日記帳(2016年8月28日)

 

この週末は天気が不安定な感じだったので,主に部屋の掃除などをして過ごした。

今は特に見たい映画もない。この間見た「シン・ゴジラ」は面白かった。

最近は夜寝る前にユーチューブでカープの試合のダイジェストを見ている。

その日のうちにアップしてくれるので有難い。

さすがにもうの優勝は間違いなさそうなので,今年のプロ野球について一言。

カープの将来は明るい。ここ何年かは「近い将来,強いチームになるだろう」という

期待感があった。今年はようやく個々の選手が安定した力を出せるようになって,

これから先何年かは上位争いできそうなチームになった。

それに,緒方監督を中心にコーチ陣がいい仕事をしていて,チームのまとまりがいい。

前にも書いたが,緒方監督は監督としての能力も人格的にも立派だと思う。

セ・リーグの他のチームの監督と比べても一番好感が持てる。

高橋・金本・ラミレスの3人は新人監督だから,未熟でもまあ仕方がない。

ただ金本監督は,報道陣の前で選手の精神面をネガティブに語るのはやめた方がいい。

若手野手の技術が足りないのは承知で使っているのだから,たとえ打てなくても

「選手たちはこの経験を将来に生かしてほしい」とでも言っておけばいいのだ。

「本人が悔しい気持ちを持てるかどうかだ」などと突き放していては,特に今の

若い選手は「この指揮官について行こう」というやる気を起こさないと思うがね。

それから中日。ここの選手は気の毒だ。特に投手陣,たとえば又吉投手。

今のプロ野球の中で「酷使」という言葉が一番当てはまるのは彼だろう。

どのチームでもリリーフ投手の寿命は短い。

山口(巨人)やかつての岩瀬(中日)は例外であって,年間に60試合程度の登板を

3年続けると,まず肩を壊す。捕手ならそういうことが経験的にわかっているはずなのに,

谷繁監督の投手起用には前から大いに疑問だった。解任の経緯には気の毒な面も

あるが,少なくとも投手陣の何人かは喜んでいるんじゃなかろうか。

純粋に戦力的に言うと,今の野球は外国人選手の成績に左右される面が大きいので,

カープ以外のチームも来年以降はどう変わるかわからない。

ただ,巨人と阪神の来年以降の見通しは明るくないだろう。

巨人は坂本以下の年代の若手野手で名前が挙がるのは岡本くらいで,世代交代が遅れている。

阪神は若手野手が今後どのくらい伸びるか予想が難しい。一番困るのは,中途半端な成績の

選手がレギュラーに定着してしまうことだ。ちょっと前までのカープがそうだった。

東出も梵も広瀬も悪い選手ではなかったが,優勝を争うチームのレギュラーとしては少々物足りない。

強かった頃の巨人は,阿部や小笠原ら中心選手の力量が突出していた。

去年までの阪神も,メッセンジャー・呉・ゴメス・マートンの4外国人の力で上位をキープしていた。

今のカープの中堅〜若手のレギュラー(田中・菊池・丸・鈴木)は,他チームの同ポジションの選手と

比べても個人的な能力が高い。阪神の高山・北条・江越・横田らがカープのレギュラー並みの選手に

なれるかと言うと,それはどうだろうか(原口は打撃はいいが捕手としては無理だろう)。

もっとも巨人や阪神はもともと投手力のウエイトが高いチームだから,野手はダメダメでも

投手陣を整備すれば毎年上位争いをするかもしれない。

野球がらみで,あと3つ。

@今年一番「すげえ」と思った選手はイチローでも新井でもなく,日本ハムの大谷だ。

日本でもメジャーでも,近代野球の歴史上,彼のような選手は一人もいなかったんじゃなかろうか。

2〜3年後には「最多勝+三冠王」を目指してもらいたい。

A野球解説者のレベルの低さは何とかならないだろうか。テレビを見ていて一番いらいらするのは,

投手が投球動作に入っているのに,どうでもいい話を続ける解説者だ。たとえ画面があるとは言え,

アナウンサーは「打った!いい当たり!」とか実況をしたいに決まっている。しかしそういう場面で

解説者の話が続いていると,実況によってその話が中断される。そんなことを繰り返していると,

アナウンサーも解説者もストレスが溜まるだろう。ちょっとは学習しろよ,と言いたい。

ついでに言うと,今一番きらいな解説者は達川だ。彼の解説が好きな人はいるのだろうか。

聞いたことがある人はわかると思うが,選手の好き嫌いが激しくてネガティブなコメントが多すぎる。

他人が悪口を言われているのを聞くのが好きな人は,達川の解説が好きかもしれないが。

ついでに言うと,ラジオのアナウンサーもたいがいだ。解説者に気を使いすぎている人が多い。

リスナーはずっとラジオをつけているわけじゃない。途中から聞き始めた人が一番知りたいのは,

「今どっちが勝っているか」だ。ところが,この情報がいつまでたっても出てこないことがよくある。

ラジオの中継には解説者はいらない。リアルタイムの状況をできるだけ速く伝えてほしい。

B毎度のことだが,中国新聞のカープのコラム「球炎」について。一番過激なことを書いていた

小西記者は今野球の担当を外れているようで,リオからのオリンピックの現地報告を書いていた。

その記事は大変にいい。スポーツ記者としての能力はあるんだと思う。しかし小西さんに限らず,

