日記帳(2017年2月5日)

 

今回は重たい話です。

 

 

上の娘は,3月中旬に出産を控えていた。

最初は自宅近くの病院にかかっていたが,親元で出産するために1月12日に福山市内の産婦人科病院へ行った。

そこで胎児の育ちが悪いと言われ,異常が疑われたので福山医療センター(昔の国立病院)へ行くよう紹介された。

1月16日に同病院で診察を受け,「染色体の異常が疑われる」という診断が下った。

翌日に入院して遺伝子検査を受けた。結果は2週間後に出るという。

この段階で子宮口が少し開いており,早産の可能性があるため退院はしなかった。

入院中にいろいろ検査があり,18トリソミーという病気らしいことがわかった。

染色体の異常で一番多いのはいわゆるダウン症で,21番染色体が1本多いため21トリソミーとも言う。

18トリソミーは18番染色体が1本多い病気だ。

1月16日の段階では「18トリソミーの可能性が高いが,ダウン症の可能性もある」という診断だった。

そこからの2週間が,本人にとっても身内にとっても長くつらい日々だった。

どちらにしても,胎児が大きな障害を持っていることは間違いない。

しかし「21」(ダウン症)と「18」とでは,サイコロの目が1か6かというくらい全く違う。

ダウン症の場合は,体や知能に高確率で障害が起こるが,基本的に寿命は短くない。

つまり親が死んだ後も子どもが一人残される可能性が高い。

だから「自分たちが死んだら誰がこの子の面倒を見るのか?」という心配が,親には一生つきまとう。

一方,18トリソミーの胎児の多くは出産の前後に死亡する。

たとえばわが子が出産直後に死ぬのと,障害を持ったまま5歳くらいまで育ってから死ぬのと,どちらかを選ぶか?

と問われるなら,自分が親なら前者であってほしい。

死ぬのにいいも悪いもないが,後先のことを考えると,「どうせ死ぬなら情が移る前に」と思うのは仕方がないだろう。

 

1月27日。MRIで胎児の写真を撮ったところ,ほぼ18トリソミーだろうと診断された。

1月31日。遺伝子検査の結果が出た。やはり18トリソミーだった。

入院中,本人はずっと早産を抑える点滴を受けていた。

予定日まではまだ間があるので,点滴を少しずつ減らして投薬に切り替え,いったん退院することを担当の先生は勧めた。

2月2日。点滴を完全にストップ。その晩,付き添っていたヨメから「破水した」という電話が入った。

破水すると数時間〜1日以内に出産する。

北広島の娘婿に連絡。あいにく本人は酒を飲んでいて車を運転できないため,バスと電車を乗り継いで福山へ来た。

10時ごろ家族が病院に集まり出産の待機室へ行ったが,まだしばらく時間がかかりそうだと言う。

ムコさんはこの2週間,時々仕事を休んで何度も福山へ来ており,今後のことを担当医と相談していた。

出産までは産科の先生の担当だが,出産後は小児科の先生が担当する。

問題は,延命措置をするかどうかだった。

胎児には呼吸困難,心不全などが高確率で起こる疾患があったので,人工呼吸や心臓手術が必要になる。

親としても苦渋の選択だったろうが,二人は「延命措置は基本的にしない」ことを選んだ。

後で調べて知ったことだが,医者が親に(あえて)病気のことを伝えず,積極的な治療を控える(つまり実質的に安楽死させる)ケースもあるらしい。

ムコさんだけを病院へ残し,3人は松永の自宅へ戻った。

それから数時間後,2月3日の午前3時ごろ,「本人が分娩室へ入った」という連絡が来た。

ヨメと下の娘が病院に着いたときには出産は終わっており,胎児は出産中に死亡したそうだ。

生まれたときの体重は約1.200グラム,身長は約40センチだった。

 

