日記帳(2018年5月6日)

 

今日はゴールデンウィークの最終日。あっという間に1年の3分の1が終わった。

生後約3か月の孫

明日からの平常運転に備えて,今日は仕事をせずに休息を取っている。

最近のニュースから話題をいくつか。

 

先日,衣笠祥雄氏が71歳で亡くなった。

氏は現役引退後は一度も(コーチや監督して)ユニフォームを着なかった。それでよかったと思う。

現役時代の衣笠選手を知っている人なら,氏が管理者に向かないことは想像できるだろう。

野球解説者としての語り口からもわかるとおり,衣笠氏は性格が優しすぎた。

中国新聞の追悼記事を読むと,若い頃から「打球を遠くへ飛ばす」ことを追求していたという。

骨折を押して打席でフルスイングしたエピソードも有名だ。

ただしそれらは,「古きよき(?)時代」の話でしかない。

骨折した腕でバットを振っても,ヒットを打てるわけがない。

そういう選手を代打に出す監督は,今ならたぶんネットで叩かれるだろう。

「チームの勝利より個人の記録を優先している」というわけだ。

常にフルスイングしたというのも,チームバッティングを無視した個人プレーだと言えば言える。

しかし昔はそういうことが許されていた。

そういう時代の野球と今の野球のどちらが好きかと言われれば,その答えは人によって違うだろう。

ただ1つ言えるのは,おそらく現役当時の衣笠選手は,個人の理想とチームの勝利のどちらを

優先すべきかという悩みを常に抱えていただろう。追悼記事によればカープが初優勝した頃から

考え方を変えてチームプレーに徹するようになったというが,そんなに単純な話ではないと思う。

打者としての衣笠選手は調子の波が大きく,打てなくなるとひどく悩むタイプだった。

要するに,神経が繊細だった。それが彼の人間味であり,ファンに愛された1つの理由でもある。

ただ,そういう性格の人は管理者には向かない。

緒方監督はかつて「監督に一番不要なものは『情』だ」と言った。そういう人でないと監督は務まらない。

(ちなみに中国新聞のカープコラムはその真逆で,薮田や会澤を引き合いに出して

「緒方監督はもっと選手の気持ちを考えるべきだ」という的外れの批判をしているが)

衣笠氏の優しい性格は,本人にとって得なことも損なこともあっただろう。ご冥福を祈りたい。

 

つい2日ほど前,イチローがマリナーズと新たな契約を結んだというニュースが流れた。

今期の残り試合を選手としては出場せず,球団のアドバイザーになるという。

ただし来年,選手として復帰する可能性は残っている。

このニュースに対しては「なるほどなあ」と思った。関係者全員の熟慮の結果だろう。

あれだけの選手の引き際をどうするかは,本人にとっても周囲にとっても大きな問題だ。

イチロー選手本人がどう考えているかは知らないが,来年3月に東京で行われるメジャーの開幕戦に

選手として出場し,それを引退試合にするのがベストじゃないかと思う。

村田選手や梵選手のように,都落ちしても現役を続けようとする人もいる。それも本人の選択だ。

ただイチローほどの大選手には,「きれいに」引退してほしいと一ファンとしては思う。

 

TOKIOの山口達也が女子高生に対する強制わいせつの容疑で書類送検された。

この事件で,女子高生とその親がネットでバッシングを受けているという。

女子高生やその親を責める人たちの気持ちは,わからないではない。

相手が誰であれ,その年頃の少女が寄った男の部屋へのこのこついて行くこと自体,おかしいのじゃないか。

まして相手は業界の人気者だ。その女の子の方にも,何かしらの下心があったのじゃないか。

そして親は,自分の子どもにどういう教育をしているんだ。

― そういう批判は,まあ理解できる。

ただ,子を持つ親としての経験から言うと,子も親も気の毒だなあと思う。

親がいくら熱心に「しつけ」をしようとしても,あの年頃の子は親の言うことを聞かないものだ。

みんながみんなそうではない。ただ「言うことを聞かない子」は,親が何をしようと,その時点で「まじめ」にはならない。

しかしそういう子も,社会に出ればたいていは「まともな大人」に変わっていく。

思春期特有の病気みたいなものだ。必ずしも子ども本人の責任は問えないし,親が全面的に悪いわけでもない。

今回の女子高生にしても,何年か後には「そんなこともあったね」というところに落ち着いているだろう。

こういうことは,親子の葛藤を実際に経験した人でないとなかなかわからないだろう。

かりゆしの「アンマー」じゃないが,十代の頃の自分の愚かさを悔いている大人は大勢いると思う。

この事件に関して,和田アキ子が次のように語っている。

「事件は事件として、ある意味ほっといてあげるっていうのも、加害者、被害者含めて人としての優しさのような気がする」

賛成だ。それが良識ある大人の対応だと思う。

 

