持ちようだ。

今の政治や社会が気に入らないと憤慨したところで,それで世の中が変わるわけじゃない。

気に入らない政治や社会を「現にあるもの」として受け入れ,その環境の中で自分なりの

幸福や喜びを追求するのが,人生の意味じゃないだろうか。

自分は政治や社会に文句を言うことで喜びを感じると言うのなら,それはそれでいいけどね。

 

話は変わって,ロシアのオリンピック参加問題について一言。

組織的なドーピングが疑われたロシアの選手をすべての競技から締め出すかどうかについて,

IOC(国際オリンピック委員会)は各競技団体の判断にゆだねるという決定を下した。

結論から言うと,その決定は妥当だったと思う

IOCの決定に対して「責任逃れだ」という批判が多く聞かれたが,その意見には賛成しない。

もっとも,オリンピックに出場する他国の現役選手や元選手が「ロシア選手は全員アウトにすべきだ」

と主張するのは理解できる。不正の疑いのある選手と一緒に競技なんかできるか,という気持ちは

わからなくもない。しかし第三者が同じことを言ったら,それは「不謹慎狩り」と同じ発想だと思う。

ちょっと冷静に考えてみればわかることだ。そもそも,ドーピングはすべての競技に有効なのか?

という素朴な疑問がある。たとえばゴルフ,馬術,射撃,フェンシング,体操など。これらの競技は

体力より技術で勝負するわけだから,体力強化のためのドーピングにはあまり意味がなさそうだ

(ドーピングで技術が上がるなら別だが,そんな都合のいい薬はないだろう)。現にこれらの競技では

ロシア選手の参加を認めており,結局389人のロシア選手団のうち271名が今回のオリンピックに

参加することになった。参加を認められたロシア選手には「おめでとう」と言ってあげたい。

ところで,「IOCは責任逃れをした」と批判した人々にはどんなロジックがあるのだろうか。

1つのケースとしては,たとえばロシアの体操選手が競技終了(メダルの授与)後にドーピング検査に

引っ掛かって失格になった場合,その選手の参加を許可したのはIOCではなく体操の国際競技連盟

だから,IOCは責任を問われない,ということだろう。

一方,IOCが全競技に対して一律の決定を下せば,その決定の責任は当然IOCが取ることになる。

その場合,ロシア選手団に対するIOCの選択肢は「全員セーフ」または「全員アウト」しかあり得ない。

(競技ごとにセーフかアウトかを判断するなら,情報的にも能力的にも各競技団体の方が適任だ)

しかしロシアの陸上選手は既にクロと判断されていたから,残る選択肢は「全員アウト」しかない。

つまり「IOCの責任逃れだ」という主張の本質は,次のようにまとめることができる。

「各競技団体の判断に委ねるのではなく,IOC自らが『ロシア選手は全員アウト』という決断をすべきだった」

この主張が正しいと考える人がもしいるなら,それは愚かであると同時に危険だと思う。

たとえばロシアの射撃の選手が「自分はドーピングをしたという証拠がないのにオリンピックに参加

できなかった」という訴訟を起こせば,全員アウトの決定を下したIOCは負ける公算が高い。

(原告は「射撃の能力を上げるような薬物が現時点では存在しない」ことを医者に証言させれば勝てる)

それ以前に,「シロかもしれない選手」を「疑わしきはクロ」と考えて排除するという発想自体が問題だ

それは「不謹慎狩り」の思想そのものだと言っていい。

少しでもリスクのあるものを排除していけば,行き着く先は「信じられるのは自分(と身内)だけ」になる。

それでは社会は成り立たない。

今回のようなケースで「責任逃れ」という言葉がすぐに頭に浮かぶ人は,やっぱりそういう人生を今まで

歩んできたんだろうと思う。

それは,自分に危険の及ばない高いところから「責任者探し」をしたがる,弱い者いじめの人生だ。

ブルーハーツの名曲『Train Train』に,「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく」というフレーズがある。

責任論をふりかざす人ほど,自分の責任からは逃げようとする。

弱い者がさらに弱い者を自分の脳内で想定して叩いている,という構図だ。

一人一人のスポーツ選手の気持ちにミクロの目を向ければ,「全員アウト」なんていう荒っぽい

判断は出てこないだろうし,(いろいろ複雑な事情はあるだろうが)結果的に今回のオリンピックに

多くのロシア選手たちが参加できたのは本当によかったと思う。

 

 

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