その日(2月3日)の朝7時ごろ,いつものように実家へおじいちゃんの朝食の支度に行き,成り行きを伝えた。

午前10時ごろ車で病院へ。山口県の小野田から,ムコさんのお父さんが新幹線で来ていた。

しばらく話をした後,今後の手続きに動き回った。

まず,病院から死産の証明書をもらう必要がある。これがないと火葬の許可が下りない。

北広島の住民が福山の火葬場を使えるのかどうかもわからない。火葬場に電話すると,受付先は市役所だという。

市役所に電話すると,病院の書類は親が窓口へ持って来ることになっているという。

病院の書類作成が手間取りそうなので,いったんムコさんとお父さんと3人で福山駅まで行き昼食。

お父さんとはここで別れ,2人で病院へ戻った。午後1時過ぎに「沐浴」という新生児のためのイベントがあった。

病室へ小さな湯船を持ち込んで赤ちゃんの体を洗い,お父さんお母さんと記念写真を撮るという。

これを横で見ているのが,今回の出来事の中で一番辛かった。

看護師さんは大変優しそうな人で,普通の赤ちゃんと同じように死んだ胎児を扱ってくれた。

これも後で知ったことだが,昔は「奇形児」(今はもちろんこんな言葉は使わない)が生まれると,

医者は母親にその姿を見せないのが普通だったらしい。

今では,今回のような死産の場合,病院側が胎児の処理をどうするかを両親に尋ねる。

このとき「(死んだ子がかわいそうで)見たくないから,(処分は)病院にお任せします」と言う親も多いらしい。

娘夫婦は,(葬式はしないまでも)自分たちの手で火葬し,それまでは寄り添っていたいという道を選んだ。

ロウ人形のような胎児を抱いて決めていた名前を呼ぶのを横で見ているのは,本当に辛かった。

病室は個室だが産科の病棟にあるので,ドアを開ければそこかしこから新生児の泣き声が聞こえてくる。

自分が娘の立場だったとしても,まともな神経を維持するのは難しいと思う。

ムコさんは2週間前から何度も休みを取って,娘の付き添いのために病室に泊まってくれた。

彼には本当に感謝している。

沐浴の後,病院でもらった死産届を持って福山市役所へ行き,火葬場の予約を取って火葬証明書をもらった。

ムコさんは翌日の土曜日が仕事なので,夕方の新幹線で広島へ帰った。

2月4日(土曜日)は夜に病院でムコさんと合流し,4人で食事。彼はそのまま病院に泊まった。

そして2月5日(日曜日)の今日。前日買っておいた一番小さな棺に亡骸を納棺し,午前8時過ぎに退院。

福山駅経由で福山西斎場へ向かった。

ムコさんのお父さん夫婦と息子さん,おじいちゃん,おばあちゃんも,わざわざ小野田から来ていただいた。

皆で折った折鶴や,使うはずだった服やおもちゃなどを棺に入れ,10時から火葬。

生まれたばかりなので(全部灰にならないよう)ゆっくり焼いてもらい,納骨した。

そのあと松永で昼食をとり,山口方面の新幹線に乗る5人を福山まで送って行った。

これでひと区切りついたが,娘夫婦の心の傷が癒えるにはまだ当分かかるだろう。

時が流れるのを待つしかない。

 