福田財務事務次官が,女性記者へのセクハラ疑惑によって辞任した。

きっかけは,テレビ朝日の女性記者が,自ら受けたセクハラの録音を週刊誌(新潮)に持ち込んだことだった。

上司に相談したが「君が受けたセクハラの報道はできない」という趣旨のことを言われたからだという。

これも,いろいろ考えさせられる事件だった。すっぱり割り切って「こうだ」と言えるようなものではない。

そもそも,福田氏のような人物のところへ女性記者を取材に行かせるのはなぜか?

答えは明らかだ。「福田さんは女好きだから,女性の方が話を引き出しやすい」と上司は考えたに違いない。

もっと露骨に言えば,「色仕掛けでネタを取って来い」ということだ。

だから,取材する側もされる側も,ある程度のセクハラ(まがいのこと)は折り込み済みだったはずだ。

今回のケースでは,福田氏と女性記者との間で「ここまでのセクハラならOK」という線引きがずれていたにすぎない。

女性記者の上司が「報道できない」と言ったのも,しごく当然だ。

そういう「セーフかアウトか」をめぐるぎりぎりの攻防が取材現場では常識だろうが,公にはそんなことは言えない。

セクハラというのは,ゼロか100かの問題ではない。

受付カウンターに若い女の子が並んでいるのを見て「これはセクハラだ」と思う人だっているだろう。

要するにセクハラとは「受けた側の感じ方」の問題であって,いじめや暴力と全く同じ図式だ。

「ここまではOK,それ以上はダメ」という,万人に通用する基準を決めることは不可能だ。

もちろん「一切ダメ」なんていうのも無理だ。

仮にあなたが会社で「来客にお茶を出してくれ」と部下の女子社員に命じたとき,その社員が「なぜ女性が

お茶を出さなくてはいけないのですか?それはセクハラです」と答えたら,あなたはどう反応するだろうか。

結局のところ,セクハラもいじめも暴力も,人と人とが接する場面で起こるすべてのトラブルは,

各人のコミュニケーションの質の違いによるのであって,「いいか悪いか」という判断にはなじまないと思う。

 