カープのことになると中国新聞のコラムニストたちは熱くなりすぎる。その結果,監督や選手への

いわれのない中傷や精神論が飛び交うことがよくある。

たとえば先日の東京ドームでの3連戦で,カープは緒戦にジョンソン−マイコラスの投手戦の末に

0−1でサヨナラ負けした。次の試合では7−3で快勝した。

その翌日の「球炎」の書き出しは,こうだ。

マジックは,トリックが分からないから見る者を引き付ける。

あれほど萎縮していた打撃陣が一夜にして,輝きを取り戻したのも一種の手品のようである。

コーチ陣はどんな技法を施したのか。

ここで書き手が「萎縮」という言葉を使っているのは,単に「打てなかった」と言いたいわけではない。

選手のハートを問題にしているわけだ。言い換えれば,こういうことだ。

「第1戦では,打撃陣が萎縮していたから打てなかった。そうでなければ打てていたはずだ」

― これは,相手の投手に対して大変に失礼じゃないだろうか。

第1戦で1点も取れなかったのは,巨人投手陣の技術がカープ打撃陣の技術を上回っていたからだ。

その現実を直視したくない人は,負けたことを技術ではなくハートの問題に帰着させる。

彼らは現実をそのまま見るのではなく,自分が作り上げたストーリーに沿って解釈しようとする。

それがいかに危険なことか,メディアの世界で飯を食っている人間なら当然知っているはずだが。

 

話はがらっと変わって。(しかし多少は関係がある)

相模原市で19人の障害者が殺害された事件で,「警察がマスコミに被害者の氏名を公表しなかった

ことが問題になっているという。映画「ロクヨン」でも,同じようなエピソードが話の軸の1つだった。

映画では警察内部の事情が関係していたが,今回の相模原の事件の場合はどうなんだろうか。

感想を一言で言うと,

遺族の意向に従って被害者の氏名をマスコミに公表しなかった警察の判断は,妥当だったと思う。

マスコミ側の言い分は,おそらくこんな感じだろう。

「警察はマスコミに対して,(被害者の氏名を含む)生の情報を提供すべきだ。

障害者を特別扱いして個人情報を隠すという判断の権限を警察に与えれば,今後それが

広がって,あらゆる犯罪情報の公開・非公開の判断を警察が恣意的に行いかねない。

そうなればマスコミは,警察(を含む権力)の不正をチェックすることができなくなる。

あらゆる情報をマスコミに公開することは,言論・報道の自由の大原則だ。

そして警察から得た情報を実際に報道するかどうかは,マスコミ各社の判断に委ねる

(その判断の結果に対してはその会社が責任を負う)のが筋だ」

このような主張には,確かにそれなりの合理性はあると思う。

そしてこの主張は,「望ましい社会のシステムはどうあるべきか」というマクロの視点に立脚している。

それが悪いとは言わない。しかしぼくは,マクロの視点よりもミクロの視点の方を重視する。

今回のケースでは,氏名を公表することによって一部の遺族が犯罪の二次被害に会う(最悪の場合,

転居や解雇を余儀なくされる)可能性を否定できない。警察から得た個人情報を,おそらく一部の

マスコミは公開してしまうだろうし,それによって困る遺族もいるだろう。

「自分の身内が障害者だったことを世間に知られるのが恥ずかしい」という気持ちを一部の遺族が

持つことに対して,それ自体が不適切だと非難する人もいるだろう。ぼくはそうは思わない。

「警察がマスコミに生の情報を出したからといって,マスコミがそれを実際に公表するとは限らない」

という主張には全く説得力がない。特に週刊誌は,庶民の低俗な欲望を満たすことで売り上げを

伸ばそうとする習性がある。だからマスコミに「良心」を期待することはできない。

そしてここでもまた,個人情報の暴露癖があるマスコミの記者たちは,自分自身に対して

すべての情報を社会に公開することのメリットの方が,少数の個人を(多少)不幸にする

デメリットよりも大きい」という言い訳をするだろう。つまり「個人より社会が大事」という発想だ。

それはかつて「社会(お国)のために戦って死ね」と命じた全体主義思想と本質的に同じだ。

先の戦争中の報道統制への反省から,今日のマスコミは「権力が暴走して全体主義に傾くのを止め,

国民の自由を守る」ことを重要な使命の1つにしているはずだ。だから

「社会全体の利益のためなら個人の思いを犠牲にしてもよい」という発想は,

マスコミが自らの存在意義を否定するに等しい。

結論を言おう。犯罪報道において,被害者の実名の公表は不要だ。

実名を出すかどうかは,基本的にマスコミではなく被害者自身(あるいは遺族)の判断に委ねてほしい。

かつて,受験シーズンになると大学入試の合格者の氏名が新聞に並んでいた。

今では個人情報保護の観点から,そういう情報を載せる新聞はない。

マスコミは,犯罪の被害者にも同じ配慮を適用してほしいと思う。

被害者の実名を出したがるのは,「いじめっ子」的な心性の表れじゃないかと思えて仕方ないのだ。

たとえ大義名分があったとしても,それを口実にして弱者を踏みつけにするのは,いじめっ子の所業だ。

 

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