今回の出来事を振り返って,いくつかのことを思った。

自分が娘(夫婦)の立場ならどうしただろうか。その場になってみないとわからないが,

「死んだ子の顔を一目は見たいが,あとはできるだけ見たくない(病院に任せたい)」と頼んだと思う。

感じ方の違いというか,愛情を向ける先の違いというか,あるいは身についた人生観の違いというか。

沐浴をしてくれた看護師さんは,後で娘に「お父さんは冷たい人だ。赤ちゃんのことより手続きの心配ばかりしている」と言ったそうだ。

それは看護師さんの人生観から出た気持ちだ。そういう人だからこの仕事を上手にやっているのだろう。

3日の金曜日に,自分はこんなふうに考えていた。

死産の可能性が高いことは事前に知っていたし,実際に胎児が死んだことをいくら考えても現状は変わらない。

それなら先のことを考えよう。ムコさんの仕事の都合を考えると,火葬は日曜日にやるしかない。

日曜日は斎場も混み合うだろうし,2月4日の土曜日が友引なのでなおさら日曜日に葬儀が集中する可能性がある。

だから予約はできるだけ急ぐ方がいい。

明日から週末だから,今日の金曜日中に書類を市役所へ届けて火葬の許可証をもらう必要がある。

当事者(娘夫婦)には,そういうあれこれの手続きを考える精神的な余裕はないだろう。誰かが代行しなくてはいけない。葬儀の受付と同じだ。

そういう「事務屋」的な発想が最初に浮かぶのは,職業生活の中で自分が身につけてきた生き方に由来する。

それを指して「冷たい」「情が薄い」と言われれば,そうかもしれない。

そう考えると,割り切って言うなら「情の濃い」人は情で生きればいいと思う。その情によって救われる人たちもたくさんいるのだから。

一方「情の薄い」人は,情の濃い人たちが「(自分は面倒だからやらないが)誰かがやってくれるだろう」と思っていることをやってあげればよい。

そのようにして両者が補い合って,世の中はうまく回っているような気がする。

人の悩みや愚痴を聞くのが苦手だ。無難に取り繕うことはできるが,相手が本当に求めていることに応えてあげられないからだ。

相手が求めているのは,一緒に泣いてくれることや,一緒に怒ってくれることだろう。

そういう意味での共感力が自分に欠けていることは日頃から自覚している。

自分自身,誰かに悩みや悲しみや怒りを聞いてほしいとは全く思わない。

そういうことは本人が自力で解決するしかないと思っている。

だから「共感」はしてあげられないが,自分にできる範囲で,泣いていたり悩んでいたりする人の役に立ってあげたいとは思う。

そういう意味で言えば,情が足りないわけではないのだ。

 

「死んだ子の顔をなるべく見たくない」理由は,苦しみや悲しみをどう乗り越えるかという人生観の問題だ。

精神のバランスをどう取るかという自己防衛本能と言ってもいい。

要するに,いやなことは一刻も早く忘れたい。覆水は盆に帰らない。

遅かれ早かれ時が解決するのなら,その時期は早い方がいい。

人によってはこう言うだろう。

死んだ子のことをいつまでも思い続けてやることが,その子に対する愛情の証だ。

その子のことをすぐ忘れてしまうような人は,愛情が足りないのだ。

同じことは死んだ親やご先祖様についても言える。墓参りに行かないのは親不孝であり,不道徳だ。

それはもっともだと思うが,自分の人生観は違う。

わたしの人生はわたし自身のためにあると思っているし,家族の一人一人にもそう思ってもらいたい。

娘夫婦の幸せは,死んだ子の年を数えることではなく,次のチャンスを待つことにある。

死んだ子のことを今すぐ忘れるのはもちろん無理だが,過去より未来を優先するような人生観を持ってほしい。

今回,孫が無事に生まれ,仮にその子がダウン症だったら,ということも想像した。その場合も同じだ。

娘夫婦は大変だろうが,悲しいと嘆いてばかりはいられない。責任を持ってその子を育てるしかないのだから。

そうであるなら,その「気持ちの切り替え」は早い方がいい。

自分自身が今までそうやって現実に立ち向かって生きてきたから,家族にも同じことを期待してしまう。

泣いたり愚痴をこぼしたりするのは仕方がないが,最終的には現実を受け入れるしかない。前を向いて生きてほしい。

 

妊娠初期に検査を受けられる(その時点で異常がわかれば堕胎も選択できる)ことは,娘も知っていた。

ただ染色体異常の検査は,高齢出産など医者がその疑いを持ったときだけに勧めるのが普通で,発生の確率も数千分の1にすぎない。

ただし産科の先生の話では,統計に残らないだけで妊娠時の染色体異常はけっこう頻繁に起こっているという。原因はわからない。

だから気に病むことはない。今回はたまたま運が悪かっただけだ。次は大丈夫だろう,とのことだ。

もちろん次に妊娠したら,早期の検査を受けることになるだろう。

娘は今日,たくさんの人から励ましを受けた。入院したときの不安な気持ちに比べれば,多少は落ち着いてもきただろう。

心の傷が癒えるにはしばらく時間がかかるだろうが,これから先の幸福を願わずにはいられない。

親として今回の件を総括するなら,不謹慎かもしれないが,不幸中の幸いだった

それからもう1つ。1つの命が生まれて育つというのは,ある意味奇跡的なことだ。

生きたくても生きられない子もいる。すべての人に,自分の命を大切にしてもらいたい。

 

日記帳の目次へ戻る.