自衛官が国会議員に暴言を吐いたという事件があった。これも,何か釈然としない。

報道によれば,現職の幹部自衛官が民進党の小西議員に「おまえは国民の敵だ」という暴言を吐いたという

(自衛官本人はその発言を否定しているが,ここではそういうことにしておく)。以下は毎日新聞の記事だ。

自衛隊統合幕僚監部の3等空佐が民進党の小西洋之参院議員を罵倒した問題で、野党は(4月)18日、

小野寺五典防衛相が「若い隊員なのでさまざまな思いがある」と発言したことを問題視して批判の姿勢を強めた。

小野寺氏の辞任を求める声も出た。 

小野寺氏は17日に記者団に「彼も国民の一人なので、当然思うことはあると思う」とも語った。

その後に「ただ、それを口にするかどうかは立場をおもんぱかって対応すべきだ」と続けてはいた。 

この発言に対し、共産党の穀田恵二国対委員長は記者会見で「ことの本質を全くわかっていない。

辞任に値する」と批判。民進党の小川敏夫参院議員会長は党会合で「内心の自由があるとしても、

それをコントロールできない方が防衛省の指導的立場になるのは不適切だ」と指摘した。 

この件について「釈然としない」理由はこうだ。

AがBに「おまえは国民の敵だ」という暴言を吐いた。

Aは幹部自衛官であり,Bは国会議員だった。

仮にAとBのどちらかが一般人なら,ニュースにはならなかっただろう。

したがってこの事件の背景には,AとBの肩書き(社会的地位)がある。

反面,上の記事にあるとおり,「内心の自由」というものはある。この場合は「表現の自由」と言ってもよいだろう。

「国会議員に対する暴言は許されない」という発想は,権力を絶対視することによって表現の自由を危うくするものだ。

わかりやすい例を挙げてみたい。ある自衛官(幹部でもヒラでもいい)が,次のような意見を自分のブログに載せたとする。

@わが国を守るためには,徴兵制が必要だと私は思う。

A私は自衛官だが,自衛隊は必要ないと思っている(ただし上司の命令は忠実に遂行する)。

これらの意見は,非難に値するだろうか?ぼくは「許してよい」と思うし,「許されるべきだ」とも思う。

前にも書いたが,「言論の自由」「表現の自由」と「マナー」の問題とは次元が違う。

たとえばAくんがBさんに「君はブスだ」と言ったとき,「表現の自由だ。ぼくは悪くない」という言い訳は通用しない。

Aくんが責められるべき理由は「マナーが悪い(相手に失礼だ)」ということだ。

上記の@Aは,そういう意味でマナーに反してはいない。発言の相手を特定していないからだ。

では,今回の自衛官の暴言はどうだろうか。

仮に彼が「おまえは国民の敵だ」と誰かに言ったなら,それはマナーに反している。

しかしそれは,「おまえの顔が気に入らない」と言ったのと本質的には変わらない。

つまり,発言の社会的文脈が問題なのではなく,相手を不快にさせる言葉を使ったことが問題なのだ

今回の自衛官の発言に対して,言われた国会議員が「けしからん」と腹を立てるのは当然だ。

しかしそれは彼ら二人の間の「マナー違反」という問題でしかなく,それ以上の意味を付与すべきではない。

共産党の委員長が言う「ことの本質がわかっていない。辞任に値する」という発言は間違っていると思う。

そういうふうに「話を広げたがる」人が,日本人には多い(気がする)。それをぼくは「マクロ病」と呼ぶ。

(時として過剰な)「忖度」という日本独特の文化的風土の背景には,その種の発想があるのではないだろうか。

 

四国から逃げてきて向島へ潜伏していた脱獄犯が,先日広島で逮捕された。

この事件については,「なぜ本人にGPSをつけておかなかったのか」という批判がある。

当然だと思う。それとの関連で言えば,広島の警察署の金庫から数千万円が盗まれた事件も未解決だ。

これも,金庫なり警察官なりに何らかのセキュリティを施しておけば防げただろう。

では,来年4月に大崎上島に開校される予定の叡智学園のケースはどうだろうか。

当初は,生徒全員にウェアラブル端末を持たせて,体調のデータなどを管理するという方針が発表された。

その後批判を受けて,端末は希望者のみに持たせることにしたそうだ。

これに関して言うと,全員に持たせてもいいと思う。

デメリット(プライバシーの問題)とメリットを天秤にかけると,メリットの方が大きいと思うからだ。

(ただし「各人に判断させる」という方針も,それはそれで教育的効果が期待できる)

こういうケースで,デメリットの方にばかり目を向けて批判する人が少なからずいる。

マンガやアニメの海賊版サイトの規制についてもそうだ。

規制する法が整備されるまで待つべきだ,という意見には一理ある。

しかし,特殊詐欺の場合と同様に,そんな悠長なことは言っておられないという現実の方が大切だと思う。

たとえば銀行は,高齢者が一定の条件を満たすと預金通帳を使えないようなシステムを既に作っている。

通帳での振り込み金額が1日当たり10万円までという規制もある。不便だが仕方がない。

それらは「自由が多少制約されるが,トータルで見ればメリットの方が大きい」という判断による。

そういう物の考え方がまともな大人の発想だが,世の中にはそうでない人もたくさんいる。

たとえばきのうの新聞に,「原爆ドームの上を米軍の飛行機が飛ぶことに賛成か反対か」というアンケートを実施した団体の話が載っていた。

「平和の象徴の上を軍隊の飛行機が飛ぶことは許さない」というある種の「宗教」がいかに危険なものであるかを,彼らは理解していない。

お隣の韓国では歴代の辞任した大統領が国民のストレスのはけ口になっていて,法治国家ではなく情治国家だと揶揄されている。

日本はそういう国であってほしくない。

そういう意味で,「生理的に受け付けない」という感覚に依存してものごとを判断する人々は,社会にとって益より害の方が大きいと思う。

 

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